第4話
隆一は、遠くの灯りを見ているうちに、じぶんの魂が体からすうっとぬけだし、蛍火のようにふわふわ、いずこかへ飛び去って行くように感じた。
部屋にいるじぶんは空蝉、乗用車の中の紙ひと切れにも似て、ひとたび強い風が吹き込めば、ほそく開いた窓から一瞬で外へ放り出されてしまう。
(考えるのはじぶんのことばかり、独りよがりで、思いやりのかけらもないじぶんなど、これ以上生きてる値打ちがない……)
マイナスの想いばかりが隆一の脳裏に浮かんでくる。
ふいに隆一の頭がずきずき痛んだ。
喉がからからに乾き、むしょうに煙草が喫いたくなる。
じぶんがしっかりしていないから、いともたやすく、まぼろしにたぶらかされてしまうんだ。窓から飛べ、鳥みたいにな、とっても楽になるぞ。
幻聴だろうが、そんな言葉を誰かが耳もとでささやく。
隆一は、よし、それならやってやろうじゃないかと気負い立ち、机わきの椅子を窓際に寄せた。椅子の背もたれをぴたりと壁に押しつけた。
コンコン、コンコン。突然、部屋のドアを誰かがたたいた。
「吉崎さん、いますか。小荷物が届きましたよ。至急、玄関まで来てください」
大家さんの奥さんの声だった。
「はい、今すぐに……」これだけ、隆一はやっと言った。
(ああ、あぶなかった。すんでのところで助かったぞ)
転がりそうになりながら、隆一は階下に降りる。受け取り用紙にサインし、ふるさとから届いたばかりの宅配物をかかえ、また階段をのぼった。部屋にもどり、蛍光灯の明かりのもとで小荷物の包装をといた。
送り主の欄に、隆一の母の字。古い言葉で書かれていて、あちこちわからないところもあるが、子を思いやる気持ちが行間に感じられてうれしい。
伊賀名物のかた焼きを一枚、さっそく口にくわえ、畳の上にごろりと横になる。
天井の木目を見ながら、やわらかくなったところでぼりぼりとかんだ。
甘みがわいてくる。なぜか、まぶたがうるんだ。
ふいによう子の実家を訪ねたときのことが脳裏にふわりと浮かんだ。
「まったく、あなたって人は。こちらの都合も訊きもしないで。勝手に、実家まで押しかけてきて。世間知らずにもほどがあるでしょ。母なんて、何も知らないんだから、もう、ただただ驚いてたわ」
「ああ、まったくね、きみの言うとおりだ。ごめん、ごめん」
「ごめんですむと思うの」
よう子の怒りが収まるまで、隆一は顔を上げないでいた。
彼女の実家まで、電車を使ったり歩いたりしておよそ三時間かかった。
「こちらはよう子さんのおうちですか」
畑でくわをふるっていた、よう子の母らしい中年の女性に、隆一が声をかけた。
「そうですけど。よう子はまだ会社から帰っていませんよ。あなたはどなたですか」
「同じ大学の同級生です。この間までよう子さんとは同じアパートにいました。たまたまこちらに来る用がありまして、失礼とは思ったのですが寄らせていただきました」
「はあ……」
治子は鍬をふるう手を休めた。
「家のとなりのハウスがよう子の部屋になっています。よかったら帰ってくるまで待っていてやってください」
(この人はいったいどういう人なんだろう。少し頭がおかしいんじゃない。実家に訪ねて来るなんて、娘から一言も聞いてない)
夕餉の支度で、治子は、キャベツをきざむ手をすべらせ、あやうく指を切ってしまうところだった。
「お母さん、ただいま」隆一の耳にも、よう子の声が届く。
「お友だちがみえてるよ」
「ええっ?だれ?」
「男の人だよ」
「ええっおかしいわね、約束してないのに」
「おまえ、仕事が忙しくて、忘れちゃったんじゃないの」
「そんなことないわ。わたし、なんだってちゃんと覚えてるもの。」
「だよ、ね」
「いったい誰なんだろ。見当もつかない」
「でもね、悪げな人じゃないみたいだよ」
(よう子が来る。今にドアを開ける)
隆一は、そわそわし始めた。彼の胸はしだいに高鳴ってくる。
よう子がハウスの扉をあけた瞬間、隆一は思わず目を閉じた。
よう子は一瞬、押し黙り、ごくっとのどを鳴らした。
「もう、いやだわ。困った人ね、隆一さんったら、勝手に、わたしの家まで押しかけて来るんだから」
「ごめん」
「ごめんじゃないわ。じぶんが何をしたか、わかってるの」
「そうだよな。怒るのは当たり前だ。でもさ、きみがアパートをひきあげるとき、何か一言でも告げていってくれれば、おれ、こんなことしなかったかもしれない」
隆一の指摘に、よう子は黙った。
「でもね。こんなことってないわ。まったくなんだって人のせいにして。わるいくせよ。あなたって……。まあいいわ。せっかく来たんだからお茶でも飲んでいって。五時を過ぎれば兄が帰ってきます。そしたらあなたをI駅まで送ってもらうように頼みます」
よう子は急に丁寧な口ぶりになった。
「ありがとう。ほんと、申しわけない」
隆一は頭を下げるしかなかった。
「ああ、あ、きょうはなんだか疲れたなあ」
隆一はそうつぶやきながら机の前の椅子に腰かけた。
しばらくして、突然、ドアがたたかれた。机につっぷしてうとうとしていた隆一は、目をあけて、机の上の置き時計に目をやった。
もうすぐ午前零時になるところ。ちょっと非常識な来訪だと思い、隆一はすぐには応えないでいることにした。
しばらくして、ふたたび、ノックの音。今度は、少し遠慮がちである。
よし、それならと、彼は、上り口にかかったカーテンを引き、ドアに近づいた。
「どなた?」
声にいぶかしさをこめて訊いたが、すぐには返事がない。誰かの何らかのわるふざけだろう。椅子にすわりなおし、読みかけのニーチェの書物に眼を落とそうとしたとき、またもやドアがたたかれた。
隆一は、ほとんど怒っていた。今度こそ犯人をとらまえてやるぞと、意気まいた。
「まったく、いたずらなんてしやがって、何さまのつもりだ」
開けるやいなや、彼は大きな声をだした。
廊下のほの暗い空間に、鈴木和夫がたたずんでいた。隆一の勢いに気おされたのか、和夫は押し黙った。
「なにか用かい、こんな遅い時間に。昼間話してるでしょ、きみとは」
隆一は、できるだけぞんざいな調子でいった。
「すみません。わるいとは思ったんですけど。どうしても今日中に話しておきたいことがありましてね」
「なんだろ。まあ廊下で立ち話じゃ、みんなにもわるい。こっちへ入って」
「すみません。失礼します」
ふたりは電気こたつにさしむかいですわった。
「コーヒーでも飲むかい?インスタントだけど」
「ありがとうございます。すみません、眠れなくなっちゃうので」
和夫は固辞した。
隆一はカップに入っていた飲み残しのコーヒーを目を細めて飲みほしてから、
「暗い顔だね。ずいぶん大切な話みたいだ。どきどきしちゃうよ」
彼はやわらかい調子で言った。
「きょうの夕方、玄関にやってきた人がいたでしょ」
和夫が切りだした。
「ああ。あの女のこと?」
隆一はわずかに眉根をよせた。
「聞きたくありませんか。おいやなら、ぼく、ひきあげますけど」
「いや、待って。それなら聞こう。聞きたいもんだ」
「その女を見たんですよ。このあいだ。夜中に」
「どこで?目立つ服装だったかい。ひょっとしてワンピース着てた?」
「はい、よくわかりますね。黒地に白の水玉もようの。街路灯で一度確認しましたから、間違いないです」
「それにしてもきみはいなかったじゃないの、玄関に。おれがあの女と口論してるときにさ」
「ええ、でも。見ましたよ、ちらっと。のれんのかげからね。あれだけ女が声を大きくすりゃ。アパートのみんなに聞こえてしまいますから」
「まあそうだろうな。面白がってるだろな、とっても。それで、きみが知ってることって?いったいどんなことなんだろ」
「Y町駅に行ったり来たりするときに、見かけるんですよ、彼女を、ちょいちょいね。友達の下宿に行ったときですから。夜遅く。あんまり遅いと、そのまま友達のところに泊ってしまうことがあります」
「ほとんど真夜中じゃないの、それって?だって、あの子まだ若いんだよ。ずいぶん気が強いけど。そんなに遅く、出歩いてるなんて。信じらんないな」
「そうですね。俺だってそう思いますよ。でもね、あんまりひんぱんに彼女に出会うものですから」
「よく、ほっつき歩いてられるよな。あの女。あんなかっこうでさ。どうかしてるんだと人に思われるのにさ」
「確かにアパートに来た女だと思います。でも、なにかちょっと違うんだなあ」
「どうちがうの。話して」
「なんというか。そっくりなんですけどね。あの時ほど、すさんだところがないっていうのか。おとなしくてね。うつむいていて元気がないんですよ。一度、こんなこともありましたよ。あの子、おれのあとをついてくるんです。すううっとね、下宿まで。十メートルくらい離れてましたけど。わかりました」
隆一は、そりゃ、きっと幽霊さ、と、言おうとしたが、やめた。
それを口にすれば、鈴木がびっくりすると思ったからである。
隆一には覚えがあった。
生前、よう子は下宿とY町との間を、いくども往復していた。
一度や二度、隆一自身、彼女を駅まで見送ったことがある。
(自分の体がなくなっても、そのことを忘れられずに、魂がいまだにさまよってるなんて、よう子はなんて不憫なんだろう。足が地面を踏みつける感覚って、そんなに強いものなんだろうか。それにしても、なんで俺じゃなく、鈴木和夫なんだよ。未練があるんなら、会いに来るのは俺だろ?)
突然、隆一が両手で頭をかきむしったので、和夫は目を丸くした。
髪をしばらく洗ってないのか、ふけがぽろぽろテーブルに落ちる。
「せ、せんぱい、大丈夫ですか。おれ、何かつまんないこと言いましたか」
和夫はのけぞりながら、そう言った。
「いやいや、そんなことない。ありがとう。大切なことを教えてくれてさ」
「少しでもお役に立てたんなら、うれしいです。今日は先輩にとって、なんてひどい日だったんでしょうね」
和夫は腕を組み、小声で言った。
「じゃあな、お休み。おれ、これからアパートの風呂にでも入って休むことにするから。いろいろありがとう」
隆一は、その日、最後の入浴者だった。
髪の毛やどろっとしたあぶらものが、湯にまじっている。風呂洗いは交代制である。だが、やらない人間がたまにいる。そんなわけで、隆一は、できるだけ、銭湯に通うことにしていた。
彼は両目をつむり、こころの中で、えいやっと掛け声をかけてから、濁った浴槽にからだを沈めた。
彼の脳裏に、ひとつの思いが浮かんだ。
(おれがよう子のことをずっと忘れられないでいるから、彼女が成仏できないのだろう。それにしても、だ)
きょう、玄関先であった出来事は、彼のよう子に対する考えを、百八十度変えさせようとするものだった。
原田よう子との思い出。
隆一は、それを、なんとしても、美しいままで残しておきたかった。
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