第8話 エピローグ

 信じられそうもない出来事は、得てして日常のなにげない時間のすきまに、すっと忍びこんでくるものかもしれない。

 隆一は、今も、そう思う。 

 十代の多感な頃、亡くなったはずの母方の祖母が見知らぬトラックの助手席にすわっているのを見かけた。

 白昼夢だった。

 彼は、その直後、もうすぐ刈り取りができるほどに実った稲穂がたれさがる田んぼわきの農道を自転車で走行していて、事故にあった。

 小さな四つ角。

 左から直進してくる軽乗用車を認識できなかったのである。

 まともにぶつかっていたら、間違いなく、今の自分はなかったと隆一は思う。

 左脚のかすり傷程度ですんだのは、祖母が知らせてくれたからとしか、思えなかった。

 だから、今回、一階の数珠のれんを、左手でぱらリとわきに寄せたとき、異界があらわれたのだと理解するのに、隆一は別段のためらいがなかった。

 じゅずは神仏をまねくに、じゅうぶんな小道具だった。

 原田よう子の脚はほとんど電気こたつの中にあった。

 もはや、隆一にとって、よう子が幽霊かどうかなど関係ない。

 地獄の釜の中から、どうにかこうにか抜け出して来てくれた。

 そのことに、感謝の気持ちでいっぱいだった。

 「変なの。わたしに会いたかったんでしょ。だったら、何か一言、わたしに声をかけてくれてもよさそうなものじゃないこと。いつまでもそうして立ってるとじれったくて。戻るべきところにすぐにでも行きたくなるわ。昔のままの、煮え切らない態度じゃこうしてあらわれたかいがないわ。あの時、好きなら好きときちんと言ってくれてさえいたら、わたしは」

 よう子は読んでいた本を閉じた。

 ツアラストラはかく語りき。

 隆一があの頃よく読んでいたものだ。

 原田よう子は、今もなお、まなざしに、知的なかげりをひそませていた。

 「し、しかしね、ほんと、こんなことって。はっ、はらださん」

 思わず、言葉がつんのめる。

 隆一はなるべくすらすらと話したい。

 だが、なんとしても口の周りの筋肉がいうことをきかない。

 うまく言おうとすればするほど筋肉がこわばってしまう。

 生身の存在だからだろうか、それとも神様か仏さまのはからいだろうか。

 さめてみる夢のなかに自分がいる。

 そして、黄泉のくにからやってきたよう子と対面している。

 そんな状況だから、いつものように口が動かないんだと、むりやり自分を納得させた。

 「なにを考えてるか、手に取るようにわかるわ。まあ、ごかってにどうぞ」

 あきれたという顔をし、よう子はついと立ち上がった。

 「あなた、なんだかやせたみたい。昔もそうだったけどね。考えてもしょうがないことであれこれ苦しんでるんでしょ。でも、少しは反省してくれたようね。おかげでわたし、こうやってあなたの前に出てこれたの。わたしたちの魂ってね、生きてる人の祈りのおかげで輝くのよ。ちょっと待ってて。A子のところに行って、食べるもの、作ってくるから」

 隆一は、それに対して、うん、としか応えられなかった。

 しかし、今の隆一にとって、それでじゅうぶんだった。

 隆一はじゃまにならぬよう、部屋のすみに寄った。

 湯子は二本の足をもっていた。

 「まったくもう。じろじろ見ないでって言ってるでしょ。失礼なところ、変わってないわね」

 「ごめん」

 「まあた、ごめんか。まあいいわ。いつだったか、そう、わたしがこのアパートにいるときだったわ。あなたの部屋を訪れたことがあったわね。友だちのKさんといっしょだった。あなた、突然、こたつの中をのぞいたでしょ。わたし、スカートだったから思わず両脚を閉じたわ」

 「ええっ?そ、そんな。やめてよ。そんな話、むしかえさないでくれよ」

 「いやだ。忘れない。親友と来てるのよ。わたし恥ずかしいったら、なかったわ。もう死にたいって思ったもの、あの世へ旅立つにしても、この世のことをまるまる持っていくんだから」

 「そ、そ、そんなあ」

 「ふん、せいぜい苦しむといいわ。苦しんで苦しんで、そうしてから、わたしをたずねてきて。今はあなたをかわいそうに思うから、ちょっと助けてあげる」

 よう子は、上り口のほうにからだを向けた。

 振り返りざま、黒地に白の水玉もようのスカートのすそがふわりとゆれた。

 不思議なくらいに豊かな黒髪。

 それをたばねた黄色のリボンが隆一の目を射た。

 隆一は、ためていた息をはいた。

 驚きのあまり、呼吸もろくになされなかった。

 よう子がピンク色のカーテンの向こうに消えてしまい、彼女がスリッパをせわしなくはいた。

 その音を、隆一は、幸せな想いで聞いた。

 突然、ピンクのカーテンが引き込まれそうに動き、ドアがバタンと閉じられ、隆一は、部屋に、ひとり残された。

 よう子のまわりに漂っていた雰囲気が、すっかりなくなってしまったのが寂しかった。

 再び、よう子が現れたとき、彼女はボールいっぱいのきざんだレタスとチャルメラ・ラーメンどんぶり一杯分をもってきてくれた。

 生前と同じだった。

 そして、彼女は真夜中になっても、部屋を去らなかった。

 くり返されるんだ、と隆一は思った。

 だったら、今度こそ、決めてやる。

 よう子が不慮の事故死に逢うことのないようにしてやる。

 隆一は七年分の悔いを絶対に晴らすつもりだった。

 彼は荒々しいまでによう子の唇をうばうと、ふるえる指先で、彼女のブラウスの胸のボタンをはずしはじめた。

 よう子は決してあらがわなかった。隆一の思うがままに、身を任せた。

 涙がひとすじ、よう子のほほをつたって流れおちた。

 

 

 


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女靴 菜美史郎 @kmxyzco

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