第1話 出会い
春。
「制服かわいいわね。うん、似合ってる」
母が化粧をしている姿を見るのは初めてかもしれない。いつもと違う母に声をかけられた雪はなんだか照れ臭くなった。
「そうかな、少し大きくない?」
「そんなの当り前よ。ほらさっさと朝ごはん食べちゃいなさい。入学式10時からでしょ?」
父と母が結婚した当時から使っているといつの日か聞かされた、光沢を失った木製のテーブルに並べられたいつものメニューにほっとする。白いご飯にわかめと豆腐の入ったお味噌汁、それとたらこ。これが雪にとって一日の始まり、ルーティーンなのである。ただの入学式と言えど見知らぬ人が多くいるというだけで雪は目まいがする。心臓の音も近くで聞こえてくる。だからこの朝食はとてつもなく雪にとって心強かった。そしていつもよりもちゃんと聞こえるようにいただきますと言った。
「そうだ、今日お父さん来るの?」
手鏡を見ながら髪の毛のチェックをする母に尋ねる。
「今日も忙しいみたい。かわいい愛娘の晴れ舞台だというのに」
「そっか」
明らかに落ち込む雪を母は背中で感じ取り、手鏡を見たまま雪を励ました。
「写真撮ってお父さんに自慢しちゃおっか」
こういう、一瞬で人を明るくさせる母の性格に何度励まされたか。雪は改めて尊敬した。
「当たり前でしょ」
母をまねた口調で雪も返事をする。
「後片付けは大丈夫よ。先行ってなさい」
雪はその言葉に従い、準備を済ませる。
「じゃあいって来るね」
新しく買ったローファーに足を通し指先で感覚をつかむ。いい感じ。目の前の全身鏡で、胸に付けた赤いリボンを調整し、都会にしては長めのスカートを両手で少し払う。最後にショートボブにアクセントとして付けた大きめの、ミントブルーのヘアピンをつける。よし。雪は表情を作って勢いよく扉に手をかけた。
「皆さん、入学おめでとうございます。これからの学園生活、思う存分楽しみましょう!私は皆さんの担任をすることになった加藤舞です。舞先生って呼んでね」
入学式を無事に終えた雪は1年5組の教室にいた。中学の卒業式とは違い、周りの雰囲気がピリピリしているのは仕方がないのだろう。しかしそれは雪の最も苦手な空気。体調が悪くなりそうなのを必死でこらえるため、舞先生の茶色く揺れる奇麗で長い髪を眺める。そういえば。雪はなんとなく入学式のことを思い出していた。同じ名前の子がクラスにいるはず。名字はえっと、緊張していたせいで思い出せない。でも確かに『ゆき』と舞先生は言っていた。どんな子だろう。仲良くなれるかな。
チャイムが鳴り、今日は気をつけて帰るようにと解散の号令がかかった。もちろんにぎやかにはならない。それは雪にとって好都合だった。今はまだ「溶け込めない」を環境のせいにできる。雪は新しいリュックサックに配られた教科書類をしまい、口を閉めた。帰ろ。息苦しさは意外とそれほどでもなかったが、今この場に居座っていても何も起きないし、何よりも今日は疲れたから、雪は帰り支度をして席を立った。もちろん静かに、そしてなるべく顔が見えないように下を向いて歩き始める。こういう動作を無意識にやってしまう自分が嫌いだった。しかしだからといって勇気も出せない。昔からそういう性格なのだ。一人、二人、多くない人をかわしていく。感情のない私の足はそのスピードを徐々に上げていく。
「ねえちょっと」
気づかない私。
「丸山雪!」
急に名前を大声で叫ばれ、一瞬だけ本当に体が宙に浮いた。視線が集まる雰囲気を感じ取った雪は顔が熱くなり、肩ひもを持つ両手に力が入る。口の中の水分がなくなるのには少しだけ焦った。そして恐る恐る声の方向に顔を向ける。しかし声の正体は分からない。みんな私の方を見ているせいもあるし、なんたって誰がどの声をしているかだなんて分かるはずもない。しかしそれはすぐに解決した。
「丸山雪。一回で返事しなさいよ。なんであんたのために大声出さなきゃいけないのよ」
私の名前を叫んだ女は机に座っていた。行儀よく足を組んで。私はこの時、あぁ絡まれてしまったと落ち込んだ。そして最悪とも。なんせ、入学式からばっちりお化粧を決めて、二人の子分らしき女を連れているからだ。よくないものに決まっている。雪は乾ききった口から声を振り絞る。
「な、なんですか」
雪の声を聞いて女は少し後ろの子分二人に視線だけを配せる。
「同じ『ゆき』同士、これからは仲良くしましょう」
雪の中から友達という言葉が消えた。これから始まる学園生活の土台を簡単に壊されてしまった。こんなにも早くになくなってしまうと逆になんとも思わないんだな。お母さんはよく私に、人は見た目で判断してはいけないと言うけど、今回ばかりはごめんねお母さん。絶対悪い人だよ。15歳ながらも人に対して敏感な雪にとってその判断は容易なことだった。しかしわからない。なぜ私に声をかけたのか。同じ名前だから?確かに私も探そうとしたし仲良くしたかった。でもあなたは違うじゃない。そんな挑発的な態度。なんで私に声をかけたのよ。雪は緊張や怯みよりも疑問の気持ちが大きくなっていくのを感じた。だからといって聞けないのが丸山雪という少女なのだが。
「無視?」
悪い方のゆきが私をまたびくりとさせる。今度は恐怖の方。
「いや、でも友達になれるかな」
咄嗟に出た言葉に雪はハッとする。額に汗がにじみ始め、体中が熱くなる。悪い方のゆきは顔をしかめてはあ?というような表情。
「その、そういう意味じゃなくて、その」
次の瞬間には、私のもとにゆっくりと近づいてきている。雪は少しだけ視線を下に外して足音を感じ、しかしそれでも耐えられなくなった雪はぎゅっと目をつむる。意外にも勢いのまま風に乗せられたいい匂いは悪者ではなく、優し気な、どこか懐かしささえ感じさせ、もしかしたらこの人は本当に私に興味をもって友達になってくれるのではないかと思うほどだった。もう、すぐ目の前に来ている。そっと目を開け顔を上げる。悪いほうのゆきはそれを確認して、なんとも悲しげな表情を雪に見せた。大げさすぎるくらいに首を横に振りながら。甘い。耳元でささやかれたと思ったら、私の瞳孔は大きく開き始める。
「友達?私は仲良くしたいだけ。あなたは私と同じ名前ってだけで罪なの。分かる?二人もいらないの。邪魔なの。だからそうね、死ね。まではいかないけど手助けくらいならしてあげるわ。明日から、仲良くしましょうね。黒崎雪。漢字まで同じとかほんと汚い」
ゆっくり、時間をかけて、濃厚に私の脳みそを燃やしていく。この学園に入ったのが間違いだったのか、それとも私自身のせいなのか。名前が同じだからという理由で私は本当に消されてしまうのだろうか。たった今起きたことを必死で復習してみるがやはりどうしてなのかがわからなかった。瞳に焼き付く彼女、黒雪の悲しげな表情は私の影となり、後ろに張り付いて離れない。こういうあからさまに弱肉強食の世界は存在して、食べられる側の私は何もできないんだなと教室を出ていく黒雪の背中を目で追いながら、怒りを堪えた。そして急に恥ずかしさが胸の奥からこみ上げてきた。こんな状況になるのなら、ミントブルーのヘアピンなんてつけてこなかったのに。こんなことになるのがわかっていたなら、もっと目立たないでいたのに。思えば思うほど悲しくなってきて、そして丁寧にヘアピンを外してまだ新しい制服のポケットにしまった。
「ただいま」
帰り道は暗く重かった。まだ記憶は新しく、自転車をこぐ力は残されていなかった。あの表情。あの言葉。死ね。全てに雪の不安を乗せて体中を駆け巡る。そしてそれは家に帰ってからも雪を憂鬱とさせた。台所に立つお母さんの返事を聞いて余計に心が重くなる。今日はパートを休んで、私のために御馳走を作ってくれるんだった。
「おかえりなさい。もう少しでできるから手洗って待ってなさい」
春の初めはまだ肌寒く、日が落ち始めるとそれが顕著に分かる。玄関を開けてからしばらくそこに立ったままの雪は家のぬくもりに涙を流しそうになった。暖かい空気、いつもの匂い、音、声、つけっぱなしのニュース。謝りたくなった。こんな私でごめんね。でもそんなことじゃない。ごめんなさい。学校でのことは言いたくないし、言えない。言わなきゃいけないのは分かってる。そういう類のニュースを二人で見た時も、お母さんはいつも何かあったらお母さんに言うのよって言ってくれた。でもやっぱり今は言えない。お母さんを悲しませたくない。それだけじゃない、まだ負けてない。もし本当につらくなったら。その時に言おう。雪は自然と前向きになっていた。
「お母さん今日のご飯なに?」
台所を覗く雪の表情はいつも通りだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます