1-5 其の後
①
二〇一八年、六月一日。
黒乃が学生社会へ三日ぶりに復帰したタイミングは、
りんごは震えながら──撫子型に整えられた艶やかな黒髪のロングヘアーを檀上から深々と下げたが、その様子を黒乃は観ることもなく、机の下に携帯ゲーム機を隠し、プレイに没頭していた。
「清楚だな」「でも何か……影があるよな」「普通に美人だけどな」
1-Aクラスの生徒たちが持つ、りんごへの第一印象がヒソヒソと零される。
その声もまたゲームに意識を奪われている黒乃の耳に入ることはなかった。
休み時間になれば、時折勇気ある生徒がりんごへ話し掛けるものの、りんごは肯定的な相槌を入れるばかりで大した会話に発展することもない。
言葉尻は丁寧だが、どこか気持ち的な壁を張り続け、放課後にはすっかりと孤立し、そそくさと帰っていった。
クラスメイトたちの中では、「何か良い子っぽいし可愛いけど、メンタルに難アリ」という印象に着地した様子だった。
結局、学校内で黒乃とりんごは言葉を交わすことはないままであり、黒乃にとっては転校生が来たらしいということと、彼女の容姿のこと以外については何もわからないままだった。
りんごが教室を逃げるように出て行く時──すれ違いで一人の大男が入ってきた。
その男は、まるで筋肉のみで肉体を構成しているようであり、覇気のような風格を携えている。
学生などの若者には見えず、学ランを着衣したおっさんにすら見えるほど。
「──クロ、帰ろう」
「皐……え、部活あるんじゃないの?」
「今日はない。それより、誘拐の話聞かせろ」
そのおっさんのような男は、黒乃の唯一の友人であり、同級生だった。
校内で彼に親しみの込められた揶揄は、現場監督、覇者、セクシー男優、組長、熊、など様々。
皐は白い道着を丸めて帯で括って、その帯を肩からぶら下げながら最後方窓際の席に座る黒乃へ帰宅を促した。
黒乃と皐は教室を出て共に歩みながら、連日報道されている異世界23区関係者による誘拐事件の内容と、その被害者との目線を照らし合わせている。
「──じゃあ、クロにもよくわかっていないのか」
「うん。行方不明を二日間、その間の記憶は一切ない。三日目の朝、病院の前で捨てられているように倒れていたところを発見してもらったらしくて、その日の午後に目覚めて、即退院で夜帰ってきた」
そういった事件のあらましは皐も報道を通して知っていることだった。
他に酷い目に遭わされたのではないか、何か被害者しか知りえないようなことが起こっているのではないか──皐が黒乃から聞き出したいのはその辺りのこと。
「というか僕がニュースを見てビックリしてるよ。どこの局も取り扱ってるような大事件になってたなんてさ」
「そうか」
「更に驚いているのは……手続きに行ったのはたったの約三五〇〇名だってところだね。テレビ、インターネット広告等で大題的に宣伝を行って、しかも実際に自分の身体を動かしてモンスターを狩って、しかもそれが他人と共闘可能というゲーム界の特異点になるようなゲームだと思われてた。それが……たったの三五〇〇名……」
黒乃にとっては、自分が事件の被害者であることよりも、ゲームの注目度の少なさのほうが我慢ならない様子で、帰路を歩みながら皐へ熱弁して聞かせた。
「誘拐されたのは、その中の一五名らしいな」
「そう、僕を含めてたったの一五名」
「クロ……お前、手続き書の最初の問いで、『はい』に丸をしたのか」
「う……」
「ニュースで見たぞ」
「……母さんにも怒られて、そして泣かれたよ。ゲームが世間の注目を集めていた中、何か怪しいと思って手続きに行かなかった人が殆どだった。
お前はその危機管理のなってない三五〇〇分の一であり、そしてゲームの為に人生を捨てられるという問いに同意した人だけが誘拐され、お前はその一五分の一であると思うと、母さんは恥ずかしいと……凄い剣幕で言われた」
そうか、と皐は短く寡黙に返す。
頭に溢れ出る黒乃を心配する言葉は胸の内にしまいこみ、ひっそりと胸の中で友への熱い炎を燃え上がらせていた。
言葉や表情には感情が出ないタイプの皐だったが──しかし、堪えきれず溢れ出てしまうのも一つ在った。
──猛烈な、涙だった。
「お、おい皐……」
「……すまん」
「相変わらず大袈裟な……よく表情を崩さないまま泣けるな……」
「漢泣きと言うのだ」
「自分で言うか」
皐は学ランの袖でごしごしと涙を拭い、太く凛々しい眉毛を引き締める。
夕焼けが、皐の濃くてくどい顔を照らすと──また泣いた。
「おい」
「すまん。もうクロと一緒に帰れないのかと思っていたのだ」
「皐まさか……僕が居ない三日間の間、夜な夜な探し回ったりしてないだろうな……」
「神奈川県と茨城県までにしておいたが」
「警察より捜査網が広い!」
もしかしたら、今日自分が帰ってきていなければ千葉県辺りにも足を運んでいたのではないかと思われる。
この熱い男は、平然とそういう熱意を行動に移す。
まるで弱肉強食の厳しい野生世界を生き抜いてきたゴリラか何かが、突然現代社会に引っ張り込まれたようなむさ苦しいルックスであるし、何事にも動じないメンタルのせいで感情が表に出ない。
イケメンとは絶対に言えないが、良い意味で男に好かれるタイプの男だった。
外見だけで言えば、黒乃とは正に対極的だった。
「身体はなんともないのか」
「うん、レントゲンもCTも異常なし。頭痛が少し残ってるくらい」
「……その手は関係ないのか」
黒乃の右手甲にはガーゼが貼られていた。
スライムに負わされた、火傷のような酸で溶かされたような怪我。
──さて、何と話したものだろうか。
この手は関係ないといえば関係ないし、深く関係があると言えば関係がある。
異世界23区というゲームが引き起こした謎の誘拐事件。
その事件を世間から見る認識は──被害者が全員無事に生還していること、身代金などの要求もないことから目的は不明。動機も不明。
全てが謎に包まれている為、今のところは行き過ぎた悪戯という認識に位置づけられて、現在も捜査が行われている。
──しかし被害者の一五名にしか知りえないことがある。
とても口頭で伝えたくらいでは、にわかに信じがたい真実を、どう伝えたものだろうかと、黒乃は悩んでいた。
──スライムに襲われた、などどう説明したらいいものだろうかと悩んでいた。
二人が帰り道に決まって通る公園に着くと、お互いベンチに腰を下ろし黒乃が順序立てて説明を始める。
「……実は……この手は関係がある。あるんだけど……その前に、皐から見て僕ってどんな人間?」
「幸福論がしっかりしていて、他者の意見に流されることがなく、正義感は強いがそれを翳すような厭味もなくて」
「恥ずかしいわ! 普通悪い方言うだろ!」
「そうなのか…………ゲームばかりしていて健康が心配だ」
「父親か。けど、そうだね。友人は皐しかいないし、クラスでも影の薄いキャラで、運動は嫌いだし、引きこもり気味体質のヒョロもやし小僧だ」
「そこまでは言ってないがな」
「その僕が……その惰弱的印象の僕が、今日。体育で野球の授業だったんだけど、三打席三本塁打という成績だった」
「そうか………………………………何だと?」
一瞬、そう珍しいことではないかと思って皐は頷いた。
しかし自分が昔から知っている黒乃という男のことを、よくよく思い返してみれば、そんなことは絶対にあり得ないことだと理解する。
少し経って膨大に謎が湧き出てきた。
皐が知る黒乃という人間は運動が得意ではない。
得意ではない為に、平然と体育の授業をサボる。サボって今は使われていない茶道室に隠れてゲームをしている筈。
そして、そんな黒乃の不健康さを心配して、「空手でもやるか」と自分が薦めて、「ボク、ウンドウ、キライ」と黒乃が答える──それが二人の決まったやり取りの筈だった。
その友人が体育の授業に出てバットを振ったという。
「……三回打者が回ってきて、三回ホームランを打ったって言ったんだよ」
そうか、と皐はもう一度、鉄面皮のまま頷いた。
その顔が結構驚いているものだと見分けるのは、長年の付き合いである黒乃でもないと難しいことだった。
「バッティング……練習してたのか」
「あはは、僕が?」
「…………しないな」
「……ボールが物凄くスローに見えたんだ。他にも飛んでる虫を指で摘まむこともできた」
──それに高い所から落ちても平気だった、とは言えなかった。
「一晩で超人になったというのか」
「それがさ、体力や筋力に変化はないんだよ。あとゲームで下がった視力もね」
「反射神経や動体視力が上がったのか」
「うん」
続けて黒乃は両手の甲を皐へ向けて、全ての指を立てて翳した。
「話しは、それだけじゃないんだ。これ見て」
「……怪我がどうかしたのか」
「そっちじゃなくて、爪のほうを見て」
黒乃の言うソレを目に入れた時、皐の肩眉がピクリと動いた。
一〇本全ての爪の先端は尖り、そして全体が僅かに湾曲している。
人間の爪とは思えない──獣の爪のようだった。
「……そうなるように切ったのか」
「いや、今朝起きたらこうなってた……しかも」
言って黒乃の爪が、にゅっと一瞬で1㎝ほど飛び出た。伸びた。
「な……」
あまり表情を崩さない皐も、流石に多少目を見開いた。
続けて黒乃は、「そして」と置いて、今度は爪をにゅっと下げて縮ませた。
爪は元の長さに戻ったのだった。
「まさか……爪を……立てたのか」
「今朝……起きたら出来るようになってた。なってたというより、元から出来たことを今朝になって思い出したような……できないほうがおかしいような感覚で可能になってた」
「…………まるで」
──まるで猫みたいだな、と皐は言った。
②
「これは多分……いや絶対……全部は異世界23区の所為だ」
「そうか」
皐は疑う様子を一つも見せずに頷いた。
──流石は皐、自分が手の込んだ嘘をついているわけではないと見抜いている。
黒乃は皐という人間に改めて感心した。
さて、残る説明ももう少し。
──スライムに襲われて、空中から爪型の斬撃を落下させて倒した。
最も伝えなければならない体験はソレである。
そしてこの皐という男は、笑ったりはせずに、「そうか」などと言って丸飲みしてくれることだろう。
だからこそ。
言っていいのか悩んでいた。
──僕、死ぬかもしれない。
スライムとの闘いを伝えれば、必ずその話に移る。
自分が三日間いないだけで二つの県を探し回ったような、この熱い男にそんなことを言えば、次はどんな心配を掛けるかわからない。
190㎝を筋肉のみで構成しているような体躯の皐ですら、胃などの内臓のほうからダメージを負わせることになるかもしれない。
黒乃は夕空の下、その迷いを談笑の中に隠していた。
「──おい、クロ」
「んー?」
「次は誘え」
「…………へ?」
これは珍しい、と黒乃は口を開けて固まった。
皐は高校生活の中でも空手部という部活動に重きを置くようなスポーツマンであり、ゲームする暇があれば走り込みをするような奴だ。
よくよく皐の顔を見てみれば、相変わらず感情の不明な顔つきをしてはいるが、その中には微かな怒りがあると、長年の間柄が感知させた。
「あの……もしかして怒ってる?」
「そうだな」
「……ご心配……おかけしました?」
「どうせ……怪しいのは分かってて行ったんだろう。それなら誘え。そして無事帰ってきたなら昨日連絡をくれ」
「…………彼女か」
「俺が異性ならそうなってやりたいところだがな」
「っはー……相変わらず男前だね」
恥ずかしい、という感情が元から存在していないらしい。
正しいと思えば言葉にする。それだけのことを出来ない人間のほうが多いのに。
この皐という男には、伝えなければならないと思ったら口にすることに躊躇いがない。
何とも素敵な台詞が似合わないゴツい見た目ではあるが、そう素直に言われると、黒乃もまた素直になる他、逃げ場はなかった。
「……ごめん」
「……謝るのは無しだ。次は誘え」
必要以上に責めない姿勢もまた男前だった。
──死ぬかもしれない。
その言葉は余計に腹の底へと引っ込み、だからこそ誘えるわけがないという言葉も、どちらも吐き出すわけにもいかなかった。
「あいよ」
黒乃はぎこちなく微笑んだ。
「いいか。誘えよ」
「わ、わかったよ」
流石は皐。きっと嘘だと気づかれている。
黒乃は急いで話を変えようと、視線を公園の中へ向けた。
陽は落ち掛け、人通りも少ない。
何か話しを変えられるネタはないかと思った時、一人の女性が目に入った。
見覚えがあるような、撫子カットの女子高生だった。
「……ん……皐、あの人」
「うちの制服だな」
「あれ、多分転校生だ」
「噂では聞いたが、あれがそうなのか」
彼女はブランコにお尻を降ろし、鎖を手で掴みながら、しかし漕ぎ出すことはなく一点を見つめている。
黒乃たちが座るベンチから10メートルほど離れていて、細かな表情までは読み取れないが、元気がなさそうな雰囲気くらいは感じ取れる。
「落ち込んでるっぽいね」
「そうだな」
と言いつつも別に声を掛けにいくわけでもないが、少し話を変えたい黒乃からすれば、彼女についての話を続ける以外なかった。
「可愛いよね」
「そうなのか」
「……皐の好みだけは、長年の付き合いでも全く見えてこないな」
「自分でもよくわからん」
「自分にないものを求めるっていうよね。皐で言うと騒がしい女性とかかな」
「考えたこともないな」
「僕は一緒にゲームしてくれる子がいいなぁ」
「クロより上手かったらどうするんだ」
「…………萌えるなぁ」
「……そうなのか」
『──異世界23区よりお知らせです』
「うぉっ!」
「なんだ。どうした」
突如、頭の中で声が響いて黒乃は大声を上げた。
それは昨日聞いた、説明的な口調の機械音声だった。
黒乃の大声に驚いたのか、少し離れたところに居るりんごもまた驚き、ブランコから落ち掛けている。
驚かせて悪いことをしたなと思いつつ、隣に座る友人に悟られるわけにはいかないと、黒乃は急いで平静を装った。
「な、なんでもない」
「……そうか」
『これより異世界23区に使用するシステムパネルの半数を解放します。三日後のサービス開始についてを、『ニュース』の欄でご確認下さい』
言われて、既に夜の闇が覆っていた視界に次々と半透明化した薄青いパネルが展開されていく。
ソレは何処を向こうとも視界に入り込み、なんなら目を瞑った暗闇の中にすら着いてくるほどだった。
『パネルは最右上にある最小化パネルを押すことで、全てを最小化することが可能です。任意のパネルだけを残したい場合、『メニュー』から、『コンフィング』へとつないで、そちらでカスタマイズを行って下さい』
部屋に帰ってじっくり調べたいと思いながら、何とか顔だけは笑うように努める。
何故、今、悟られてはならない友人と居るタイミングで伝えてくるのだろうか。
流石は『オンライフ』を謳っただけあって、生活の中に堂々と現れてくれるものである。
『──また、これより他プレイヤーとモンスターの感知を可能にします。プレイヤーネーム、及びモンスターネームが頭上に表示されるようになります。尚、モンスターはサービス開始まで出現することはありません。即座に、『ニュース』をご確認いただき、不明点がございましたら口頭で、《ヘイ、リリー》とお呼び下さいませ』
──携帯電話か。と黒乃は内心でツッコミを入れた。
突如頭の中に流れた音声は、やはり皐には聞こえていないらしい。
自分のぎこちない態度には、何か勘ぐっているかもしれないが、音声に対して反応する様子は見られない。
これ以上のガイダンスは流れないらしく、皐に悟らせない為の緊張は緩和されるかと思われた。
しかし思わぬ事態に、黒乃は表情を一変させた。
少し離れたブランコに座る少女の、その頭上に文字が浮いている。
青色に発行した文字で、《御伽りんご》と書かれている。
──瞬時に黒乃の中で合点がいく。
彼女がブランコからずり落ちたのは、自分が発した大声に驚いたからではなく、恐らく彼女も頭の中で話しかけられたのだ。
唐突に、あの機械音声に。
彼女は────御伽りんごは異世界23区のプレイヤーだ。
「……皐、悪い」
「どうした」
「先に帰っててくれないか。あの転校生に話がある」
「…………そうか」
皐は今日一番の驚く顔を見せた。
──友人は、たった一晩で身体能力だけでなく性格まで変わったのだろうか。
ゲームをする為の時間を捻出する為に、人との関わりを極力持たないように生きている筈。
異性に興味を持っていたとしても、自ら話しかけようなどとは決して思わない筈だ。
その黒乃が、妙に真剣な顔で転校生に話しかけると言っている。
まさかあり得ないとは思うが──彼は初恋にでも落ちたのだろうか。
結局皐は一考すると、「……クロ、気張れよ」と黒乃の肩を叩いて公園を後にした。
「……なんか……誤解してるっぽいな……マジでごめん」
皐の遠くなる背中へ、囁くように謝った。
さて、と言いながら黒乃はブランコに座る少女へ歩み寄る。
彼女の頭に浮かぶ、《御伽りんご》の発光した文字へ近づく。
彼女の目の前に立ち、りんごもまた黒乃の顔を見上げた時、黒乃の顔よりも真っ先に、頭上に浮かぶものに目がいった。
「え…………貴方も……」
「すいません。このゲームについてまだ何も理解できていない状況だったので、少しでも情報が欲しいと思って話しかけに来ました」
暗がりの公園で話しかけるのだから、警戒されない為にと黒乃は丁寧に謝りを入れた。
少しでも情報が欲しい。何せ命が懸かっているのだから。
黒乃がりんごへ言った言葉に嘘はなかった。
出来るだけ安心感を与えられるよう、女性と話す緊張などは伝わらないように努め、微笑みを交えた。
堂々と。紳士的に。まさかゲームヲタクとは思うまいといった自負を備えて。
「──大……魔法使いさん?」
「……っは」
──プレイヤーネームを直さないままだった。
りんごの一言で黒乃の今まで保っていた全ての平静が崩れ、そして頬から耳にかけて真っ赤に染まったのだった。
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