Chapter 1

1-1 ゲームの手続き書

 その紙一枚で異世界へ行けると言う。

 薄っぺらい紙きれ一枚に、四つの記入項目が難なく収まっている。

 たった四ヶ所の項目に記入を終えるだけで異世界へ行ける。

 

 そのことを心から喜べる人間はどれだけ居るのだろうか。

 二〇一八年の現代を離れ、友人や恋人、家族などの人間関係を捨て、築いてきた生活を捨てるばかりか、それまでに触れて来た社会や文明、常識や知識は通用しない。

 戻って来れるかどうかもわからない。

 そんな世界へ行きたい者は多いのだろうか。

 読書やゲームから得られる疑似体験では事足らず、魔物の王が支配する世界へ渡って剣の一本でも握り取ってみたいと、そう心から願う者は居るのだろうか。


 もしそんな者が居るとしても、それは馬鹿なわけでも狂っているわけでもない。

 きっと、とても寂しい人なのだ──と、猫町ねこまち黒乃くろのは思っていた。


 談笑を交わし合う人間社会を遠巻き眺め、仲間に入れてと入っていけないような──現実世界こそが心の通じ合えない異世界のようであると感じてしまうような。


 そんな寂しい人たちが、一枚の紙に書かれた問いに答えるだけで異世界へ行けるなどという、到底信じきれない話に乗っかって──今居る世界を捨てても構わないと思ってしまうのかもしれないと、猫町黒乃はそう思っていた。


 黒乃がその紙を手にしたのは二〇一八年、五月二九日の平日。

 今はまだ賑やかさのピークを迎える前の、昼間の新宿歌舞伎町広場。

 大規模ゲームセンターの目の前にあり、巨大な貸出スペースとなっている。

 本日はその広場へ、白布を鉄骨へ被せただけの仮設テントが複数設置され、テント内には木の机とボールペンだけの簡素な記入スペース。

 

 最奥にはひと際大きいテントがあるが、受付より奥は布で隔たりを敷かれ、中を覗くことは叶わない。

 受付に座る女性に、異世界へ渡る意思があることを伝えると、一枚の紙が手渡される。

 ──それはゲームの購入に必要な手続き書類だった。


 ゲーム──【異世界23区】の販売文句は、『プレイした者は異世界転移される』といったもので、発売の一週間前に全国から購入者を都内各所へ集めて、手続きを行わなければならないという一風変わった販売形式を取っていた。

 謎はそればかりでなく、開発元も耳にしたことがない会社であり、ホームページ詳細欄にはと在る。

 明記されたジャンルもまた謎で、という謎のジャンルであり、価格は未発表のまま。

 未発表というよりは記載自体がなく、まさか無料なのではとの印象を与えている。

 明らかになっている情報のほうが格段に少ない。

 

 数少ないゲーム情報はゲーム内動画と僅かに添えられた説明文。

 ホームページに埋め込み動画として掲載された動画の内容は目を見張るもので、オークという緑肌の豚半獣との戦いを映したものだった。

 たゆんたゆんの突き出た緑のお腹や、顎下まで伸びる長い牙、一振りで絶命を余儀なくされそうなデカい棍棒。

 その全てが現実として目の前に居るかのような──豚鼻から漏れる荒々しい鼻息すらも全方位の体感で味わえるという内容のものであり、そればかりか戦闘模様はコントローラーを使用せず、自分の身体を使って戦闘を行うと説明書きが添えられていた。

 攻撃を受けた際のヒット判定も、自身の身体のサイズに依存するらしい。

 そして魔物との戦いは他プレイヤーとの共闘が可能とも書かれていた。

 オンライン形式と予測される。


 それではまるで、ノベル世界などを彷彿とさせる、音に聞こえた神経接続型VRではないか、と巷で噂されていたゲームだった。

 確かに、『プレイした者は異世界転移される』と謳ったとしても、そのキャッチフレーズに恥じないゲーム性であり、二〇一八年現在に発売されているゲームからは一歩も二歩も歩みを進めたゲーム性である。


 しかし一方であくまでゲームの枠からは出ていないことも理解出来る。

 プレイしたからといって、この世の者ではない美しさを備えた女神様が現れ、本当にその身が知らない世界へ移されるわけでも、今までの生活がなくなってしまうわけでもない。

 異世界へ行ってはみたいけれど今までの生活を捨てることはしたくないといった、異世界疑似体験を希望する者たちにとって、正に夢のようなゲーム。

 ゲームはゲーム。疑似は疑似。真実に近い嘘。

 そうでなくては困る。

 本当に命を落とすような魔物との戦いが現実化しては困る。


 それが多くの購入者の本音だった────しかし。


 その薄っぺらい一枚の紙を目に入れた時、猫町黒乃は戸惑いを吐露していた。


「なん……だ……これ……」


 ──このゲームはプレイするにあたって、今まで築いてきた生活環境や人間環境を失う恐れがあります。異世界への重き扉を開く為に、プレイヤー様の人生そのものを投げ打つ覚悟はありますか?

 ・はい

 ・いいえ


 その手続き書の最上段は警鐘を鳴らして始まっていた。

 ──これではまるで、本当に異世界へ行くようだ、と猫町黒乃はボールペンを握り込んだまま動けずに居た。

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