Chapter 3
3-1 帰ってきた熊
────ゲームの為に、人生を捨てられるか。
その問いに肯定を示す者が新たに一名追加される。
元居た現実世界に居ながらも、半身を異世界へと入れ込む為には手続きが必要だ。
一見しただけでは謎ばかりが浮かぶ手続き書の記入を済ませなければならない。
自ら参加した者も、強制的に参加させられた者も。両者ともが書かなければならない。
それは途中参加者も例外ではなかった。
プレイヤーネーム:サツキグマ
職業①:空手家
職業②:ツキノワグマ
友人を追って異世界へ入り込んだ皐もまた、記入を強いられていた。
手続きと手術を終えて、三日ぶりの日常に戻ってきた時、彼を待っていたのは激怒した友人だった。
公立渋谷道玄坂高等学校内の人知れない場所にて。
頭上に、《黒猫》の文字を浮かべた黒乃が、頭上に、《サツキグマ》の文字を浮かべている皐の胸ぐらを掴み────涙をポロポロと零しながら怒っていた。
「皐……お前……何やったか分かってんのかよ……」
「あぁ」
「死ぬかもしれないんだぞ……!」
「そうだな」
「皐に何かあったら……むっちゃんどうするんだよ……」
「……すまん」
道玄坂高校では部員が足りずに廃部となってしまった茶道室。
手入れされながらも誰かが使用することはなかったが、たまに黒乃が忍び込み、のんびりとゲームをする為に使っていた。
「…………いや違うか……」
「……そうだな」
二人は大した会話をすることなく、お互いの感情を的確に交し合っている。
毎朝始まるホームルームの時間帯。
その校内は静かで、ポタポタと──はっきりとした輪郭の、悲し気な音がよく聞こえた。
黒乃の涙が畳へぶつかる音が、茶道室に響いていた。
「怒るのは……皐のほうか……」
「そうだ」
「誘え、って言われてたもんな……」
「そうだ」
「クソっ……何で僕は……場所を言っちゃうかなぁ…………」
「それも違うがな」
「…………そうだな。皐はきっと勝手に気付いて、勝手にプレイヤーになってたか……」
「そうだな」
正直に話していても、あのまま嘘を上手くつけていたとしても。
この、野生で育ったような男は、黒乃に関してのことであれば、大抵のことには気づき、勝手に後を追ってきたのだろう。
未来は既に決まっていたのだ。
黒乃が異世界23区によって誘拐された時から、皐がプレイヤーになるのはもう決まっていたことだったのだろう。
黒乃は遅まきながら、自分のすべきことをようやく理解し、額を畳へ打ち付けた。
「──ごめん」
「……おいクロ、謝るのはナシだろう」
「っぐ……でも……言葉なんて何の足しにもならないけど……本当にごめん」
「……クロ、顔を上げろ」
「絶対にボスを倒す。一緒に抜けよう」
「いいから顔を上げてくれ」
「…………………」
──これ以上、謝罪を続けても、許しを脅迫している域に達してしまう。
そう思い顔を上げた次の瞬間。
黒乃の身体は大きく吹っ飛び、積んであった紫色の座布団を蹴散らした。
気付けば右頬は熱を帯びて、強く痛む。
グラグラと揺れる視界の中で気持ち悪くなりながら、ようやく皐の正拳が飛んできていたらしいことを理解した。
「ぐ……はっ……」
「よし、これでもう謝る必要がないぞ」
「あ…………ありがとうございまふ」
「あぁ、これでもう気にするな」
「ぐ……ぅう……空手家が人を殴っていいのか……」
「暴力は駄目だ。友人の誤りを正すのは暴力に入るのか?」
「…………入らないです」
「そうだな」
二人の間では、それで決着がついた。
視界の揺れが収まると、丁寧なことにHPが僅かに赤色へと変わっていることに気づく。
皐という異世界23区のプレイヤーに攻撃を受けた為だったが、皐はゲームを開始したばかりで未だレベル1状態のお陰もあり、被ったダメージは少なく済んだ様子だ。
どうやらプレイヤーキルが許されているというのは、本当のことらしい。
ただ、明らかにHPの減り具合よりも実際のダメージのほうが大きかった。
「おい皐……HP減ったぞ。全部なくなったら僕、脳死するんだぞ」
「そうだったか」
「説明会聞きに来てたなら知ってるだろ……」
「そうだったな」
「大体その190㎝越えの図体を何処に隠してたんだ。皐が居て気付かないわけがない」
「元々壁の外側に居た。直ぐ傍の出口から聞いていたんだ」
ゴブリンが出現した時、多くのプレイヤーが向かっては戻ってきた、その封鎖された出口のことだった。
「え。よく聞こえたね」
「あの男、マイクを使ってただろう。あの日はアトラクションも稼働してなくて通常の客もいないお陰で静かだったのと、一番近くの道路側の出口のところに居たから聞き取れた。数人のガードマンらしき黒服が居たが、ただ近くで立っているだけでは何も言われなかったしな」
鴉間の説明をプレイヤーではない人間が聞いても、到底信じられることではないし、あの男の陽気さでは催し物が開かれている程度にしか思われないからだろう。
「……しかし名前……クマって」
「よく言われるからな」
「二つの職業は何て書いたの?」
「空手家とツキノワグマだ」
「ぉお。何か面白そうな……よく学生って書かなかったね」
「俺にはゲーム経験がないから、クロが書きそうなことを考えた。先ず高校生とは書かないだろうなと思ったのと、クロの爪を見た後だったからな」
皐が黒乃を殴った後も握りしめていた拳から力を抜く。
ゆっくりと開かれた手──その手先には薄く黒ずんだ鋭利な爪が伸びている。
人間の爪より少し長い程度だった。
「おい皐それ……」
「クロの時と同じように今朝起きたらなっていた。今朝はもっと長かったから切ったがな」
「僕みたいに、爪をしまったりはできないのか」
「あぁ。熊だからだろうな」
「……僕で言うところの動体視力みたいな変化はあるか?」
「今のところは感じられん」
「実はそれ、目視で確認できるんだ」
「そうか」
「視界パネル内に、《ステータス》って項目があるだろ。それタップしてみて」
皐は空気中へ指を伸ばす。
はたから見れば、何の為の行動かは全くわからない。
他の人のパネルが見えない黒乃からすら、作業の詳細はわからない。
皐は視界内に左に複数浮く操作パネルの内──《ステータス》のパネルを指で触れる。
触れた途端に薄紫色の、他のパネルより大きいパネルが展開される。
其処には自身の最大残命量や攻撃力や防御力を数値化したものや、現在所持しているスキル一覧などが記載されていて、スキル名に限ってはオレンジ色で表示されていた。
続けてスキル名に触れれば更なる詳細が表示される仕様らしい。
黒乃と同様にレベル1時点でも所持しているスキルは合計で三つ。
攻撃用のスキルが一つと、パッシブスキルが二つ。
パッシブスキルの一つは、《熊の爪》とあるが、これは黒乃と同じく既に身体の変化に現れている。
更にもう一つ、《野生の食事》というスキルが目に入る。皐はそれを指で触れた。
パッシブスキル:野生の食事
食事行動によりステータスを向上させることができる。
上昇値は食事内容により変動する。食後三〇分有効。
皐は読み終わると、
「どうやら飯を食えば少しの間、強くなるらしい」
と黒乃へ簡単に説明した。
「っはー! 面白いなぁ!」
黒乃は自分のことのように瞳を輝かせて少年的興奮を露わにしている。
「クロ、パッシブスキルとはなんだ」
「永続性で常時発動スキルのことだね」
「常時発動……飯を食わんとならんのにか?」
「ご飯を食べれば能力が上がるというスキル自体が常に発動してると捉えるんだよ。他のゲームだとバフスキルとも言うけどね」
「そうか」
「ちなみに僕のは《猫の爪》と《猫の瞳》だった」
「そのままだな」
「だな。ちなみに攻撃用のスキルは何かあった?」
「これか……、《ベアスイング》と書いてあるな」
「想像するに薙ぎ技か何かだろうな」
「職業は二つ書いたのに、クロも俺も繁栄されているのは動物のほうだけだな」
「や、個人差っぽいぞ。そのまま、《スキルボード》ってパネルタップしてみてよ」
皐は再び目前の空間へ指を伸ばす。
黒乃に言われた通り、《ステータス》画面内にある、《スキルボード》の項目に触れる。
すると今度は、これから取得可能であるスキルが無数に並べられた。
文字が暗い灰色で表示されているのは未取得状態であることを示しているらしい。
「1レベルが上がるごとにスキルポイントってのが1手に入る。それをスキルボードの画面で覚えたいスキルに対して割り振れば使えるようになる。全てが1ポイントで上がるわけじゃなくて、3とか4とか必要なものも多分あると思う。
強くて使い勝手良いものほど取得に必要なポイントは多いっぽいね。皐は知らないかもしれないけど、最近のRPGじゃよくあるレベルアップシステムだよ」
「つまり魔物を倒せば倒すほど、色々覚えられるってことか」
「そういうことだね」
「筋トレじゃ駄目なのか」
「……流石は体育会系……僕にはなかった発想だ。自主トレでレベルが上がるゲームもないとは言わないけど多くないからな……わからないなぁ」
──試してみよう、と言って皐はいきなり腕立て伏せを始めた。
下を向く皐の目には、やはり畳よりも薄紫色で半透明のパネルがくっついてきている。
そのパネルの中には、「!」のマークがピコピコと点滅している。
皐は左手一本で腕立て伏せを行いながら、右手は浮かせてパネルに触った。
それは皐がこれからこなすべき、《ミッション》項目のパネルだった。
──ゴブリンを三匹討伐せよ、と書かれている。
「クロ、ふっ、この、ふっ、ミッションというのは、ふっ、なんだ」
「あぁ、今説明しようと思ってたんだ。皐は先ず何よりも優先して、《ミッション》をこなさなければならない」
「ふっ、そうか、ふっ」
「今日帰りにセンター街へ行くぞ」
「ふっ、すまん部活が、ふっ、ある」
「サボれ」
黒乃は時折だが強引である。その様子には皐は慣れたもの。
彼が人に無理を強いる時は決まって、それが本当に必要なことである時だけであることを理解していた。
皐は腕立て伏せを三〇回ほど難なくこなしたところで止めた。
「そんなにか」
「そんなにだ。皐今日家に帰ったら死ぬかもしれないぞ」
「相当だな」
「どうして学校にモンスターが出ないんだろうって、思わなかった?」
「……そういう仕様じゃないのか」
「出るんだよ。教室にも廊下にも、グラウンドにも体育館にもプールにも。そこら中にスライムやらゴブリンやらミニドラゴンやらスケルトンやら……色々出てたんだよ」
──出ていた。過去形だった。
「クロが全部倒してしまったのか」
自分にも残して欲しかったと言いたげな口ぶりで皐は言った。
「まさか。押し入れ見てみてよ。そのほうが話が早い」
黒乃は茶道室内にある押し入れを顎で指す。
言われて皐が襖を横へ引く。中は上下二段に分かれていて上段には布団が畳んで押し込まれている。
黒乃が示したものは下段の、茶器の隣に在った。
──小さめの銅像が立っていた。
50㎝ほどの、大盾を持った戦士の銅像は淡く青白く光っている。
和の部屋に洋風の戦士が居る姿は、かなりのミスマッチ感を出していた。
「……何だこれは」
「その銅像──、《不可侵の盾》っていうアイテムだ」
「そうか」
「さっき言ってたミッションを達成すると、そのアイテムが二つもらえる。その銅像を設置すると、設置した場所の半径500メートル以内には敵が出ないらしい。だから殆どのプレイヤーが家と職場、家と学校とか、生活上の重要ポイントに設置していると思われる」
異世界23区という世界に身を置きながら現実世界での生活も送ることができるようにと、運営からの救済措置だと思われる。
「敵には何もしなければ襲ってこない敵──いわゆる非アクティブ。
何もしていないのに一定範囲内に入っただけで攻撃してくる敵──いわゆるアクティブ。それぞれ存在する。
場所によってはどちらかしか出現しないように設定されているみたいだし、説明会の日に分かったけど、駅と電車にはそもそも敵が出ない。でも家や学校では違う。どっちも出るんだ。だから皐は今日ミッションを達成して家に帰らないと──」
「寝れもしない、ということか」
「そういうこと」
そのシステムはプレイヤーに対して優しい仕様のように思えるが、実際のところはモルモットとしての機能を長続きさせる為のものであろうことを黒乃は理解していた。
寝れない、仕事ができないでは生活もままならない。熾烈な生活環境下でモンスターと戦っていては、早々に死亡してしまう可能性が高い。
それでは折角手に入れたモルモットのプレイヤーを早くに全滅させてしまう可能性が高い。
鴉間が言っていたことが本当であれば──脳の科学を更に突き詰めて、人間から寿命概念をなくそうという研究をより発展させたい運営とっては不都合である。
死の恐怖と莫大な報奨でゲームプレイを強要させる一方で、死を遠ざけることでモルモットとしての寿命を延ばす。
生かさず、しかし多くは殺さず──皐は、自分が友人を追いかけて飛び込んできた世界の非道さを改めて認識していた。
「ところで筋トレは効果あったの?」
「何処を見れば分かる」
「そういやそうだな……ステータスは?」
皐はたどたどしい手つきで指を操ってパネルをタップする。
「変化ない」
「あ、じゃあ経験値は?」
「1になっている」
「……皐、既にモンスター倒したりしてる?」
「いや、ない」
「じゃあ元が0だった筈か」
「そうだな」
「筋トレしても経験値増えるのかよ! 何だこのゲーム凄いな!」
「そうだな」
「生活上のものもゲームに反映される……オンライフ凄いなぁ……」
「……クロ、これをきっかけに空手を──」
「ボク、ウンドウ、キライ」
「……そうか」
皐は銅像が気になって手を伸ばしてみるものの、まるで立体映像を触っているかのように通り抜けてしまった。
「入手すると注意書きが添付されてるんだけど、設置したら外せないんだってさ」
「そうか」
持って移動できれば、常にモンスターとエンカウントせずにいられる。
それはそれでモルモットとしての機能は果たせない、というわけだった。
「それで、この辺りだとセンター街にゴブリンが居るってわけか」
「そういうこと」
「わかった。帰りに寄っていこう」
黒乃の身体で散らかした座布団を積み上げ、廊下を様子見して誰もいないらしいことを確認する。
じゃあそれぞれの教室へ──その別れ際に黒乃が皐を呼び止めた。
「──そういえば、今日一人連れて行ってもいい?」
皐は言葉が出なかった。
何せ、自分との行動の間に誰か一人を入れたいなど、そんな普通の発言さえ黒乃からは一度たりとも聞かされたことはない。
暫く身体と思考は固まり、何とか言葉を絞り出す。
「な……何があった」
「おい。まるで僕がとんでもなく可哀相な奴みたいなリアクションは失礼だぞ」
皐は自分以外に友達ができることなどはないのかもしれないと、少しだけ本気で心配していた。
その点に関しては黒乃の兄、父親のような目線だったと言える。
故に皐は──涙した。
「おい」
「すまん」
「また無表情のまま泣いている……」
「感動した」
「辞めろ!」
皐は直ぐに涙拭って、その一人は誰だと尋ねると、「例の転校生」と黒乃は一言答える。
それで皐は、再び泣いた。
「おい」
「すまん」
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