第3話脱出

200日。

殺人犯と一緒にそれだけ時間を過ごした人間はどうなるか。

長谷川はその答えを知っている。

慣れてしまうのだ。


1日1万字というルールを守りながら文庫本にして20冊分近い物語を彼は書いていた。書かなければ殺されるから当然だ。

最初の一週間は目の前で起きた殺人のショックで眠れなくなり、体重も5キロ減った。それでも書くしかなかった。イラストを見ながらイメージを膨らませ、キーを叩き、頭の中に浮かんだ登場人物を動かしてストーリーを紡ぐ。その繰り返しで毎日1万字の物語を書き続けた。


10日目にして長編を1作を書き上げ、美和はそれを読了して「素敵な作品です」と今までどおり褒めちぎった。ライフルを持ちながら。

20日目には2作目が出来上がり、彼の体重はまた減った。

50日目には体重は30キロ代に達していたが、それと引き換えに執筆のスキルは格段に上昇していた。そして、食べ物の味を感じなくなった。


「おかしいですね。今度は甘いお菓子を作ってみます」

「違うんだ……頼む……ここから出してくれ……」


長谷川は空ろな目をして千回頼んだことを再び言った。

美和は済まなそうな顔をして千と1回目の拒絶をする。


「駄目です。長谷川さん、もう20作も書けたんですからあと80作頑張りましょう。100作あれば賞は取れるんですよね?あなたならできます」

「もう駄目だ……無理だよ……」


長谷川は絶望していた。

今までどうにか書き続けてきたが、ストックしていたネタを書きつくし、もう何も思いつかなかった。彼女は本やDVDを頼めば持ってきてくれるが、殺人犯が近くにいる牢屋の中という状況では想像力などまともに働かない。


「どうしても駄目ですか?それだと長谷川さんを殺さなくちゃいけないんですけど」

「頼む……出してくれ……」


彼は男泣きしながら懇願した。

扱けた頬に涙が流れるが美和はそれを見ても愛しい我が子が駄々をこねるような表情しかしなかった。根本的な部分で彼女は壊れているのだった。


「長谷川さん、きっと書けます。私、信じてますから。今日も夕方には帰りますから頑張ってください」


そう言うと美和は牢屋から立ち去った。

うわあああ、と子供のように泣いた長谷川はしばらくすると嗚咽を止めて鉄格子の端に駆け寄った。そこはよく見ると最下部が茶色く変色しておりボロボロになっている。


「あと少しだ……もうちょっとで……」


彼はトイレの水を手ですくうと変色した鉄格子にかけ、服の中に隠していた食品の銀紙を取り出し、パソコンの電気コードと組み合わせて「脱獄」を再開した。

水の電気分解。

中学の時に習った知識を彼が思い出したのは監禁されてから150日後だった。

電極を指して水を分解すると酸素と水素が生成される。

この授業では食塩水を分解すると鉄やステンレスの電極が少しずつ腐食されると彼のおぼろげな記憶にあり、ここでも電気は通っているので鉄格子を腐食させられないかと思いついたのだ。


食塩は時々出される料理のゆで卵についており、盗み取ることは容易だった。食品についているアルミ箔も少量ずつ盗めばばれない。パソコンの電気コードを一部むき出しにして電流を鉄格子に流すと初めは大きな変化はなかったが、少しずつ茶色い粉のようなものが流れ出し、徐々に腐食されていった。

この行為を50日間繰り返し、腐食した部分をフォークなどでこすり続けて彼は鉄格子の1本を破壊寸前まで追い込んでいた。


「頼む……頼むぞ……」


ミシミシと鈍い音を立てる鉄格子を長谷川は衰えた体力で必死に引っ張り、今日も無理かと思い始めていたその時だった。鉄棒の根元がバキリと音を立てて外れた。


「やったあ!」


彼は狂喜しそうになり、あわてて自分の口を閉じる。

鉄棒はまだ上部でつながっているが曲げることは可能で、彼はなけなしの力を振り絞って体が通れる隙間を作ると彼が体をねじ込ませた。やせ細っていたことも幸いし、彼の体は200日ぶりに牢の外へ開放された。


「うう……うあああ……」


彼は涙を流して牢の外の空気を味わったが、あの狂人が帰ってくる前に脱出しようとすぐに歩き出した。


しかし、いつも重い音を立てて閉まる扉の前に立つと彼は絶望した。

札がかけられて、こう書かれていた。


『鍵をかけてますし、いくつか罠を仕掛けています。死にますからあきらめて戻ってください』


「あいつ、完全に狂ってる……」


美和の執念を感じた長谷川は牢に戻るしかなかった。

それから数日間、彼はないアイデアをひねり出して物語を書くしかなかった。

彼女は「だいぶ質が落ちてますね」と言ったが、彼を殺すことはなかった。




1週間後。

彼が目を覚ますと牢屋の鍵が目の前に落ちていた。


「え……?」


何かの罠、あるいは冗談かと思ったが鍵を拾って牢屋の扉に入れるといとも簡単に牢は開いた。


「……どういうことだ?」


美和が作った悪質な罠だと思った彼は牢から出なかった。

しかし、1時間もすると用心しながら扉の外へ出た。

あの重厚な扉には警告の札がかかってない。

初めは指先でつついてみたが電気は流れておらず、意を決してひねるとノブは抵抗なく回って扉が開いた。

木製の階段が上に伸びており、ここでも彼は罠がないか細心の注意をしながら1歩ずつ上がった。

2番目の扉をゆっくりと開けると埃っぽい倉庫が彼を出迎えた。


(監禁される前にこういう部屋を見たような……)


彼は急いで屋敷の外へ出たかったが、罠が怖くてすぐには歩けない。

警察が証拠を探すように床や置き物を凝視し、戦争映画のようにピアノ線などが張られてないかを確かめながら足を進めていく。

そして次のドアを身をかがめながら開けると彼は息を呑んだ。


次の部屋は書斎だった。

壁に手書きのイラストが所狭しと貼られ、机には本が積み重なっている。壁の絵は彼が頼まれて書いた小説のテーマとなったイラストばかりだった。

森の中で佇む少女。星空を見る男女。サーカスでライオンを操る調教師。

彼が見たこともないイラストが無数にある。下手ではないがそこまで上手くもない。そんなレベルだが、これらを全て小説にしろなどと言われることを想像すると彼はぞっとした。


「あ……」


彼は一冊の本を手に取った。

自分が牢屋で書いた小説の一つだ。挿絵とタイトルのロゴが入り、本屋に並べられるレベルではないが同人誌としては十分。そんな本が他にもいくつか刷られている。これを同人誌として売るつもりだったのだろうか。


(よくわからないけど、俺はもう書くのは御免だ……)


そう思いながらも長谷川は牢屋からずっと持ってきていたものがあった。

今まで書いた小説のデータが入ったノートパソコンだ。

20作の自分の小説。死ぬ思いをして書き上げたのだから警察にこの事件を処理してもらった後で賞に応募してみたい。そう思っていた。


机の上をよく見ると「長谷川さんへ」という封筒が置かれていた。

彼が中を見ると1枚の便箋が入っていた。

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