第5話

 O駅がまじかに見える暗がりに、隆一がひそんでいる。

 民家と民家の間の露地、時折、カーンと蚊の飛ぶ音がしたり、黒いしみのような大きさの虫が彼の目のまわりを飛びまわる。

 (ちくしょう、これじゃ毒虫に血を分け与えるために入ったようなもんだ。だけどな、こんな寒い時期によく生きてるよな。どこかに腐ったものでもあるんだろう。よう子よ。いるならいるで、早くおれの前に姿を見せてくれ。でないと、おれ、からだがじんましんで腫れあがってしまう。付き合いと呼ぶほどの関係じゃなかったが、それくらいのことは覚えてくれているだろう)

 ぶゆに刺されたのか、二の腕が痛みだした。

 それを我慢しながら、五メートル先にある踏切を見つめる。

 夜霧が左方向から流れてきては、線路をぬらしていく。

 田舎町の線路である。

 あちこちに人が渡れるほどの通路が設置されている。

 彼は、二本の線路を横切るようにして、向こうの土手に造られた階段までつづく通路を見つめた。

 その土手をのぼりきると、三メートルくらいの道があり、その先を右方向に数分行けば、彼が入学当初に借りたアパートがあった。

 それからは坂道になり、すぐに、この街をつらぬいて流れるK川にたどりつく。

 つり橋を渡ってからは、ごくごく狭い道になり、それ蛇のように山頂まで曲がりくねりながら、武田家ゆかりの城跡公園に至る。

 そこまで考えて、彼はアルバイトに忙しく、この数年、一度も公園を散策していないことを思い出した。

 七年へた今でも、一番目に借りたアパートは当時のままらしい。

 以前そこによう子をいくども誘ったが、そのたびに断られた。

 その時の情けない顔がふと脳裏にうかび、隆一は苦笑いした。

 月額二千八百円の四畳半、その部屋で、近い将来必ず中学の英語の先生になるという夢のために、今度こそ本気で勉強しようとした。

 希望に燃えて進学した高校、最初はそれなりに楽しかったが、二年生になると就職組と進学組にふりわけられてしまい、学年があがるにつれ、差別化がすすんだ。

 卒業まで、点数ばかり気にする、なんとも味気ない高校生活になった。

 辺りはじゅうぶんに暗くなった。

 えたいの知れないものが現れるには、ちょうどいい時刻である。

 隆一はじっとして動かず、首だけ動かし、周囲の変化を見きわめようとした。

 鈴木和夫の言うことが真実なら、もうじき、よう子に出逢えるはずだ。

 そう思うと、隆一の胸が高鳴った。

 ときどき、幽霊なんて実在するもんか、おまえはなんてばかばかしいことをしているんだ、ともう一人の自分がささやくが、あえて無視した。

 よう子が亡くなってから、隆一は元気をなくした。

 日々さみしさがつのった。

 彼女に会えるのだったら、あの世に行くのもいとわないとまで思ったとき、自分が、心底、彼女のことが好きだったんだと思った。

 ふいに、コツコツという音が、彼の鼓膜をひびかせた。

 ひょっとして、と、隆一はごくりと唾を飲み込み、来るべきものを待ちうけた。

 からだ全体が心臓になったようで、ドク、ドクという音ばかりが聞こえた。

 (幽霊には足がないと決まっているではないか。靴音をひびかせることなどできっこないぞ)

 そう考えて、彼は、やにで茶色くなった歯をみせた。

 ああ、俺ってほんとにばかなんだと思い、破裂する寸前までふくらんだ風船から空気がぬけるように深い息をはいた。

 O駅方面、食堂「いこい」がある辺りまで、薄目で闇を透かすと、誰か来る。

 人影から察すると、若い女らしい。

 信号機の明かりのせいで、彼女は赤や青や黄の光が混ぜ合わされたような光のもとを歩いてくる。

 小道の右側は民家の塀がつづき、塀ぎわまで植えられた背の高い木々が月の光を受けてほの白い。

 ふたつのピンク色の靴、そして、若い女の足首が、さらには彼女の脚を覆った青っぽいジーンズがはっきり見えた。

 学生だろう。歳は二十歳くらいである。

 青いプラスチック製のおけを持っている。

 こんなに遅くまで営業している銭湯があるはずがない。どうせどこか知り合いの下宿であそんでいたのだろう。

 隆一がひそんでいる露地の手前で、不意に、彼女は立ちどまった。

 「やまちゃん、やまちゃん。早く来てよ。誰かいるよ。なんかいやな感じ。わたし、こわい」

 「なんだい。自分かってにさっさと歩きだしたんじゃないか。そっちは暗いところがあるからいっしょに行こうっていったろ。どこに?なあんだ、だれもいやしないじゃないか」

 若い男が女のもとにかけあしでやって来て、辺りをきょろきょろ見まわした。

 「で、でもいたのよ。そこに。その露地の奥よ、きっと。こっちをじっと見つめてたみたい」

 「そんなことまでわかるものか」

 「わかるのよ。女って。敏感なのよ。自分を守らなくちゃならないから」

 「へえ、第六感ってやつか。ああたまげたじゃんかよ」

 女が隆一のいる場所をものの見事にゆびさしたので、隆一はあわてて露地の奥に逃げこまざるをえなくなった。

 「なあんだ。嘘ばかりいってさ。誰もいないぜ。草がぼうぼう。あんなとこにいたら虫に刺されて死んじゃうぞ」

 「そうかしら。たしかに気配がしたんだけどなあ」

 それからは、隆一のひそむ露地まで、誰も来なかった。

 野良犬が一匹、民家の塀のそばの電信柱までやってきて、おしっこをひっかけただけだった。

 その犬は隆一のところまでやって来て、小さくうなった。

 「あっちへ行きな」

 隆一がやんわり言い、ポケットにあったビスケットのかけらを地面にほうり投げると、初めは用心して匂いを嗅いでいたが、すぐに食べてしまった。

 もうひとつと催促する様子を見せたが、隆一は与えなかったので、あきらめたのか、すごすごと立ち去って行った。

 かれこれニ時間くらい、隆一は立ち続けただろう。

 ふいに、のぼり方面の暗がりが明るなり、太い光があたりの闇を照らしだした。

 O駅行きの最終列車がやってきたらしい。

 車内にいる誰かに見られるかもしれないと思った隆一は、もっと露地の奥へと思い、少しだけ移動した。

 原田よう子の死は、彼女の乗った軽乗用車が、ダンプカーと正面衝突したことにより、もたらされた。

 だが、隆一は、現場を見ていない。

 彼より一年早く、よう子は卒業、埼玉県のS市のある小学校につとめた。

 最初の夏休みが始まった日、山梨の実家に帰ろうとして事故に巻き込まれた。

 彼女の母から涙ながら、大きく壊れた軽自動車の写真を見せられては、認めないわけにはいかなかった。

 隆一はよう子の実家に行きたくなかった。行けば、いやでも彼女の死に向き合わなくてはならなかったからだ。

 彼が、彼女のふるさとを訪れたのは、よう子をあねごと呼んで慕ったアパートの同僚の強い誘いがあったからである。

 その夜は、結局、何ごとも起らなかった。

 鈴木和夫にそのことを告げると、

 「ああそうでしたか、きっと彼女、恥ずかしかったのでしょう」

 とだけ言った。

 それから三か月が過ぎ、日射しに春めいたあたたかさが感じらようになった頃、彼は一通の手紙をうけとった。

 差出人は、原田よう子とある。

 隆一は、あっと言ったきり、まるでからだが固まってしまい、しばらく動かすことができなかった。

 封筒の裏に住所はなかった。

 ひょっとして、この封筒は原田よう子からのものかといった思いが、一瞬、隆一の脳裏をかすめたがすぐに思いなおした。

 (いつか玄関先に置いてあった婦人靴と同じく、この封筒だって誰かのいたずらだろう。それにしてもおかしい。今でも彼女の名前を正確に知っているものと言えば、俺くらいだし。あとは彼女の親友だったM子だが、彼女は数年前に卒業してしまっている。あとは、よう子の家族くらいのものだ)

 その封筒は、よう子から初めてもらった手紙とまったく同じもので、女性らしいおもむきのあるものだった。

 その封筒のふちがやけにセピア色なのが、気になった。

 震える手で、封筒から手紙をぬきだし、黙読しはじめた。

 「あの夜は失礼しました。貴方の前に出て行こうとしたのですが、若いカップルにじゃまされ、果たせませんでした。でも、まもなく参ります」

 達筆で、そう書かれていた。


 

 

 

  

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