第7話
手紙の文面では、すぐにでも、よう子が隆一のもとに来るように書かれていたが、三日たっても彼女は現れない。
やはり、あの手紙はいたずらだったんだ、と、隆一はあきらめてはみるものの、心の奥底ではちがった。
淡いが、しっかりした期待をもっていた。
一週間たった。
それでも彼女は隆一の前に姿を見せない。
よう子は明らかになくなったのだ。彼女にかかわる何かが自分のもとに来ても、気づかないでいることだってじゅうぶんにありえた。
彼の期待は、針を刺された風船のようにしぼんだ。
隆一は、精神的に、かなり追いつめられ、一日に、何度となく、アパートの玄関先にある郵便受けをのぞくようになった。
「ちょっとちょっと、吉崎さん。だいじょうぶ?この頃なんだかやせたみたいだけど。きっと、誰か気になる人がいるのね。お手紙なんかは、わたしがちゃんと見ていてあげるから。心配しないで、勉強やアルバイトにがんばりなさい。そして今度こそ、卒業しなくちゃね」
大家の奥さんが、隆一の健康を気づかい、声をかけても、
「ええ、はい」
と、今にも消え入りそうな声で応えるだけだった。
ある日の夕方、めずらしく、夕焼けがきれいだった。
(よう子に似た女がやってきたのは、確か、こんな夕暮れだったな。あいつ、どうしてるんだろ、今ごろ)
性格はまったくよう子と正反対だったが、単に似ているというだけで、隆一はその女のことを思った。
それほどに、隆一のよう子に対する想いはつよい。ちょっとしたことでも、眼に涙がにじんでしまう。
太陽が西に沈んでいくのをつぶさに見ようと、隆一は外にでた。
空気の澄んだ秋の日没にはほど遠い。
だが、それでも夕陽がけんめいに輝きを放っている。
まわりの灰色の雲を朱色に染めあげ、しだいに大きさを増して、富士山の裾野のかなたに沈んでいくところだった。
(よう子は亡くなったのに自分は生きている。彼女よりずっとつまらない人間なのにな)
生きているというより、なにか大いなるものに生かされている。
隆一は、ふとそんな気がした。
ひょっとして、よう子は今日じゅうにあらわれるかもしれないな、と彼は思ったが、特に証拠があるわけではなかった。
とにかく腹が減ってはいくさができぬとばかりに、元気をつけておかなくちゃと、彼は部屋にもどり、即席ラーメンをつくることにした。
電熱器のニクロム線の色がまっ赤になるのを待つ間も、彼の脳裏からよう子の面影が去らないでいた。
隆一は、一度だけ、よう子とデートをしたことがある。
県でも名の知れた観光地。渓流を、ふたりして、渡った。
十月の中旬で、淀みに重なり合った赤や黄のもみじ葉が、川底を一枚のキャンバスに仕立て上げていた。
「おれが足を踏み外したら、よう子、どうするかな」
隆一はしかめっつらを崩して言った。
すると彼女は、隆一のほうを向き、
「どうぞ、どうぞ。わたし、助けないから」
と言って、ほほえんだ。
そそり立つ岩山を登りきったとき、隆一は彼女の手をとり、はにかみながら、
「手を貸してあげるから」
と勇気を奮いおこした。
彼はなんとしてもよう子に触れたかった。
眼を丸くしながらも、彼女はそれを受け入れた。
隆一は、そのまま、よう子を抱き寄せたかった。
そのあと、隆一はくやんだ。
あれが恋の分かれ道だった。思い切って、抱きしめていたら、彼女が死ぬことはなかったんだ、と、長い間、唇をかんだ。
電熱器の上に手をかざした隆一は、もう鍋をのせてもいい頃合いだと思い、どんぶりばちいっぱいの水を入れただけの鍋をのせた。
チャルメラのラーメン一袋を、バリバリ音をたててやぶり、乾燥めんをさかんに泡立っている湯の中に入れ、三分ほど待ってから、どんぶりばちに移しかえた。
彼はふにゃりとした麺を、ずるずるとのみ込んだ。
その頃、よう子は部屋をひきはらった。
実家に帰ってしまい、めったにアパートを訪ねなくなっていた。
さみしさが彼を変えたのか、ある日の夜、あろうことか、隆一は、よう子の親友だったA子に、唐突に告白した。
「なんて人なの、あなた、それじゃおかしいんじゃないの。よう子さんのこと、どうするのよ。おもちゃみたいに、もういらないって捨てちゃうんだ」
A子の問いに、隆一は言葉をなくした。
ざまざまな記憶が、隆一の脳裏に、ふわふわ下りてくる。
そのたびに彼はぼさぼさ頭をかきむしり、なんとかして忘れようとした。
ラーメンとともに、腹の中に水分が多量に入ったからだろう。
おしっこをしたくなった隆一は階段をおり、玄関にでた。
夕陽が、いまだに、すのこの上を去らないでいるのに気づき、彼の期待が急激に高まった。
アパートに入った隆一の眼に、まっさきに飛び込んできたのは、ひとそろいの婦人靴だった。
ひょっとして、ひょっとして、とそれらを観察せざるをえない。
忘れようとしても忘れられない女靴。
いちばん奥まったすのこの隅に、きちんとそろえられていた。
彼は驚きのあまり、いくども目をこすった。
まるでビデオテープを巻きもどして見ているようで、再びトイレに行き、ドキドキし始めた彼の心臓を落ちつかせようとした。
玄関先にもどってくる途中、ぶらりと垂れ下がっている数珠のれんを、右手でバラリとわきに払ったとたん、目の前の風景がいつもと違うように感じた。
セピア色にくすんだ映画を観ているようで、なにか落ちつかない。
「あら、吉崎さん、ちょうどよかった。今晩、原田さんが来てるのよ。いっしょにお茶でもいかが」
だしぬけに聞こえた女の声に、隆一は自分の耳を疑った。
よう子の親友、A子の声だった。
A子はとても若く、七年前とほとんど変わらない。
「そっ、そんなばかげたことが。A子さんって、もうとっくに卒業したはずじゃ」
思わず、そう口走り、隆一はあとずさった。
よう子恋しさのあまり、きっとどうかしてしまったんだ、と思った。
「なに、ぶつぶついってるのよ。おかしな隆一さん。わたしを忘れたなんて言わせないわよ。モウションかけたでしょ、わたしにも、よう子さんとお付き合いの最中だったのにね」
「そ、そんな。あのときは、俺、どうかしてたんだよ」
「女には通用しないのよね、そんな手は。よう子にそのことを言ったら、激怒してたわ。もう口もきかないって」
「ええっ?しゃべったんだ、彼女に」
「どうでしょうね。この、うわきものめ。こないだもそうだったでしょ。全然無視したんだから、わたしたちを、大宮から日光に行く列車のなかで、同じアパートのYさんといっしょだったじゃない。あなた、わたしと、ちらっと眼を合わせたでしょ。よう子がわたしのとなりにすわってたんだし。知らなかったなんて言わさないから。Yさんは来てくれたけど、あなたったら、わたしたちのところに、最後まで顔をみせなかったんだから。よう子さん、ほんとにがっかりしてたわ。ほらほら、ためらってる場合じゃないでしょ。わたしの部屋に来てちょうだい。そして、ちゃんと彼女と向き合って」
隆一は、もはや、今、自分がどこでどうしているのかさえ、よくわからない。
まるで、タイムトラベラーで、時間をさかのぼっているようだった。
だが、ここでよう子と出会えるんなら、万に一つのチャンスだと思い、即座に
「わかりました」
と応えた。
一階のいちばん東側の部屋に、A子は迷うことなく、隆一を連れて行く。
その部屋には、今、北海道出身の三回生、M男が住んでいるはずだった。
だが、彼の気配がまったくなくないのが不思議でしょうがない。
A子はなんの抵抗もなく、ドアを開けた。上り口に、ピンク色のカーテンが引かれていたため、部屋の中が見えなかった。
A子は、自分のからだが通れるだけ、カーテンを右側によせ、
「よう子さん、彼を連れてきたわよ」
と、部屋の中に声をかけた。
隆一は、よう子の返事を確認できなかった。
「それじゃ、わたし、ちょっと席をはずしてるからね。積もる話があるでしょうから、おふたりでごゆっくり」
A子はそう言うと、ドアから廊下にでた。
その際、彼女はふりむいて、隆一の顔を見て、にこりと笑った。
ひとり残された隆一は、しばらくの間、どうしていいかわからず、上り口でたたずんでいた。
部屋の中で、よう子らしい人の咳ばらいが、ひとつ聞こえたのを契機に、隆一は、カーテンのすき間にからだをすべりこませた。
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