1-3 チュートリアル

 灯りを入れまいと何か遮るものを感じる暗闇だった。意識の世界だった。

 動き流れる物は一つもない。起きているか寝ているかの、その中間。

 

『──チュートリアルを開始します』


 暗闇へ声が落とされた。

 その声が目覚ましとなって、黒乃は目を開けた。


「…………え……っと……」

 

 視界を埋める真っ白な天井に続いて、清潔さに満ちた気持ちの良い空気が鼻へ入り込む。

 指先には硬めのシーツの感覚と、空気中には多量な薬品の匂いを嗅ぎ取る。

 ──病院だ、病院のベットの上だ。


「……あれ……どうして病院だ……?」


 自分の置かれた現状が理解できない。

 目を開ける直前に何か声が聞こえた気もする。

 しかし、ついさっきまで見ていた夢を思い出せないのと同じように、記憶から零れてしまったらしい。

 加えて自分の身に何が起きたのかも理解できない、思い出せない。


 現状把握の為に身体を起こし、周囲を見渡す。

 等間隔で置かれるベットと、それを隔てるカーテンの壁。

 自分が寝ているベットは窓際にあり、その窓もカーテンで外の景色を閉ざしてあるが、明かりが射し込んでいることから、今はどうやら昼間の時間帯。


 普通の集団病室だった。

 自分の他にも、眠っていたり起きて本を読んでいる人も居れば、どうやらクロスワードに興じる患者さんも居る。

 廊下の方から医療機器か何かを搬入するような、ズルズルと引きずる音も聞こえる。

 病院特有の静けさと昼間の空気が相まって、室内は平和で満たされている。


「何だっけ……何が……あったんだっけ……」


 戸惑いながら記憶を掘り起こす。

 未だ朧気な最新の記憶は、とあるゲームを欲した記憶。

 そのゲームは発売の一週間前に購入者希望者を募り、一枚の紙に書かれた四項目の記入を終え、そして提出しなければならないという変わったものだった。

 その手続きを行う為、新宿へ足を運んでいた筈。

 書類を書いて、受付に提出して、そして──。


「──異世界……そうだ……異世界!」


 必死に掘った記憶の穴から出てきたのは、気絶直前で耳に入ってきた馬鹿げた言葉だった。


「……確か、『異世界転移を』とか……言ってたような……」


 狂気と狂喜が合わさったような、不気味ながらに楽し気な男の声だった。

 しかし、他の世界をほのめかすような言葉を聞いたものの、今居る場所はどう見ても現代の医療機関。病院の集団病室。

 誰も点けていないテレビ。ところどころに置かれる点滴パックと支柱。

 同室に居る患者の誰を見ても、耳先は尖っていないし、髪色も青だったり赤だったりすることもない。

 着ている服もパジャマやスウェット。

 自分の想像する異世界の住人ではない。


「……異世界は……どこ行ったんだ……」


 半ば理解には及んでいた。

 ──此処は異世界じゃない。

 そんなことは歩き回らずとも一目で把握出来た。

 けれど淡く胸にこびりつく期待が消え去らない。

 ──どうか今見えている景色とは違う景色を。

 何かに抵抗するように飛び上がって、外を遮断する窓のカーテンを恐る恐る開けた────。


 ──建ち並ぶ高層ビル。上下に分かれて伸びていくコンクリート道路。走っていく車。歩く人々の衣服は見慣れたものだ。

 昼間の長閑さが外を満たしているが、廊下から聞こえる搬入らしき何かを引きずる音が、落ち着いた平和の空気を台無しにしている。

 どう見ても異世界ではなかった。


「……だよ……ね……」


 黒乃は感情の整理に忙しかった。

 何かの事件に巻き込まれたかもしれないと不安になるべきなのか、とりあえず命あってよかったと胸を撫でおろすべきなのか。

 目覚めた場所が異世界ではなかったことへ落胆する気持ちの割合が大きい気がする。

 正しい心の置き場所を見出さないままに、黒乃は目に見える環境から状況把握を行うことにした。


 上着を捲し上げて、自分の肌を触って確かめていく。

 外傷は特にはないが、捲り上げた服は普段家で自分が着ているものであることに気付く。

 Tシャツにジャージのズボンという部屋着。


「あれ……この服、母さんが持ってきたってことだよな……母さんは僕が入院をしていることを知ってるってことになる……。

 ん? どういうことだ……僕、誘拐されたわけじゃないってことか……?」


 手足を縛られているわけでもないし、他の患者さんもそれぞれが眠ったり廊下を歩行している様子を見ると、自分は自由を奪われているわけでもないらしい。

 つまりは現在、安全であると思っていいのだろうか。


 ──では一体なんだったのか。

 一体自分は何の為に気絶させられたのだろうか。

 ゲームの手続きを謳って、呼び寄せたユーザーを気絶させたのは一体何の為なのだろうか。ひょっとすると窃盗、ひょっとすると単なる事故。

 気絶直前、首付近に激しい痛みを感じたが、それはひょっとすると気絶させる為のものではなく、自分の不健康生活が祟って、危険信号として出たものだったのだろうか。

 ひょっとすると単なる卒倒──。

 色々な憶測が頭に駆け巡り、

「っていうか今何日なんだ……? 携帯……携帯何処だ……」

 とベット脇に置かれた棚を探したりしてみるものの財布も携帯もない。


 日時を含めた現状を確認するには、一旦ナースコールボタンを押してお医者さんなどから自分に何があったのかなど、自分の身体についてと一緒に聞くのが効率的だろう。

 しかし、その前に一つ、悲しい事実が浮かびあがり、黒乃の心を寂しさが覆った。


「…………ゲーム……嘘だったのかな……」


 薄々、気付いていたことだった。

 異世界23区というゲームをリリースする、その会社名も聞いたことがない。

 本体不要であり、商品金額も未記入。

 情報として存在するのは、現代のゲーム科学では不可能かと思われるシステムを説明する為の動画と説明書き程度。

 そんな怪しげなゲームの存在自体も、異世界転移などという言葉も、本当は存在していないことなどは薄々気付いていることだった。

 ただ、小さい頃から憧れた異世界を、より近くに感じられるかもしれないという──夢を叶えてくれるかもしれないという存在を嘘にしたくなくて、認められずにいた。

 

 自分が気絶させられたのだとしたら、異世界23区がゲームを販売するにあたってそんなことをする必要がない。

 普通に販売すればいい。

 黒乃は自分の中で戦う葛藤の、その現実的見解側に勝利をもたらし、諦めたような顔でナースコールボタンへ手を伸ばした。

 その──ボタンを押す直前のことだった。


『──チュートリアルを開始します。対象へ攻撃を加えて下さい』


 誰かが喋る声が聞こえた。

 聞き取り易い、機械が口を開いたような声だった。


「……だ、誰!?」


 大声を出した黒乃は、室内にいる患者の視線を集めた。

 どの瞳も驚きを携えている。

 頭の中に鳴り響いた機械的な音声が、まるで誰にも聞こえていないような──まるで黒乃一人が突然大声を上げたような、そんな驚いた顔で黒乃を見ている。

 その場の空気感に押されて、黒乃はすいません、となんとなく謝りを入れる。


「お兄さん、目が覚めたんですか? 看護士さん呼んだほうがいいんじゃないですか?」

 六台あるベットに眠る内の、一人の男性が黒乃へ心配を寄せた。


「あの……今、チュートリアルがどうとか……何か声が聞こえましたよね?」


 黒乃に質問を受けた患者は、黙って首を横に振ると、再びナースコールボタンを押すようにと、神妙な顔つきで念を押すのだった。

 どうやら事故か何かで、幻聴が聞こえてしまう後遺症が残ったらしいと、そんな風に言いたげな同情を向けられていることは黒乃に伝わっていた。


『チュートリアルを開始します。対象へ攻撃を加えて下さい。現段階では、自身の肉体を使用しての攻撃のみ有効です』

「うわぁああああ!! だ、誰なんだ!?」


 再び、黒乃一人が騒がしく声を上げた。

 自分へ向けて集まる視線は、どれも怪訝な眼差しである。

 だが声は確実に聞こえている。

 感情を感じ取れない、無機質でいて説明的な機械の音声。それは何処からか聞こえるというよりは、頭の中に小さい人でも住んでいるような感覚で聞こえていた。

 どうやら音声が自分にしか聞こえていないことを悟る。

 戸惑う黒乃を落ち着けようと、患者の一人が黒乃へ近づいた。

 

「あの、声どころか音も何も聞こえてないですよ。早く看護士さんを呼んだほうがいいですよ」

「…………え? 音も……聞こえないんですか?」

「何も聞こえないですよ……全くの無音です。何かの後遺症が残って──」

「ち、ちち違います! 廊下から何かを引きずる音がずっと聞こえてますよね!?」

「いやいや……全く……」


 瞬く間に黒乃の身体に鳥肌が立つ。

 ────ズルッ、ズルッ、と何かを引きずる音は、今も継続して聞こえている。

 てっきり医療機器の搬入の音だと思っていた。

 再び頭の中で喋る音声も合わせて聴きながら、黒乃は看護士さんを呼ばずに廊下へ駆け出した。

 廊下へ飛び出て左右に首を振る。

 ────ズルッ、ズルッ、ズルッ、ズルッ。

 音の正体は直ぐに判明した。

 

 それは、ぷるぷると這いながら、黒乃へ近づく半液状の塊だった。

 淡い水色の半液体の中に水疱と──何やら眼球らしきものが浮いている。

 

「何だよ……」


 それは複数居た。

 左から一匹、右から二匹、その半液状の何かが、液体を垂らして這った道に跡を作りながら黒乃へ近づいて来る。

 それを平然追い抜く形で──さも何も異常なものは見えない素振りで看護士の女性が通り過ぎ、黒乃の前を通過しかけたところで足を止めた。

 

「……あれ!? 猫町さん目が覚めたんですか!?」

「は、はい……あの……あれは……何ですか?」


 半液体状の塊へ向けて指を向けて黒乃が聞いた。

 看護士は指で差された方向へ目を向けたまま、「ん? どれですか?」と聞き返した。


「どれって……あのぷるぷるとした物体ですよ!」

「え? ど、どれですか?」

「左に一つ、右に二つ! 少しずつ動いて近づいてきてますよね!?」


 看護士は首を左右に何度も向けながら、更に注意深く目を細める。


「怖いこと言わないでくださいよ……ど、どれですか?」


 ふざけている様子はない。


 どうやら機械の声も、半液体の何かがその身を引きずる音も、誰にも聞こえていない。半液体状の何かの姿も、誰にも見えていないらしい。

 

『チュートリアルを開始します。対象へ攻撃を加えて下さい。自身の肉体を使用しての攻撃のみ有効です』


 これで何度目か。

 声は黒乃にまたも指示を出していた。

 その指示が言う、『対象』とはもしや、あのぷるぷるとした何かのことだろうか。

 

 自分にじりじりと迫る三匹の、液状の何か。

 ────スライム。

 黒乃のゲーム脳は、奴らをスライムだと判断させた。 

 スライムと遭遇したのだと、そんな非現実を現実的に体感している。

   

 にじり寄る魔物を目の前にして黒乃に湧きあがってきたのは恐怖。加えて目の前で起こっていることが信じられない気持ちが大半。

 しかしその気持ちを急速に追い越していく──スライムと出会えた奇跡に対する感謝と、そして同等の興奮が黒乃の胸に燃え上がり始めていた。

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