第3話
女が履いていたのは、真っ赤な靴。
茶系を期待した隆一はいささか落胆し、すぐには女の顔をまともに見ることができない。
(やれやれ、俺としたことがなんてことだ。手前勝手な妄想が現実につうじるわけがないぞ。しっかりしろ)
高まっていた期待が、急速に小さくなっていく。
玄関から入ったものの、簀の子の手前で身動きひとつしない女。
謎をいっぱい内にはらんでいる相手に、隆一は目いっぱいかまえる。
あまりに不自然だと、絶対うまくいかないと思い、隆一は心を落ち着かせようと、深呼吸をゆっくり、くり返した。
昔の片思いの相手は、質素でおとなしい人柄だった。
きわだったことは好まない。
しかし、目の前にあらわれたのは、まったく正反対の人物。
師走にもかかわらず、身につけているものは夏物、明るく、見栄えのいいもの。
何を考えているかわからない。さっきから身動きひとつしない。
女の不審な態度にとまどいながらも、これから展開するであろうできごとに、なんとかして対応せざるを得ない気がした。
(ひょっとして、この女性はおれの幻視だろうか)
そう思い、目の前に、誰も存在しないかのようによそおい、アパートの引き戸を閉めるつもりで、下駄箱からつっかけを取り出した。
その時、女の目がきらりと光った。造りもののような女の体がぐらりとゆらぐ。
なま温かい息がふうと女の口からもれた。
吐かれた息はすぐ、白い霧となり、ひえびえした三和土のあちこちに広がった。
隆一は、じぶんの下腹がやけにおもおもしいのに気づき、ほんの今さっきまで、トイレに行きたかったのを思いだし、あわてて数珠のれんをくぐった。
隆一が玄関の三和土を離れたのは、ほんの数分。その間に、見るからに女は変わった。それまで休んでいた心臓が、何らかの刺激をきっかけに動きだしたかのようだった。
女のからだは、妙に現実味を帯びた。手足より先に、口が動いた。
「ほんとにあなたって失礼ね。いったいぜんたいなに考えてるの。ことによったらさっきのあなたの仕打ち、警察に訴えてもいいのよ。赤の他人よ、あたし、それなのに、じろじろ見るなんて。これは立派な犯罪かもしれなくてよ」
女は薄い唇を大きく広げ、容赦なく叱責の言葉を、隆一にあびせた。
黙っていては、具合がわるい。
隆一はむりにでも何か言おうとしたが、途中でやめた。
自分の大切な宝物である昔の記憶を、心ない人間のために。けがしてしまう気がした。
「犯罪?ばかなことを。俺、あんたに、さわりもしてないんだぜ。見つめるくらいのことでそんなに騒ぐなんて」
犯罪と聞いて、ずっと心穏やかではいられない。
「さわらなくったってね、あなたね、変なこと想像したでしょ。いやらしい」
女は、たたみかけてくる。
隆一のこころは乱れに乱れた。
現実と想像とのかい離があまりに大きい。
どのようにして、この溝をうめたらいいか。 隆一は女を見つめるのをやめた。
三和土と天井の間にできたうす暗い空間のなかで、ぼんやりした視線をさまよわせた。
「こいつったら、また見てるわ。わたしの靴。こんなの、どこがめずらしいのよっ」
女のほっそりした右手がゆっくり動き、富士に似たひたいにそっと触れた。
ふわりと女の体がかたむく。
とっさに、隆一は、彼女のからだを支えようと、大げさに両手をひろげた。
「何すんのよ、ほっといて。ほらね、やっぱり。下心あるんじゃない。わたしの体にいま、触れようとしたじゃない」
「そっ、そんな乱暴な話ってないじゃないか。あんたが倒れそうになったから、おれ助けようと……」
「よけいなお世話よ。いつ頼みました?」
女と口げんかして、男が勝てるわけがない。
隆一は謝罪した上で、できるだけ早く、この場から立ち去ろうと思い、
「わるかったですよ。あやまります。じろじろ見てしまって」
「あらまあ、あやまってくれるの。ちょっと遅かったけどね。わたしが美しいからしかたないわね。いいわ、許してあげる」
(自分が美しい、ってか。よくそんなことが言えるもんだ。百年の恋もいっぺんに冷めてしまうってもんだ)
隆一は、今さらながら、どこの誰かもわからない女に対して、むきになった自分が哀れに思えた。
急に、ストレスがかかったせいだろう。
一階まで一気に下りる高層ビルのエレベーターにのったような気がして、気分がわるくなり、隆一はその場にしゃがみこんだ。
「あらまあ、どうしたの。ショックを受けたのはわたしなのに」
「いや、なんでもない。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
女が隆一に近づくと、濃い夾竹桃の香りがまたしても、彼の鼻腔を刺激した。
いや、なに、大丈夫と言い、隆一は立ち上がろうとしたが、ふらつく。
とっさに女は自分の左腕をのばした。
若い女性らしい弾力のある腕である。
(女が手のつけられないほど感情を高ぶらせるのはよくあること。だからこの人はこの世の人。生きてるあかし。幽霊じゃなくてよかった。自分にとって忘れようとしても忘れられない唯一の女性は、もはやこの世に生きてはいないのだし)
さっさと女は玄関から出て行く。
「どうしたの、吉崎さん。玄関で大声なんかだして。誰かいらしてたのかしら。女の人の後ろ姿が見えたようだったけど」
アパートの前を通りかかった、大家の奥さんが、玄関のすき間から顔をのぞかせ、眉間にしわを寄せた。
「すみません、俺がいけないんです。ふいのお客に失礼な態度をとってしまいました」
「わたしも、ちらっと見たわ。きっと若い方ね。水玉もようのワンピースなんて、とってもなつかしいわ。でも地の色が黒じゃねちょっと……」
「ええ、俺もそう思います」
素直な隆一のあいづちに満足したのか、彼女はそう言って去った。
隆一は自分の部屋にもどると、ひとつしかない窓をそっと開けた。
あまり時間が経っていないのに、あたりの暗さがぐんと増している。
(まったく、どうしようもない女だったな。だけど確かに似ている)
さんざんな結果だったにもかかわらず、隆一は、むかしの恋人の面影を、さっきの女に見いだしてしまうのだった。
彼は、目の前の山の中腹で、横一列に点々とつながる高速道のランプを、ぼんやりとながめた。
なぜか瞼がうるんだ。
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