女靴

菜美史郎

第1話 プロローグ

 アパートの玄関にある大ぶりの簀の子わきに、イタリ製だろうか、女ものの茶系の靴が一足、きちんとそろえて置かれている。

それがトイレに行こうと、ニ階から下りて来た吉崎隆一の目を引いた。


 (いったい誰の靴だろう。こんな品のいい靴をはきこなす女の子は、この安アパートの住民にはいそうもないしな。誰かの客となると、ううん、思い当たる男て……、ああ、さっぱりわからねえ。ちぇ、いまいましい。俺なんぞここじゃ最古参なのに、いまだに恋人のひとりもできゃしねえ)

 隆一は辺りに響くほど大きく、タンッと舌打ちした。


 家主の部屋と棟つづきになっている。

 ここの大家さんは、あれやこれやと口うるさい上に、素行不良を告げ口する者もいる。あたりに誰かいやしまいか、と、青ざめた表情で、隆一はゆっくり首をまわした。


 誰もいないのを確認して、ふうっと息を吐いた。

 五、六年前、ちょうどこれと同じような出来事があったのを、隆一は思いだした。

 ある男が婦人用のサンダルをすのこわきに置き、物かげからこっそり、玄関を行き来する男たちの表情を観察したのである。


 果たして今回はどうだろう。前回と同じやらせだろうか。

 それとも隆一の目の前にある靴の持ち主が、十部屋あるうちのひとつを訪ね、若くて精力絶倫の男の欲しいままの要求に応えているのだろうか。

 隆一の妄想はしだいに過熱していく。


 どんな姿態で、ふたりは抱き合っているのだろう。

 次々に浮かんでくるまぼろしが、彼を心底苦しめ、とうとう、あられもない若い肢体がくんずほぐれつするありさまを想像し、思わず目をつむった。


 玄関の三和土は、空が今にも雪が降り出しそうな灰色の雲でおおわれているせいか、とてもうす暗い。


 隆一は、しばらく、アパートの玄関で、ひとりもの思いにふけったが、幸いにも、誰も、彼をとがめる者は現れなかった。


  学校が引けたあと、女の子はおとなしく部屋にとじこもっていることが多い。

 問題は、男子だ。

 遅くまで、友だちの下宿を訪ね、麻雀に興じたり、街の中をうろうろして楽しむ。


 アパートは南向きに建てられていて、およそ二メートル離れたところに自転車置き場がある。

 その向こうは、マイカーで通学する学生のための駐車場。


 全部で半反歩ほどの敷地は、すべてアスファルトで固められ、残りの半反歩は、大家の山口さんの敷地である。

 枯山水の庭付きで、かわらでふかれた入り母屋造りの御殿。

 アパートの玄関引き戸は、人ひとり通れるくらいに開け放たれていて、吹き抜ぬけていく師走の風が入りこんで来る。


隆一は引き戸を完全に閉めてしまおうと、薄着のまま外気に触れてしまい、ぶるっと体をふるわせた。

 それは、先ほど、かいま見た婦人靴のせいで熱くなった、彼の気持ちをなだめる役割をはたした。


 その靴に対する好奇心の炎は、容易には消えずなかった。

 なんとかして、彼は、ひとつひとつ、手に取ってみたい衝動にかられた。

 階下に来て以来、どれくらい経ったろうか。

 ふいに引き戸が明るくなった。


 夕陽が西の山並みにかくれようとしている。

 まるで、今にも爆発するかと思うほどに、オレンジ色に輝きだした。

 その日の光りが、目の前にある、誰のものとも分からない一足の靴を包みこみはじめた。


 靴の色合いが、まるで紫陽花のように、茶系から赤系統に、刻々と変わりだした。

 それぞれの色は、あの子、この子と、かつて彼が付き合おうとして果たせなかった女の子たちの一挙手一頭足を思い起こさせた。


 


 

 

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