第2話 痛くて甘い

 朝の日差しは思っていた以上に閉ざした瞳に刺激を与える。あくびの中に昨日を思い出すが辛くなかった。夢の中の話に近いようにも感じるほど心は回復していたのかもしれない。昨日の御馳走はおいしかったし、お父さんとの電話も久しぶりに盛り上がった。だから雪は今日も普通の女子高生。身支度をして、朝ごはんを食べる。お弁当を忘れそうになったけど、自転車は普通にこげる。何ら変わらない毎日が再び始まろうとしていた。


甘かった。


花瓶に花。


丁寧に根っこまでつけて。こういうのをドラマで見たことがある。典型的にいじめられている私。こういう時ってどうすればいいんだっけ。雪は周りから送られる悲愴な視線に吐き気がした。胸に手を当てゆっくり、ゆっくりと自分の机に向かう。目の前まで来ると事の重大さを知らしめられる。そしてそっと花瓶に触れると冷たい表面に現実が目を開ける。

「あれ~?丸山さんって昨日死んじゃったんじゃなかったんだっけ~?」

黒雪の声に周りの何人かがくすくすと笑う。雪はこの時もうすでにこの教室に味方はいないんだなと悲しくなった。でもだからって負けない。しかしその強い意志もすぐに折れることとなる。花瓶の花を見つめる雪に黒雪が近づき、まるで雪を気遣うような口調で話しかけた。

「こんなひどいことしたの誰~?丸山さん、今片付けてあげるからね」

黒雪は花瓶の口元をもって雪の両手から奪い取った。それは静かだった。上から容赦なく流れてくる水に、鼻の奥がつんと痛む。それは徐々に頭から顔へ、首、肩、胸、腕や腹。地面にぽたぽたと落ちるころには雪の脚は立っていられなくなっていた。顔を隠して弱い自分に泣いた。理不尽さに泣いた。なんで私だけ。体が濡れているせいかまるで全身から涙が出ている感覚に陥った。それが余計につらくなって涙の粒を膨らませる。熱くて冷たい。声にならない声が喉を通過する。次の瞬間には頭皮に痛みが走る。強制的に雪の顔面は上を向かされ、今、髪の毛をつかまれているのだと実感する。

「いっ・・・」

顔を隠していた両手に力はなく、ぶらんと死んだよう。目の前には微笑む黒雪。あからさまに近い顔に雪は困惑する。

「ふーん、結構いい顔してんじゃん」

そういうとおもむろに黒雪の唇が雪のそれを優しくふさいだ。ふわっと風が吹いたような感覚に雪は目を見開く。ツーっと落ちる涙に芸術的な音が流れる。何が起きたのか理解するのに時間が必要だった。ほんのり甘い香りと、ワセリンの味。黒雪の長い髪の毛の一部を巻き込んで、それが心地よさをかき消す。どれくらい経っただろう。たっぷりと余韻を含ませながら伸びる唾液に雪の頬は赤く染められていた。再び微笑む黒雪。口元が動く。雪の耳はその言葉を拾うことができない。今のはいったい...。キス...。雪はさっきまでの辛さをかき乱されて焦っていた。黒雪から受けた仕打ちと甘いキス。雪にとって初めてとなるキスが、あまりにも熟成されていて、それが心にねっとりと張り付いて離れなかった。きっと私をからかっているんだ。今も放心状態の私をさげすむように笑っているではないか。濡れている体と激しく動く心臓に恥ずかしさを覚えて、また涙を流しそうになる。そっと心の中でお母さんに謝って、そのまま教室を後にした。


目が覚めたころには日が沈んでいた。水族館で買ってもらったイルカのぬいぐるみを大事に抱きしめて、雪は体を縮こませる。精一杯全身を丸めて。そうしているとなんだか隠れている気分になるのだ。誰にも見つからず、誰よりも自由でいられる。お母さんには体調不良だと伝えよう。自分で自分を落ち着かせていくと自然に体の力が抜けていく。布団のぬくもりに体が慣れてきて、冷え切った手足に血が流れ始めるころには深い眠りについていた。


 朝というのはどれほど残酷なものなのだろうか。小鳥のさえずりが現実を思い出させる。ゆっくりと体を起こして、一階へと降りる。いつも通りのお母さんが台所にいて、おはようと声が聞こえた。雪は答えられない。唇を小さく噛んで息を止める。ソファの上には乾いた制服。泣きそうになるのをこらえて身支度を済ませる。ポケットから何かが落ちた。ミントブルーのヘアピン。お気に入り。一番嫌いなもの。雪はそっと拾い上げて、丁寧に机の上に置いた。今日は普通の日常でありますように。そう強く願って逃げ出すように家を出た。


 登校中、自転車をこいでいる間、雪は今日されるかもしれないいじめの内容を考えていた。机の落書き、無視、上履きの紛失、もしかしたら机や椅子もなくなっているかも。少しだけでも想定の範囲内だと心が軽くなると考えていたのだ。正門をくぐり、正面玄関で上履きを確認してほっとする。長い廊下と階段を上がって、教室に入るがいつも通りの机と椅子がそこにある。雰囲気もみんなの視線も気にならなかった。終わってくれたのだろうか。黒雪の存在が確認できないのと、この状況が雪を安心させ、ようやく普通の日常がやってきたと肩の力が抜けた。

 チャイムが鳴って先生が少し遅れて教室に入ってくる。出席を取っていてもやはり黒崎雪は出てこなかった。深く息を吸い、ゆっくりと時間をかけて吐き出す。窓から見える晴れた春空が今日を祝福しているよう。

 この日は本当に黒雪は来なかった。おかげでいつも連れてる二人は静かで、もちろん私にかまわなかった。相変わらず雪は一人でいたが、それが雪にとっての日常で、今一番の願いでもあった。しかし明日は分からない。

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