彼女はもうどこにもいない

月花

第1話

 僕の一日は、彼女の泣き声で始まる。


「……ああ、うん、うん。今行くから」


 ぼやけた視界。壁の計が示しているのは朝の六時。窓ガラスの向こうはうっすら明るいが人影はない。


 僕はブランケットを投げ捨て、右足で靴を探した。まだぼんやりとした脳内に響き渡るのはアリスの訴えるような声だ。


「アリス、どこにいるんだ?」


 声の方向からしてダイニングだろうか。お腹が空いて目が覚めてしまったのか、はたまたお気に入りの玩具が見つからなくて癇癪を起しているのか────どちらにせよ、ご機嫌斜めらしい。


 廊下の電気をつけてドアを開ける。アリスはやはりダイニングルームで両手を広げて寝転がり、ぎゃんぎゃん喚いていた。


 どこからそんな力が湧いてくるのか不思議でならない、と苦笑を浮かべつつアリスを抱きしめ、ゆっくりと背中を撫でた。


「おはよう。朝ご飯にしようか」

「うー」

「ねえ、今日は何が食べたい?」

「んん、うー……わかんない……」


 アリスは落ち着いたのか、甘えるように頬ずりを繰り返す。


 ずっとこうしているわけにもいかないから、僕はアリスを座らせた。正面に向かい合って、エメラルドブルーの瞳をまっすぐに見つめた。


「さあ、アリス。お着替えして」

「や!」


 ぷくっと頬を膨らませたアリス。着替えが面倒くさいのだろう。とは言え寝ている間に汗もかいているだろうし、そのままというわけにはいかない。僕はアリスの頭を優しく撫でて、わざとらしい口調で言い聞かせる。


「アリスがお着替えしてくれないと朝ごはんが食べられないよ。……あーあ、今日はせっかくパンケーキを焼いてあげようと思ったのになあ。残念だよ」

「……じゃあアリス、おきがえする」

「よし。一人でできる?」

「できる!」


 アリスが頷いたのを見てキッチンへ向かった。ボウルと卵、牛乳、それから小麦粉を用意する。後でかけるためのバターとメープルシロップも忘れない。目分量で材料を放り込み手早くかき混ぜた。


 ちらりとアリスの様子をうかがうと、袖から手を抜くことができず、部屋中をドタバタ走り回っていた。すっかり笑顔だが、おもちゃ箱をひっくり返して部屋中がめちゃくちゃだ。僕はため息を飲み込んだ。


 フライパンに油を注いでから「こっちにおいで」と声をかけると、アリスは嬉しそうにやってきた。いつの間にか時計の針は七時まで進んでいた。


 こうして僕の────僕ら夫婦の慌ただしい一日が始まる。


 アリス・ウイリアムズは明後日で二十七歳になる、僕の妻だ。

 





□ □ □



 ずっと悪い夢を見ているのかもしれない。


 アリスがこうなってしまったのは、今からちょうど二年前のことだった。


 あの日、僕はいつものようにアリスと娘のマリーに見送られて会社に向かった。その頃マリーは三歳になったばかりで、僕と同じ茶色の目をもつ女の子だった。


 僕は仕事に励んでいた。書類を作ってサンドウィッチを食べて、たまに煙草を吸って、そう、何の変哲もない一日だったのだ。


 すべてをガラリと塗り替えたのはたった一本の電話だった。


「アリスとマリーがいない。家が荒らされている」


 その瞬間僕の呼吸は止まった。恐ろしくて、恐ろしくて、手足が痺れた。すぐに我に返って家に走る。


 ドクドク脈打つ心臓。すれ違うパトカー。耳をつんざくようなサイレン。家の周りに張り巡らされた黄色のテープ。人だかり。何人もの警察官に囲まれながら二人の帰りを待った。気づけば夜になって、朝が来て、それでも二人は帰ってこなかった。


 そして三日後、僕の前に現れたのはアリス一人だった。


 その時にはもう、何もかもが遅かったのだ。






□ □ □



 アリスとの朝食が終わって皿洗いをする。冷たい水と洗剤が指先の荒れたところに染みていく。つい顔をしかめてしまうが、この鋭い痛みにもずいぶん慣れた。


 アリスといえば、クレヨンを手にして壁に向かっていた。真剣な表情で青色をぐりぐり押し付けている。今さら止めはしない。ダイニングから寝室まで、とっくに彼女の芸術活動で埋められているのだ。


 洗い物がひと段落したところで、アリスの後ろに回り込んだ。


「ねえ、何を描いているの?」

「うーんと、ねこ」

「青色の猫?」

「そう! アリスとあそぶの!」


 他にもいろいろ尋ねてみるが、途中からお絵描きに夢中になってしまったアリスに僕の声は届かない。しばらくはこの調子だろう。


 やれやれとため息をついてから、アリスが散らかしたクレヨンを一つずつ拾って箱に戻していく。そのほとんどがすり減って短くなっていた。そろそろ新しいものが欲しいと言っていたけれど、確かに替え時かもしれない。


 僕は引き出しを開けて新しいものを出してくる。アリスに気づかれないように、そっとすり替え────ああ、いけない。忘れるところだった。箱を開けて赤色だけ抜いてゴミ箱に放り投げた。放物線を描き、消えていく。


 アリスは赤色を見るとおかしくなってしまうのだ。その理由は考えたくもなかった。



 昼過ぎになってアリスのお絵描きはやっと終わりを迎える。遊び疲れたのか、瞳がとろんと溶けていた。僕はブランケットを持ってきてソファの上に広げた。


「アリス、そろそろ寝ようか」


 優しい声で促す。ここで素直に頷いてくれればいいものを、そう上手くはいかないのが現実だ。


 アリスはぐずるようにクレヨンを投げつけてきた。真っ直ぐ飛んでくるそれをよけることもできず、額に軽い痛みが走る。思わず額をさすっているうちに次のクレヨンが飛んできた。


「や。いや!」


 清々しいまでの拒否。


 彼女は『寝る』という行為が苦手らしく、時々八つ当たりをされてしまう。本当の子どもだったならまだ可愛いもののアリスは成人女性だ。暴れられればこちらも無傷でいられない。しかし手荒く押さえつけるわけにもいかず僕は頭を抱えた。


「アリス、眠いんだから寝ようよ。僕が一緒にいてあげるから。それと物を投げちゃいけないって前にも言ったでしょ」

「やー! しらない!」


 無理やり抱き上げようとするが、アリスは腕を振り回して抵抗した。けれど無視して進める。何度も頬を引っかかれ、髪を掴まれ、ぐずぐず泣かれて、僕は情けなさのようなものを覚えた。


 かつては穏やかで、少し恥ずかしがりやで、でも柔らかくはにかんでいたアリスが、今では感情に任せて泣き喚いている。もう子どもではないのに、子どものようにふるまうのだ。僕のことなんてすっかり忘れて。


 これに憤らずにいられる人間がこの世にいるのだろうか。


 そこまで考えてふと我に返った。胸の詰まるような感覚と、アリスの宝石みたいな涙。とてつもない罪悪感に襲われて唇を歪めた。 


「……駄目だなあ」


 僕はアリスを引き寄せる。華奢な背中に腕を回しぎゅうっと力をこめる。ごめんねと呟くと、アリスはしゃくりあげた。それすらとても気の毒で、何度も「ごめん」を繰り返す。


 アリスには僕しかいないって知っているのに、時々絶望しそうになる僕はろくでなしだ。


 彼女の背中をさすっているうちに寝息が聞こえてきた。泣き疲れてしまったのだろう、目元は赤く腫れている。ますます痛む心を静めて彼女の身体を抱き上げ、そっとソファに横たわらせる。


「おやすみ」


 額にキスを落とす気にはなれない。ソファの前に座り込んで長く息をつく。いけないと分かっているのにこれが癖になってしまった。


 煙草を吸おうか迷ってから、携帯電話の連絡帳を開き友人の名を選ぶ。短いコール音の後に「もしもし」と彼女の声が聞こえた。


「もしもし、エマ。ちょっと時間ある?」


 尋ねた瞬間、電話越しに舌打ちされた。


『あるわけないでしょ。ったく、あんたっていつもそうよね。口だけ気を遣っても無駄なのよ、そこのところわかってないのね』

「ごめんごめん」


 エマのいらだった声が耳元で響いた。

 仕事が立て込んでいる時間に電話をかけてしまったことは申し訳ないが、アリスが昼寝をしている間でないと連絡も取れないのだ。


 アリスの主治医でもあるエマは『で?』と問いかけてくる。


『あたしに何の用? アリスの診察ならこっちに来てもらわないと無理よ』

「ああ大丈夫、そんな深刻なことじゃないから。ただ」

『ただ?』

「ちょっと疲れたなあって……」 


 少し慰めてもらいたかっただけなのに、重苦しい無言が続いた。口に出したことを後悔するには十分な時間だ。


 僕の憂鬱に巻き込みたかったわけではないから笑って誤魔化そうとするが、僕より早くエマが口を開いた。


「あのね、何度も言ってることだけど、あなた一人で背負い込む必要はないの。あなたまで潰れたらどうするのよ。いざとなったら施設に預けるっていう手もあるし、あたしだって協力してあげられる。それを忘れないで」

「……ありがとう。考えておくよ」

「そうしなさい。あなたは何も悪くないのよ」


 彼女の声はいつになく優しかった。


 僕はちらりとアリスを見やる。静かに眠っているけれど、時々苦しそうに顔を引きつらせている。怖い夢でも見ているのかもしれないと頭を撫でてやると、少し力が抜けた。

 


 



□ □ □



 しばらくたった夏のある日、たまには遠出でもしようかと思い立って、アリスを車に乗せた。

 

 途中ぐずることもあったがおおむね機嫌がいいらしく、窓の外を楽しそうに眺めていた。ガラスにべったりと指紋をつけながら、目を輝かせている。


「うみ! きらきら!」

「うん、綺麗だねえ」

「アリス、およぎたい」

「そっか。また今度泳ぎに行こうね」 


 目を細める。また今度がいつになるのかを僕は知らない。


 ゆっくりと車を走らせる。後部座席に座るアリスは足をバタバタさせながら歌い始めた。ときどき音の外れるそれに黙って耳を傾けた。


 君はもっと上手に歌えたはずなのに、なんて言葉を飲み込んで、僕も一緒に口ずさみ始める。アリスの声が一段と大きくなった。


 何回か歌ったところで喉が渇いたのか、アリスは水筒のストローを口に含んでいた。


「零さないように、ゆっくりね」


 アクセルを踏むと音もなく加速した。アリスはまた外の景色に夢中になって、窓に額をくっつけていた。振動で揺れるたびにぶつけているが、そんな痛みも気にならないらしい。


「アリス、何が見えるの?」

「うみ。それと、とり」

「鳥? 何匹?」

「ええと、七」


 フロントガラスから見える空を真っ直ぐ横切る白いもの。遅れて鳥だと認識する。アリスが言っていたのはこれだったのか、と僕は笑みを浮かべた。


 久しぶりにわくわくしたし身体も軽かった。こんなに心穏やかでいられるのはいつぶりだろう────思い出そうとしてやめた。あまりにも不毛だ。


 車はまだまだ走る。


 アリスはだんだん飽きてきたのか、窓の外を眺めるのはやめてシートに横たわった。プラチナブロンドの髪が絡まりながら広がる。


「ねえ、どこいくの?」

「お花がたくさん咲いてるところ」

「アリス、うみにいきたい」

「海はまた今度ね」


 アリスはあくびまじりに「うん」と頷き、僕は一人苦笑する。それはため息の代わりだ。今から訪れる場所は僕のエゴでしかなかった。アリスには悪いことをしたと今になって思う。


 泳げなくても、誰に嘲笑されても、僕たちは海へ行くべきだったのかもしれない。


 思わず「ごめんね」と呟く。アリスは何も言わなかった。



 ようやく目的地の看板が見えたので左折する。駐車場はガラガラに空いていて、僕はゲートの一番近くに駐車した。


 やけに静かだと思いつつ後ろを振り返ると、アリスは寝息を立てていた。相変わらず眉間にしわが寄っている。


 一度車を降りてから後部座席のドアを開け、大きな体をゆさゆさ揺すった。アリスは上半身だけを起こして目元をこすった。


「んん……?」

「もう着いたよ。さ、降りて」


 ぼーっとした顔のまま外に降り立った。

初夏の日差しは存外に眩しい。アリスは顔をしかめて視線を落とした。


 僕は後部座席の下に転がっている麦わら帽子も掴み、アリスの頭にかぶせてやる。アリスは気に入ったのか満足げな顔で歩き出した。僕は慌ててアリスの手を取った。


 ゲートから出てきた老婦人がちらりと僕たちを見やる。皺の寄った顔が穏やかに笑うから、僕は小さく会釈した。アリスはニコニコ顔のまま大人しくしていた。


 すれ違いざま、アリスが騒ぎ出すのではないかと気が気ではなかったが、予想に反してアリスは静かなままだった。僕の罪悪感だけがつのっていく。


 ゲートをくぐって、販売機でチケットを購入する。大人用二枚で十ドルだ。茶色く錆び始めた受け取り口から取り出して、半券をかごに放り込んだ。受付すら無人であった。


「ねえ、まだ?」

「もう少し」


 じっとりと汗ばむアリスの手を掴んだまま、通路を進んでいく。電球がチカチカと瞬いて、今にも切れそうだ。


 通路の奥から光が差し込み、真っ白に輝いている。爽やかな風が吹き込んでアリスの長い髪をたなびかせる。


 そしてとうとう通路を抜ける。


 向日葵畑が地平線の果てまで続いていた。


「あ────!」


 アリスは僕の手を振り切って走り出す。捕まえようとしたけれど、細腕はあっけなくすり抜けた。


 アリスは黄色をかき分けてぐんぐん進み、きゃーっと楽しそうに声を上げている。あっという間に姿が見えなくなった。僕は無意識に手を伸ばしてアリスを探した。何度も何度も彼女の名を口にする。


「ここ!」


 アリスが向日葵の間から顔を出してくすくす笑う。僕が追いかけようとするとまた姿をくらませた。笑い声だけが響いて、それすら青空に吸い込まれるようだった。


「ねえ、こっち。こっちみて!」


 向日葵畑を横断するような土の道にアリスはいた。僕の視線をとらえるとにこりと微笑み、その場でくるくる回ってみせた。両手をめいいっぱい広げながら、まるで踊るように。


 麦わら帽子が風にさらわれ飛んで行ったが、アリスは気付きもしなかった。


 ミモレ丈のワンピースが翻って、彼女の真っ白な太ももがちらつく。欲は湧いてこなかった。そんなものはとうの昔に消え失せていて、それを悲しいと思えないくらいには長い時が過ぎてしまったのだ。


 僕は目が眩むような思いだった。


 もう見ていられないと目をそらしたくなるのと同じくらい、彼女をずっと見ていたかった。


 エメラルドブルーの瞳が透き通っていて、プラチナブロンドの髪は透けるようで、すらりと長い手足が美しくて、満面な笑みは幸福そうだった。


 涙が出そうだ。今泣いたらどうしようもなくなりそうで右手に爪を立てる。アリスは未だ無邪気に走り回っていた。


「アリス、おはな、すき!」


 知ってるよ。


「すき!」


 だから知ってるんだって。


 君は花が好きだ。赤も白も黄色もすべて好きだ。僕が君にプロポーズした時だって花をプレゼントした。


 君がちょっと驚いたように目を丸くして、それから照れるようにはにかんだのを昨日のことのように覚えている。とても幸せだった。


 いよいよ目元が熱くなってきて、僕は嗚咽を漏らさないように唇を噛みしめた。痛みで虚しさが消えてくれればいいのに、僕の心はどうも出来が悪い。


 二年前、エマは言った。


 アリスは苦しみのあまり、アリスであることを放棄した────そうすることでしか生きることができなかったから。


 いつかは自分を取り戻すかもしれないし、もしかすると一生このままかもしれない。それは誰にも分らない、きっとアリスにだって。


 どうする、とエマはうわ言のように呟いた。少し遅れて、あまり望まない方がいいと続けた。


 僕はすぐに返事をすることができなかった。ステンレスがむき出しのベッドで、気を失ったように眠るアリスの手を握りながら考えた。この手を放すことが彼女に対する裏切りのように思えて、僕は二人でいることを選んだ。


 すぐに後悔した。それでも絶望だけはしないでいようと誓った。


 アリスに会いたい、僕の望みはそれだけだ。けれどそれがアリスを不幸にしてしまうかもしれないと今では分かっている。


 もしアリスがアリスに戻ったら、「どうして助けてくれなかったの」と罵るに違いないのだ。






□ □ □



 僕たちは夕方になって帰宅した。散々駆けずり回ったアリスはくたくたになってしまったのか、ベッドに潜りこんだきり出てこなかった。オレンジ色の光が差し込む中、目をぎゅっとつむって眠っていた。


 その様子を眺めているわけにいかない僕は夕飯を作るためにキッチンへ向かう。今日はアリスの大好きなマカロニチーズだ。


 お湯を沸かしながら、横で食材の準備を進める。と言っても棚や冷蔵庫から取り出すくらいしかすることがない。僕は目分量で済ませる人間だから、計量カップは必要なかった。


 マカロニが茹で上がったところで、手早く調理を進めていく。キッチンに漂うチーズの香りは寝室まで届いたらしく、アリスがのそりのそりとやって来た。瞳は半分閉じかけているが、空腹は誤魔化しきれなかったらしい。


「もうできるよ、そこに座って」


 アリスはこくりと頷き、椅子を引いた。スプーンを片手に、皿が運ばれてくるのを待っている。僕はたっぷりと盛り付けてアリスの前の前に置いた。アリスが嬉しそうに手を付けるのを見ながら、僕も席に着いた。


 食事をしながらお喋りを楽しむこともあるが、基本的に僕たちの食卓は静かだ。僕にとっての食事は腹を満たすこと以上の意味を持たないし、アリスは食べることに夢中だから。


 アリスが先に食べ終わって、スプーンを置いた。食器の片づけなどは知らないといった顔でリビングへ向かった。僕もすぐに完食し、シンクの前に立つ。 


 洗い物が一通り終わったところでアリスを風呂に入れるのがルーティンだ。


 アリスは遊び足らないとぐずったが、服に手をかけると素直に両手を上げた。透明感のある肌があらわになり、均整の取れた身体のラインがはっきりと分かる。それでもやっぱり欲はない。


 アリスをバスタブの中に座らせて、その上からシャワーで水をかけたり、シャンプーを垂らしたりして綺麗にしていく。


 髪を洗っている途中でも平気で目を開けたあげく、目に染みたと言ってぽろぽろ泣いた。決して僕の所為ではないと思いつつ、ごめんと謝った。アリスが風呂から上がるころには、僕はいつも汗だくだ。


「僕もシャワー浴びるから、アリスは先にベッドに入って」

「……アリス、ねむたくないもん」

「じゃあ、ベッドで絵本を読みなさい。ランプはつけてね」


 寝室まで手を引いて連れていく。さっさとシャワーを済ませてから寝室を覗いた。あんなに嫌そうにしていたアリスだが、絵本の上で突っ伏すようにして眠っていた。






□ □ □



 真夜中の一時、明かりのついたリビングには衣擦れ音しか聞こえない。僕はテーブルの上に置かれた珈琲を手に取り、少しずつ口に含ませる。


 一息ついてから、またアルバムのページをめくった。めくって、めくって、そのたびにアリスとマリーの笑顔が飛び込んでくるから、僕はせわしなく瞬きをした。ぎゅっと縮む腹の奥を静めるように、またコーヒーカップを口元に運ぶ。


 こんなことをしていてもいいのだろうか、と時たま思う。まだ心の整理はついていない――――このアルバムを見るたびに何かが軋む音がする。それでも僕は、幸せだった過去を思い返していいのだろうか。


 僕はアルバムから一枚の写真を取り出した。


 マリーが満面の笑みを浮かべていた。


 この写真は彼女がいなくなる三ヵ月前に僕が撮影した。家族旅行で海に出かけたときのものだ。マリーは浅瀬でワンピースを濡らしながら、可愛らしく笑っている。その表情はアリスによく似ていた。照り付ける太陽が彼女の肌を焼いたのかほんのり赤い。


 僕は写真にすがるように首を垂れた。


 ただただ祈ることしかできなかった。もし彼女に二度目があるのなら、誰よりも幸福な人生を与えてくださいと心から願う。


 何度目かも分からない懇願を繰り返していると、リビングの端で物音がした。思わず肩を跳ね上げ視線をやると、ドアが開いていた。


 隙間から顔を出しているのはアリスだ。僕はとっさに写真を隠そうとしたが、そんな場所はどこにもない。ポケットに突っ込むくらいしかできないが、それでは写真が折れてしまう。僕が判断を迷っている間にアリスは駆け寄り、僕の腕を掴んだ。


「なあに?」


 言い淀んでいると、アリスは首を傾げた。


「なあに、それ」


 アリスは僕の手元をじーっと見つめている。


 深夜なのにどうしてアリスが────その理由はすぐに思い当たった。今日の彼女はよく昼寝をしていたのだ。その分夜になっても眠れなくなってしまったのだろう。


 アリスが写真に手を伸ばすのを僕は止めなかった。無理に引きはがして怪我させるわけにいかなかったし、何より、マリーの姿を見てどう思うのだろうと仄かに期待した。


 こんなこと間違っていると分かっていた。だけど、もし、もしアリスがすべてを思い出してくれるなら。もう一度アリスに会えるなら────僕はか弱い抵抗すらできなかった。



 アリスは写真をかすめ取り、真正面から見つめる。あどけない笑みを浮かべているマリーをその目に映す。


 アリスは無言のままだった。


 何の反応も示すことなく、食い入るように見ていた。マリーと目を合わせたまま数十秒がたつ。今彼女は何を考えているのだろうと思うと、僕は心臓が止まりそうだ。


 暴れたって、取り乱したって、おかしくなってしまったっていい────マリーを思い出してほしかった。心の片隅に残っているのだと知らしめてほしかった。それだけで僕は救われる。


 アリスはゆっくりと顔を上げた。写真を両手に持ったまま、僕を真っ直ぐに見つめた。少しかさついた唇が動く。


「だあれ?」


 アリスの瞳は透き通っていた。


 僕がその言葉を理解するのに、たっぷりと十秒を要した。何度も頭の中で繰り返して、ようやく意味が分かったころには、僕の心はどうしようもないほどに傷ついていた。


「う、あ────」


 何一つ言葉にならなかった。視界がぼやけて、きょとんとしている彼女がよく見えない。


 こんなことをしておいて、泣いてしまう僕は間違いなく醜い。アリスを傷つけようとして、勝手に傷ついて、その責任さえアリスに押し付けようとしている僕がいる。耐えるようにぐっと息を呑みこんで、震える声のままアリスに語りかけた。


「その写真の女の子は、マリーだ。君にとってとても、とても大切な子なんだ」


 僕は無理やり口角を上げて、笑顔を作る。そうでもしないと僕は駄目になってしまう。


 アリスは「ふうん」と首を傾げ、いらなくなった紙を捨てるように写真を手放した。


「しらない」


 ひらひらと舞い落ちる写真がやけにゆっくり、スローモーションのように見えた。その衝撃は網膜に焼き付いて離れない。目の奥がチカチカして、熱くて、火花が弾けるようだ。


 僕の頭の中は真っ白になっていた。じわりじわりと思考力が消え失せて、走馬灯のごとく二年間の記憶がフラッシュバックする。僕の、絶望と戦ってきた二年間だ。


 ────あまり望まない方がいい。


 彼女の言葉を忘れた日はない。なかったはずだ。今日という日までアリスには何も望んでこなかった。それが僕にできる唯一の罪滅ぼしだと思っていたからだ。


 なのにどうして、僕は間違えてしまったのだろう。もしかしたら、なんて望みを抱いてしまったのだろう。彼女はもうどこにもいないのに。



 僕の両手がアリスに伸びる。ゆっくりと細い首を絡めとって、力を込めてみる。きっと簡単だ。僕は簡単に終わらせることができる。


 体重をかけてアリスを床に押し倒し、また力を強める。アリスは苦しそうに呻き、手足を激しくばたつかせたが、それを上から抑え込んだ。アリスの口から唾液が漏れ出した。


 一度こうしてしまえばもう後戻りできなかった。早く終わらせたい。おかしくなってしまった日々を、今日でおしまいにしたい。僕はもう疲れてしまったのだ。アリスだってきっとそう。生きていたってここは底なし沼だ。


 ぎりぎりと首を締めあげていく。未だ抵抗しているアリスの鋭い爪先が、僕の瞼をかすめる。僕は反射的に身体を引いた。


 一瞬首から手が離れて、アリスが喘ぐように息を吸う。ヒュッと音が鳴り、思い出したかのようにせき込んだ。


「タッ、あ────」


 呼吸を整えるより早く、アリスは口にした。


「た、す、け、て」


 色の抜けた唇がぱくぱく動く。僕を見つめる瞳の底は淀んでいた。力の入らない腕を懸命に持ち上げて、僕の髪をぎゅっと掴む。こんなことになっても彼女の頼りは僕だけだ。


 僕の全身から血の気が引いた。力が抜けて、よろよろとアリスの上に倒れこんだ。


「なんで……こんな……」


 こんなことをしたかったわけじゃない。終わってほしいと思ったことは嘘じゃなくて、それでもこんなことがしたかったわけじゃない!


 あまりにも虚しい懺悔を口にしていると、アリスは火が付いたように泣き始めた。僕も嗚咽が止められなかった。


 閑散としたリビングに二人の声が響く。何もかも取り返しがつかなかった。






□ □ □



僕とアリスはもう一緒にいられない────そう思っていたのに、僕たちは相変わらずおかしな日々を送っている。


「これ、きらい!」


 少し目を離した隙にスープをひっくり返され、あたりがびしょ濡れになっていた。ニンジンの細切りがアリスの服に張り付いている。


「いらない!」

「駄目。ちゃんと食べて」


 僕は四つん這いになって床を拭き始めた。駄々をこねるアリスの説得も忘れない。


 ────あの夜が明けてからすぐに施設に連絡した。アリスを引き取ってもらうつもりだった。なのにどうしてこの日々が続いているのかと言えば、アリスが嫌がったのだ。


 施設に連れて行って別れの挨拶をしていると、アリスは狂ったように泣きだして、喚いて、僕の身体を離さなかった。それでも僕は振り切ったが、数日後施設から「手に負えない」との連絡が入った。


 アリスの精神衛生を考えても僕と一緒の方がいいと判断され、めでたく元の生活に逆戻りだ。


 俯いたままふっと息をつき、小さく笑う。


 アリスとの日々に終わりはない。僕が終わらせるまで、いつまでも続いていくのだろう。それが幸せかどうかなんて、僕には判断できない。できないけれど、それが彼女にできる、唯一の償いなのだ。


 アリスはスプーンを固く握りしめている。


 僕は冷え切ったスープを火にかけた。


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