第6話 

 次の日、隆一は、朝遅く起きた。

 机の上の置時計をみると、かれこれ午前十時。

 原田よう子からの手紙が、彼の安眠を妨げたのはいうまでもない。

 彼は寝ぼけまなこで両足をつかい、かけぶとんを下のほうにおしやった。

 頭がじんじんする。

 飲みすぎた酒のせいか、それとも、冬の空気が残るY駅周辺を真夜中までうろついたからかと思い、羊のかずを数えるかわりにと思い、天井の木目をひとつひとつていねいにながめた。

 (くそっなんてやっかいな手紙なんだ。よほど俺の過去をくわしく知っているものじゃなければ、ああは書けないじゃないか)

 彼はそう心の中で言い、ああ、だめだだめだ、人のせいにしてはいけないじゃないか、と声に出してから、かさついた唇をかんだ。

 起きあがって台所に向かい、水道の蛇口をひねった。

 グラスに八分目まで水をいれ、二三度うがいをしてから、彼の身につもりにつもった雑念を洗い流すかのように、残りの水を飲みほした。

 くだんの封筒は、ガス台のすぐわきに、ぽつんと置かれている。

 封筒の口がやぶられ、なかの便せんがはみだしているのに気づき、意外に思ったが、これも自分のせい。ゆうべ帰宅直後に、自分自身がそうしたに違いない。

 宛名の文字が、原田の筆跡によく似ている。

 しかしだよ、しかしね。まさか亡くなった本人が書くなんてことがね、ありえないだろ、と、彼はつぶやいた。

 手に取るのもはばかられるが、そうもいかない。

 もう一度確認する必要があった。

 この数カ月、隆一は肉体仕事じゃなく、事務仕事に就きたいと思っていた。

 しかし今でも、容易に見つけることができない。

 それに加えて、今回の手紙の件だ。

 どちらも、おいそれと解決できる課題ではなく、隆一の神経を痛めつけた。

 アパートの部屋にいても気がめいるばかりだ。

 いい天気に触発されたのか、隆一は、久しぶりに、大学に行くことにした。

 挨拶がてら、卒論担当のY教授にお会いしてこようと思った。

 二カ月くらい調髪しないざんばら頭を、両手でなでつけながら、大学のビル群につづく坂道を、まるで拾いものでもするように、うつむいて歩く。

 背中を丸めた年寄りのようで、表情が暗い。

 腹巻きの中に、あの手紙を入れている。

 苦労症ぎみの彼の性格は、母の美代子に似た。

 彼女はとり越し苦労が多く、何ごとにくよくよするために、いつも目が奥にひっこんでしまうと言っては、笑った。

 利点といえば、たいがいのことを、ほとんど完ぺきにかたをつけることができることができることだ。

 ふいに息苦しさをおぼえ、隆一は空を仰いだ。

 考えてもどうしようもないことを、脳裏から払しょくしてしまおうと、深いため息をついた。

 七年前とほとんど変わらない景色が彼の目に入った。

 四方が山で囲まれているせいで、なんともいえぬ閉そく感がただよう。

 だが、この単科大学の役割は大きく、人口三万に満たない街を、数十年、活性化しつづけている。他府県からきた学生が語る言葉や行為が、ともすればよどみそうになる街の雰囲気を、いつも新しくしていた。

 長い歴史のうちに、この地方の人々のこころの底にたまったおりを吹き飛ばす役割を果たしているのだ。

 しかし、その学生にせよ、短期間のうちにさっさと卒業するのならいいが、長居をしようものなら、いつの間にか、初心を忘れ去ってしまう。

 原田よう子は、この地方出身者だったが、異例の学生だった。

 親思いで学問好きな娘で、都立のR大学に受かりながら、母親をさびしがらせるのがいやさに、この大学に進学したのである。

 四回生になったとき、彼女は実家にもどり、少しでも家計を助けようとアルバイトに励んだ。

 そんな品行方正のよう子に比べ、隆一はずいぶん見劣りがした。

 ふた親のすねっかじりを、なんと四年間つづけたのである。

 電車を半時間も乗れば、この国でいちばん有名な山である富士山を見ることができた。

 にもかかわらず、彼はこの七年の間、一度も頂上までのぼったことがない。

 何ごとに対しても、ひっこみ思案というか、やぼったい。

 そんな性格が、彼から他人を、とりわけ女性を遠ざけていた。

 「きゃあ、うそでしょ。やまがみとかいう、あの英文法の先生、Y子ちゃんにモウションかけたんだって。あははは、そんなことむりむり。けっこう年取ってるのにさ。原色のもの着こなしたりして。なあんか、かわいい」

 「そうよね、ださいなら、ださいでいいのにさ。むりして若づくりしても、ご老人はご老人。おとなしくしてたらいいのにね」

 「そこまで言うか。かわいそうじゃない。あの人、本気みたいよ。ちょっとは同情してあげたら」

 彼のわきを、この春入学した女学生たちが二、三人のグループをつくり、大学の教官のわるぐちを、さも楽しげに語らいながら、通り過ぎていく。

 (くそっ、ださいとか老人とか、まったくうるせえな。それみんな、俺自身のことじゃねえか)

 隆一は、彼女らに気づかれないよう、心の中であくたいをついた。

 まわりの木々の緑が、若い娘たちの生命力と互いに共鳴しあい、大学構内や周辺に、はなやいだ雰囲気をかもしだしていた。

 「これでいいですよ。おおざっぱなところはね。このせんでいきましょう。いい論文をたのみますよ。期待してます」

 Y教授の励ましに気を良くし、隆一はさっそうとドアを開け、廊下にでたとたん、彼の腹がググッと鳴った。

 朝から何も食べていなかったことを思い出し、学生食堂に直行した。

 そこで顔見知りのおばさんにぺこりと頭をさげ、「おねがいします」の一言。

 彼の場合、それだけで用が足りた。長い付き合いであった。

 ほとんど待つことなしに、

 「りゅうちゃん、できたよ」

 と、おばさんの呼び声がかかった。

 彼は大盛りカレーののった皿を、両手で大事そうに持ち、ゆっくり歩いた。

 その様子が面白いのか、ひとりの女学生が思わずふきだしそうになった。

 (新入生って、まだまだ子どもなんだわな。こんなおっさんの行為が面白くて、あんなに屈託なく笑えるんだものな)

 食堂のドアふきんで、もうひとつ笑い声が起きた。さっき坂道ですれ違った女学生たちのようだ。

 彼は、彼女らの一挙手一投足を、まぶしげに見つめた。

 ふいに、彼の視線がひとりの女学生を射た。

 いや、その反対であったかもしれない。

 その女学生が、隆一を、真剣に見つめた。

 彼女の横顔が、原田よう子、そっくりだった。

 隆一の視線に気づいたのだろう。彼女は、一瞬、ぎろっと隆一をにらんだ。

 「吉崎先輩、めずらしいですね」

 すぐわきで、男の声があがった。

 「あっ、鈴木か。誰かと思ったよ」

 「俺でわるかったでしょうか。ひょっとしてすわっていいですか、となりに」

 「ああ、いいよ。あかんっていう理由もないだろ」

 「ええ、ありがとう。すみません。先輩の関西弁、めずらしいですね」

 鈴木は、むりやり、笑顔をつくって、言った。

 「ちょっと待っててくれるか」

 隆一はいそいでスプーンを動かし、最後の一粒までカレーライスをたいらげた。

 「それでね、先輩。最近行ってらっしゃいますか」

 鈴木は、目的地を言わない。

 「行って来たって、いったいどこへだい」

 「また、先輩、わかってるくせに。かまととぶらないでくださいよ」

 「かまとと?ちがうぜ。なんの話だろ」

 「まあいいです。先輩がそういう気持ちなら。ああそうだ。よかったら、今夜いっしょに銭湯でもどうです?きれいなのがあるんですよ。ちょっと遠いですが」

 「へえ、どこだろ。ああ、いいなきれいなの。考えとくよ」

 原田よう子は、確かに亡くなった。からだは火で焼かれた。だが、彼女のたましいはと言えば、どこかで残っている。

 隆一はそう考えていた。

 だから、今でも、原田よう子は自分の「恋人」である。

 よう子からの手紙は、もちろん、誰かのいたずらだろう。

 鈴木和夫に、その手紙のことまで、正直に話す気にはならなかった。

 

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