第2話

 うっうんっとひとつ、せき払いが聞こえた。

 一階の廊下の奥から、ひとりの男がおおげさに歩いて来る気配である。

 隆一は一瞬、心臓がこおりつく心地がした。

 やはりいたずらだったかと思うと、なんともやるせない。


 スリッパもはかず、どたりどたりと素足で歩いて来るのが人間ではなく、熊であったらどんなに気が楽かだったろう。


 玄関と廊下の境目に、いくつもの数珠を等間隔で天井からつるし、干し柿のようにならべた顔隠しがある。

 彼が彼がそれらを左手で上にあげ、隆一の方に顔を向けると、数珠同士がぶつかり合うパラパラという音がした。

 

 その音が、隆一の昔の苦い記憶のいくつかを次々とよみがえらせた。

 こいつのために、俺は、とさまざまな負の感情がふつふつわいてくるが、この男になまの感情をぶつけるわけにはいかない。


 第一、このクマ男が、本当に、婦人用の靴を置いたと言える証拠はない。

 隆一が勝手に思っているだけである。

 だが、「犯人」でなければ、この男いったい何をしに玄関に出て来たのか。

 それを確かめるのが先決だった。


 近づいて来るにつれ、しだいに彼の姿がはっきりしてきた。

 髪はきちんと整え、身につけているものといえば白っぽいセーターに黒のジーンズ。首に赤いマフラーをしている。


 おそらく、この春アパートに入居したばかりのあいつだろう。

 うわべは、いくらでも取りつくろえるのがひとというものだ。

 見るべきものは、見えないものだと、隆一は思った。


 ふいに彼のこころに、二十年前の思い出がひとつ、水の泡にも似て、ぽかりと浮かんだ。

 彼のいなかのお年寄り連中。彼らはよく、詐欺師のえじきにされた。

 ワイシャツにネクタイといった、きちんとした身なりをし、ニコニコ顔で、ていねいな言いまわしをする。それにまどわされた。


 どうでもいいような物を、さんざん無料で与えられたあげく、最後にニ十万もする自動肩もみ機といった高価なものを、いとも簡単に買わされてしまう。

 

 これだけもらったんだから、買わないわけにはいかない。でないと、どんなふうに怒られるかしれない。彼らは、極度に恐れた。


 目の前にある出来事と、年寄りをだます連中の一件がどんな関係にあるのか、隆一は容易に理解することができないが、人のこころをもてあそぶという点では、似たものかもしれないと思う。


 とにかく、以前ここで起きたと同じような事が、再びくり返されるのかと思うと、隆一はよくよく情けない気がした。

 その被害者が、ほかでもない、自分自身であることを彼はなかなか認められないでいた。

 婦人用の皮靴を見て、心がゆらいだ。


 そんな気持ちのかけらさえ、こいつに悟られてはなるまい、最後までポーカーフェイスでいようと思った。

 「吉崎さん、まったく寒いですね。玄関あいているんでしょうか。東京育ちなものでめっぽう寒がりでね。第一志望のS大に落ちたもんだからしかたなく、こんな山あいで暮らすことになりました」

 

 男の名は鈴木和夫。

 彼は自分の腹の内を率直に語った。

「そうだってね。だけど君だけじゃないよ。お互い、まあしっかりやろうや」

 和夫は婦人用の靴のことには一切触れないことにした。


 (俺の気持ちをためしているのだろうか、それとももっと底意地のわるい気持ちがあってのことだろうか)

 隆一は彼の気持ちをはかりかねた。


 「こんな山あいの大学に来る者は誰もかれも、落ち武者みたいなもんだ。なんらかのくやしさを心の中にかかえこんでいるんさ。なんとしてでも、再度、第一志望校に挑戦しようとがんばるのもいる。あんたはどうするか知らないけれどな」

 隆一は、こころの中の不安を、払いのけるかのように、おしゃべりになった。


 「わたし、ですか。まあ、これからよく考えてみます」

 「ところで、鈴木くんさあ、きみ、玄関先で何か変わったもの、見かけなかったかい」

 「何か変わったもの、っていいますと?」

 「いやなに、見なかったんだったらいいんだ」

 「水くさいな、先輩。はっきり言ってくださいよ。俺だって興味あるし。このアパートに伝わるエピソードとか。怖い話だっていいですよ。俺、そういうのに興味津々なんですから」

 「いや、残念だけど、そんなんじゃない。わるいけど。ほとんど男ばかりで色気のないアパートだろ。こんなところで暮らすことになって、あんた、悔やんでいるんじゃないか。そう思っただけなんだ」


 玄関は暗くなっていた。太陽は、ずいぶん前に、西の山に沈んでしまったらしい。

 あの靴は、っと、隆一はかっと目を見ひらき、あたりをさがした。

 だが、いくらすのこのまわりを見ても、それらを発見することができない。

 隆一はうろたえた。


 「どうやらお取り込みのようで。じゃあ、俺はこれで。先輩、これからもどうぞよろしくお願いします」

 そう言って、鈴木は、自分の部屋にもどっていった。


 (まさか、あれが目の錯覚だったなんて、いやそんなはずはない)

 隆一は、ほぼ正確に、あの靴の形や色合いを思いだすことができた。

 ふいに下腹がもうれつに張っているのを感じた隆一は、自分が用を足しに階下に降りて来たのを思いだした。


 もらしでもしたら大変と、極度にからだを緊張させながら、数珠のれんの奥にあるトイレにいそいだ。

 (鈴木と、あの婦人用の靴、きっと何かつながりがある。やつは何も言わなかったけれども)

 用を足しながら、隆一はそう思った。


 そうでなければ、隆一の脳裡にこの七年間たまりにたまった想い出が、彼に、まぼろしを見せたのかもしれなかった。


 (あの靴がほんの短い間になくなるなんて、そんなことって。俺も、とうとう、どうかしてしまったんだろうか)


 下腹がすっきりすると、隆一の考えがかなりおだやかになった。

 だがそれでも、目の前にあった婦人ものの靴の行方を、順序立てていうことができない。

 困惑のあまり、彼は、もう少しで大声をだしそうになった。

 

 ふいにすっと三和土に風が入りこんだ。

 それが、隆一の熱くなった気持ちを冷やす役割をはたした。

 おかしいな、さっき戸を閉めたはずだったのにと思いながらも、用は済んだとばかりに、彼は階段をあがろうとした。


 風に、夾竹桃の香りがまざっている。

 そう感じ、隆一は、ぴたりと動きをとめた。

 (時期も時期だし、このあたりにそんな毒性の強い花が咲いているわけないし。まさか香水ってこともあるまいしな、絶対に)


 玄関先の空気が人ひとり分、彼の背後でふわりと膨張した気もする。

(やっぱり、女が来たのか。しかし入って来たんなら、挨拶くらいするだろう。俺がここにいるんだから。今日はとか、今晩は、って)

 ふり向きたかったが、彼は、あえてそうしなかった。


 強そうに見えて、気弱い。

 そんな彼の性格が、相手と正面から向かい合うのを妨げたからだった。

 もうひとつの理由は、せっかくの昔の恋人に対する追憶が、むだになりそうな気がしたからである。

 

 彼は一歩も階段をのぼれない。

 予期せぬ客と隆一の間で、互いの思いがからみあい、じわじわと固くなっていくようだった。

 それにしても妙な客だな。ちょっと怖いがふり向くしかあるまいと、彼は心の中で気合いを入れた。


 彼の気がうわまわったのか、彼の体が少し自由をとりもどした。

 すぐわきに人影があった。

 それは初め、おぼろげだったが、しだいにはっきりしてきて、女性らしい輪郭をあらわしはじめた。


 彼女は、まっすぐ前を見る状態でたたずんでいる。

 後頭部で、豊かな黒髪を黄色のリボンでしばり、やや憂いをふくんだ横顔。

 まなざしに知的なかげりを持っていた。

 黒地に白の水玉もようのワンピース。


 (なんだか、場違いな人みたいだ。まるで地獄の使いに思える。今は昔のファッションだが、どこかで見たことがあるような気もするし。はて誰だったろう。いやそんなことはどうでもいい。この人がさっきの靴の持ち主かどうか。それを知りたいだけだ)


 彼はごくりと喉を鳴らし、スカートの先からとびだしている、白い脚先を見つめた。


 

 



 


 

  

 

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