6区 風と共に走る

 毎年夏になると「今年こそ、暑さで死ぬ……」と思い、毎年冬になると「今年こそ寒さで死ぬ……」と思うのだけど、毎年年末になると「今年こそ、本気で死ぬ……」と思う。

 年末年始の休業に備え、加速度的に増える物量。経験を積んでるはずなのに、いまいち学びの悪い私は、例年のごとく「今年こそ、絶対死ぬ……」と目を血走らせながら働いていた。恋にうつつを抜かしたいのに、恋の芽を摘むほどの激務だ。

 忙しいのは配車担当も同じで、この時期車を確保するのは至難の業らしい。忙しくなってから慌てたのでは間に合わず、日頃の人脈作りや信頼関係などが影響するとも聞く。


「すみません。サイクルヒット岸田辺店様、再度追加の依頼です」

『はーい。わかりました』


 絶対疲れているはずなのに、ふわふわ宙を舞うような声は変わらない。


「あの、大丈夫ですか?」

『んー。かなり厳しいですけど、閑散期に親しくしていた運送会社さんが協力してくれているので助かってます』

「仕事もそうですけど……お身体とか」


 古びた電話のコードをグリングリン指に絡ませながら言うと、耳元でふっと笑う吐息の音がした。


『これでも身体は鍛えてる方なので大丈夫です。ありがとうございます』

「あ、そうですよね。いえ、でも、ちゃんと休んでくださいね。データ送りました。よろしくお願いします」

『……はい、確認しました。ありがとうございます。西永さんこそ、無理しないでくださいね』


 こんなささいなやり取りを胸の内にしまっていると、課長が課員全員に聞こえる一人言を吐いた。


「“クリスマス”じゃなくて“苦シミマス”だねえ」


 あらかじめ園花ちゃんから、


「毎年十二月になると、『今年こそ、くだらなさで死ぬ……』と思うんです」


 と聞いてはいたけれど、学びの悪い課長はお歳暮のごときマメさで、事務課恒例だという言葉をくださった。伝票をめくる園花ちゃんの指に殺意が芽生えたけれど、忙しさゆえに表面上は平和だ。

 私とて漫然とクリスマスを過ごしていたわけではない! 廣瀬さんのクリスマスイブが遅番&残業で、深夜まで事務所にいたことは、ちゃーんと確認済み! 大丈夫、大丈夫。多分。きっと。おそらく。

 なんとかかんとか仕事を納め、「あーーーーーー、つーかーれーたー」と実家のソファーに埋まっている間に、世間では白組が勝ち、新年を迎え、人々は走っている。年始の風物詩、東京箱根間往復大学駅伝競走。通称「箱根駅伝」だ。

 廣瀬さんが憧れて憧れて、ついに夢を掴んだその舞台。たくさんの人が彼のように憧れ、また沿道やテレビの前で熱狂している国民的スポーツイベント。それはあの夜、廣瀬さん本人から話を聞いて、よくわかったつもりだった。

 廣瀬さんも絶対観ているに違いないこの中継を、珍しく観てみたのだけど……やっぱりただ走ってるだけにしか見えない。廣瀬さんが走っているわけじゃないから、いまいち感情移入もできず、半分瞼は下りていた。


「ごめーん。テレビ借りるよー」


 箱根駅伝なんて絶対観てないと決めつけて、妹の陽菜はテレビ画面をゲームに変えた。


「ああ! 観てたのに!」

「うそー。お姉ちゃん、駅伝なんて興味ないじゃない」


 どうしても、とチャンネル権を争う気力はなく、諦めてソファーに沈む。


「最近はもっぱらオンラインだけど、昔好きだったゲームってやっぱり面白いよね」


 ゲーマーの陽菜は、古いゲーム機を取り出して戦闘機か何かのゲームを始めている。


「ねえ陽菜。我が家ってさ、誰も箱根駅伝観ないよね」


 母は初売りに出かけ、父は友人宅で昼間から新年会に忙しい。陽菜に関しては箱根駅伝どころか、甲子園もワールドカップも、オリンピックすら興味がない。


「あんな代わり映えしない画面観てて、何がおもしろいの?」


 敵機を機銃で撃ち落としながら、廣瀬さんには聞かせられないセリフを吐く。が、私もうまいこと反論できない。


「むむむむ」


 ドッカンドッカン空母を攻撃する人間とは、真逆の世界だろう。空母の破壊に苦戦しつつ、陽菜はつまらなそうに言う。


「そういえば、和紗は箱根駅伝大好きだよ。三が日は誘っても断られるもん」

「和紗ちゃんが?」


 和紗ちゃんは、実家から数百メートル離れたところに住む、陽菜の幼なじみだ。小さい頃から知っていて、私も一緒に遊んだこともある。


「毎年録画までして何回も観るらしいよ。あと、なんとか駅伝もなんとか駅伝も全部」

「出雲と全日本?」

「そうなの? お姉ちゃん詳しいね」


 ダメージを受けながらもどうにか空母を破壊したらしい陽菜は、手を休めてマグカップのコーヒーを飲んだ。私も飲もうかとキッチンに立って、ジリジリ音を立てるヤカンを見ていたら、ふっと思い付いた。


「ねえ! 和紗ちゃんに連絡取れない? 十年くらい前、湘和教養大学が初優勝したときの箱根の録画持ってないかな?」


 陽菜は何も答えず、結婚式場にジャージで来ちゃった人でも見るような、怪訝な目で私を見上げていた。



「明けましておめでとうございまーす! お久しぶりでーす!」


 箱根駅伝の往路を見終わった和紗ちゃんは、思った以上の装備で我が家にやって来た。DVD10枚、雑誌数冊。一枚借りればいいと思っていた私は、そのボリュームに正直引いた。


「まさか、まさか、お姉さんが湘教大に興味あるとは!」


 貸してくれれば勝手に観るのに、一緒に観て感動を分かち合いたい、と半ば強制的に我が家で鑑賞会が開かれることとなった。古くからの友人と姉相手であっても、陽菜は冷淡にも不参加だ。今もリビングで、涙ぐみながら(感動するストーリーなんだって)敵機を爆撃している。

 物のほとんどない私の部屋に、両親の部屋からテレビを移動してきて、お菓子やお茶を並べながら恐る恐る指摘する。


「なんでそんなに多いの……?」

「お姉さん、箱根駅伝って何時間あると思ってるんですか? 往復200km以上走るんですから、優勝チームでも総合タイムは11時間切る程度ですよ」


 和紗ちゃんは丁寧にラベリングされたDVDを並べていく。『スタート~1区』『2~3区』と分けられている。


「この頃はまだBlu-ray持ってなくて、DVDに分けて録画してたんです。で、事前情報もあるから往路と復路各4枚ずつ。それからこっちは、続報と翌日の情報番組に優勝チームが出演したシーンです」


『9~10区』と書かれたDVDを持ち上げて、


「9区だけ見られたらいいんだけど」


 と言ってみたら、「ダメです」とキッパリ断られた。


「駅伝は流れが重要なんですから、一部分だけ見ても面白さはわかりません!」


 石畳のように並んだDVDをげんなり見つめる。


「いや、でもさすがに長いよ。見終わらないって。和紗ちゃんだって、明日も朝から復路観るんでしょ?」


 和紗ちゃんも明日の予定には抗えなかったようで、


「……仕方ないので、9区以外はダイジェストで許します。はああ、全部観たかったなあ」


 と『情報番組』と書かれたDVDを入れた。

 今はもう終わってしまった番組の、懐かしい司会者が画面に映る。


『それでは、箱根駅伝で見事初優勝されました湘和教養大学チームのみなさんにお越しいただいてます! みなさん、優勝おめでとうございまーす!』

『ありがとうございまーす!』


「ああ!」


 前後二列の雛壇に並んで座る選手をざーっと映した中に、ひときわ地味な影があった。が、カメラはそのまま流れて花束をもらう監督を映している。うれしそうに心境を語る監督の後ろに、脚だけ見切れているのは、今よりずいぶん若い廣瀬さんだ。


「お姉さん、9区ってことは、牧くんのファンなんですか?」


“ファン”と言われると抵抗があるのだけど、どうせバレることなので早々に白旗を上げた。


「……そうだよ」

「まあ、地味だけど、湘教大のエースですもんね」

「やっぱり地味なんだ……」

「後輩たちが派手ですから。強豪高校のエースが集まったので。あ、始まりました」


 情報番組では時間をたっぷり取って、スタートから順番に振り返りながら、選手にインタビューしていくつもりらしい。大手町の観客の様子から始まって、たくさんの人がまだ暗いうちから寒空の下で待っている。


『今回は王者澤南大学の三連覇か。その牙城を楠島学院大学が崩せるのか。そこに注目が集まっていました。その戦いに食い込もうとする湘和教養大学、流れを決める重要な1区を任されたのは、二年生の新谷瑛輝選手です』


 廣瀬さんの所属する湘和教養大学のユニフォームは、明るい藍色(“瑠璃紺”だそうだ)の上下で、脇の下からパンツの裾まで真っ直ぐ太く、淡い黄色のラインが入っている。胸に大きく入った『S』の上に、淡い黄色地の襷が掛けられていて、そこにも瑠璃紺で『湘和教養大学』と書かれていた。


「地味なユニフォームだね」

「ええーっ! 格好いいですよう!」


 普通ならシックで格好いいかもしれないけれど、廣瀬さんが着たら絶対目立たない。きっと観客の方が派手なくらいだよ。


『大手町を飛び出した二十三人の選手が、一斉に芦ノ湖を目指します』


 集団で始まったレースはゆっくりしたペースで進み、塊のまま走って行く。やはり黒、紺、青系統の色が多いのだから、この赤い人みたいなユニフォームの方が目立ったのに、と思っていたら、その赤いユニフォームの人がひとりでピョーンと抜け出した。


『レースが動いたのは18km付近。澤南大の吉見選手がスパートをかけます』


 そのあとにバラバラと数人続くも、どんどん引き離されていく。


「この年は澤南大一強って言われてて、出雲も全日本も圧勝してたんです。対抗できるのは楠島学院大くらいで、正直なところ、湘教大が優勝するとは誰も思ってなかったと思います」

「確かに強そうだよね。すでに風格がある感じ」


 赤いユニフォームの澤南大は強さを示し、トップで襷を渡した。まもなく湘教大も7位で2区に繋げている。


『ここは“花の2区”と呼ばれ、各校のエースが集います』


「あれ? さっき廣瀬さんがエースって言わなかった? なんで2区じゃないの?」


 用意しておいたポットから、和紗ちゃんも勝手にコーヒーを淹れている。


「一番速いのは本当なら牧くんだったと思います。でも牧くんって一般入試で入った無名の選手だったから、チームでの立場って微妙だったんじゃないかと思うんです。だけど、2区と同じコースを逆走する“裏の2区”が牧くんが走った9区ですから、やっぱりエースです」


 湘教大の2区を走った志田くんはこの年のキャプテンで、高校でも活躍して最初からエース候補として入学してきたのだとか。エースがキャプテンを務めることが多い大学陸上部において、志田くんが選ばれたのは、そういった人間関係も影響してのことだろう。廣瀬さんなら肩書きくらい全然気にしていないだろうけど。

 4区まで終わっても澤南大がリードを保っている。湘教大も悪くはないらしいけど、トップとのタイム差は広がっていた。


「湘教大、本当に優勝するの?」


 結果はわかっているはずなのに、とても信じられない。和紗ちゃんはにっこにこの笑顔で身をよじる。


「ここからなんですよ、この年の箱根は! 歴史に残る大会でした。私、湘教大の優勝を観て駅伝ファンになったんですから! このDVDも人づてに探してダビングさせてもらったものです!」


 番組は選手へのインタビューを交えて進んでいくが、やはり廣瀬さんはほとんど映らない。正直退屈で、私はベッドに寄りかかってコーヒーを飲んだ。画面では必死に走る選手がいるのに申し訳ない。


「駅伝ってさ、何kmくらいから本気出すの?」


 体勢と同じようにダラけた声が出た。レースは相変わらず澤南大が圧倒的な差をつけていて、私なら走る前からやる気をなくしてしまいそうだ。


「本気って、ずーっと本気ですよ。もしかしてお姉さん、ゆっくり走ってると思ってません?」


 ……思ってる。いや、思ってた。和紗ちゃんの言い方で、それが間違いだとわかったけれど。


「速い人ばっかりで走ってて、正面からの映像がほとんどなのでわかりにくいですけど、ものすごいスピードですからね! 時速20kmくらいです」

「時速20km……」


 車だと時速20kmはのろのろ運転なので、速いのかどうか判断できない。和紗ちゃんはあっさりそれを見破ったようだ。


「お姉さん、高校に通学するとき、メチャクチャ自転車こいでましたよね?」

「ええー、見てたの? やだー」


 高校までは3kmくらいだったけど、毎日遅刻寸前でいわゆるママチャリで通学路を激走していた。あの時期は太ももに筋肉がついて困ったものだ。


「時速20kmってあれくらいです」

「………………………」

「もしお姉さんが長距離ランナーにストーカーされたとして、自転車で激走して逃げても、彼らはそのペースのまま30kmくらいつきて来ます」

「自転車激走で30km……?」

「逃げ切れません。なので、長距離ランナーを敵に回さないように生きてください」


 いやむしろ、追い掛けられる方法を教えてください!


『澤南大の谷町に異変です!』


 アナウンサーが緊迫した声を張り上げていて、私も視線を画面に戻した。


『小田原中継所で襷を受けてから12km地点! 王者澤南大学にアクシデントです!』


 澤南大はこれまで順調に先頭を走っていたのに、素人目に観ても脚の運びがおかしかった。


『澤南大の谷町、身体が大きく傾いて……ああっと! 大丈夫でしょうか。かなりふらつく場面が増えてきました!』


 もはや走っているとは言えないスピードで、それでも選手は脚を前に出そうともがいている。


「5区は標高差800m以上を駆け上がる山登り区間で、近年はここで大逆転が多発する重要区間なんです。山だから気温差も大きくて、この澤南大の谷町くんは低体温症になってしまったんですよね」


 苦しそうに、それでも一歩一歩脚を進める彼の背中に、今まで見えなかったランナーたちが迫ってくる。ひとり、ふたり……。抜かれるたび足取りは弱々しくなっていき、もう歩くのも困難なほどに蛇行し始めた。


「………………」


“興行”と廣瀬さんも言っていたけれど、これは本当に観ていいものなのかと、私は下唇を強く噛む。


「具合悪いのに、無理して出たのかな」

「陸上選手の身体は精密機械ですから、日常ならなんともないような体調の変化でも、こうなってしまうことはあります」


 人間は機械じゃないから、毎日同じ物を食べ、同じリズムで生活しても、同じ体調をキープできるわけじゃない。ちょっとダルい、少し眠りが浅かった、そんなことは常にあることだ。だけど選手は、その少しの違いによって、タイムが大きく変わってしまうのだという。


『ついに本橋監督が谷町の元に向かいます!』


 幽鬼のようになってもゴールを目指す彼に、監督が近づいていく。しかし彼は監督から逃れるように離れ、よろめきながら前へ前へと動かない脚を進め続けていた。朦朧とする意識の中でさえ、襷を繋ぐことだけを考えている。

 ふたたび近づいた監督は、説得するように力強く彼を抱き締める。その腕の中で、魂が抜けて木彫りの人形にでもなったかのように、その身体が崩れ落ちた。


「ここで澤南大はリタイアです」


 彼を乗せた救急車を見つめる和紗ちゃんも苦しそうだった。


「この後わかることですが、谷町くんさえ普通に走れていたら、優勝できたと思うんです。つらいですよね」


 こうして、駅伝の襷はどんどん重くなるのだと思った。仲間との絆であると同時に、周囲の期待や伝統が何十年も掛けて蓄積された、想いのこもった枷。


「立ち直れたかな」


 この駅伝から十年経っている。傷が癒えていてほしいのは、彼のためというよりも、その場面を目撃してしまった居心地の悪さがあるからだ。これを糧にするには、あまりに舞台は大きくて、人生にそんなチャンスはなかなか巡ってこない。


「谷町くんの気持ちの本当のところはわかりませんが、翌年同じ5区を区間三位で走って、澤南大も優勝を果たしています」


 よかった、と思わせてほしい。その苦しみを想像するには、私は弱すぎるから。


『楠島学院大学。四年ぶり、五度目の復路優勝ーーーーっ!』


 一強と言われた澤南大がリタイアし、レースは10分以内に16校が入る混戦となっていた。湘教大は順位を上げ、1位と1分37秒差の3位で往路を終えた。

 ふたたび選手へのインタビューを挟んで、いよいよ復路のレースを振り返る。


『芦ノ湖、復路のスタート地点です。時刻は朝6時。気温はマイナス4度と非常に冷え込んでおりますが、選手を応援しようとすでにお客さんが集まっています』


 レポーターの女性はダウンコートを着ても寒そうに、白い息を吐いている。


「うわー、寒そう」

「寒いでしょうね。路面凍ってますから」


 朝日が昇って辺りが明るくなっても、スタートラインに立つ選手の息は白い。アームカバーはしているものの、選手は当然、真夏と変わらない薄着だった。


『トップは楠島学院大学。復路はこの楠島学院大学が8時ちょうどにスタートして、昨日の往路の順位順に時差スタートしていきます。トップから10分以上離されたチームは、8時10分に復路繰り上げ一斉スタートとなります』


 湘教大の長澤くんも楠島学院大から1分37秒後にスタートした。画面で見ていても急坂であることはよくわかり、しかもヘアピンカーブの連続を勢いに乗ったまま駆け下っていく。ほとんど“転げ落ちて”いく感覚なんだそう。


「これ、私だったら転ぶな」

「選手は、普通なら転ばないんですけどね」


 和紗ちゃんが言った次の瞬間、先頭を走っていた楠島学院大の選手が転倒した。黒く濡れて光っているように見えた地面は、一部凍っていたらしい。すぐに立ち上がって走り始めた彼の走りに、私の目では変化はわからなかった。


『後藤の左膝、あれは……血でしょうか?』

『うーーん、少し引きずってますよね。この前の1kmが3分26秒ですから、ペースはだいぶ落ちてますね』


 痛みを堪えて走る、その後方から三人が集団で迫ってきて、彼を一気に抜き去って行った。その中に長澤くんもいる。


「この年は優勝候補筆頭と次点がアクシデントで倒れるという大波乱が起こったんです。そのせいで、優勝争いは全然わからなくなりました」

「“棚ぼた優勝”って批判されない?」

「確かにここまで大崩れするのは珍しいですけど、それでも誰も崩れることなく全員がベストパフォーマンスをするって、すっごく大変なんです。それをやってのけた湘教大は優勝に値します!」


 和紗ちゃんは長澤くんのファンらしく、何かきゃあきゃあ言っているが、私はあまり聞いていなかった。和紗ちゃんが言うように、ベストを尽くした湘教大の優勝は讃えられるべきだし、揺るぎない優勝だ。それでも、アクシデントの影響かあったことも確か。あの人がそのことを何も感じていないわけがない。

 その後、もつれるようにしていた三人が、ラストスパートで多少バラバラになり、湘教大は僅差の3位で7区へと襷を繋ぐ。そこから7区のランナーが必死に粘り、とうとうふたりを抜いてトップに立った。


『湘和教養大学、今この平塚中継所、初めてトップで襷リレー!』


「彼がこの大会のMVPに選ばれました」


 この活躍ぶりならそうだろうと、私もふんふんとうなずく。


「だけど、この大会で一番印象深いのがここからで」


 和紗ちゃんが言葉を止めると、アナウンサーの叫びがタイミングよく飛び込んできた。


『なんと! なんと区間記録を越えるタイムです!』


 好記録で襷を繋いだその人は、観客や仲間から祝福されてもニコリともせず、俯いて人の間を通り抜けていく。


「あれ? このユニフォーム……」

「澤南大です。澤南大はリタイアしてしまったので、復路はオープン参加と言って、走っても記録には残らないんです。だけど、この7区の区間新相当のタイム、そして8区、9区、10区と連続で“幻の区間賞”を叩き出すんです」


 復路は10分差以降は一斉スタートになるのだが、澤南大もトップから10分遅れでスタートしていた。ところが、どんどん追い上げて今や5位の位置にまで来ていた。

 そんな中、湘教大の8区は2位との距離を少し広げて襷を外す、その先に待っているのは、


「廣瀬さん!」


 ふわっふわの笑顔で両手を上げ、「りょーせー!」と仲間の名前を呼びながらピョンピョン飛び跳ねている。


「若い……かわいい……」

「そうだった! 9区は全部見ましょうか」


 DVDを入れ替えて8区の途中から観ると、戸塚中継所で準備している選手の様子が映った。


『湘和教養大、この戸塚で待ち受けるのは初めての箱根、四年の牧廣瀬です。追う志野原大学の矢代、また澤南大の浦垣も四年生。四年生同士の意地のぶつかり合いが見られるかもしれません』


 防寒のダウンコートを着た廣瀬さんが、入念にストレッチしている様子も映し出されていた。緊張しているかと思ったら、チームメイトと笑顔で会話している。当時おそらく二十二歳くらい。今の私よりだいぶ若く、こんな若い子は恋愛対象に見ていないのに、一瞬の映像だけで動悸が激しくなる。


「これ、昔の映像でよかった……」


 私、廣瀬さんが相手なら、きっと未成年でも手を出してた!

 廣瀬さんがダウンコートを脱いでサポートのメンバーに渡し、中継地点に立った。復路スタート時点では薄曇りで湿っていた路面も、この戸塚ではすっかり乾き、日差しも強くなっている。その下で、サイドに淡い黄色のラインが入った瑠璃紺のユニフォームを着て、キリッと引き締まった顔にいつもの笑顔はない。


「何が中肉中背よ。筋肉の塊じゃない」


 薄いタンクトップから出た肩のラインは筋肉で盛り上がっていた。腕にも脚にも筋肉のラインが浮いている。


「当たり前ですよ。ランナーなんて体脂肪率10%前後ですから」


 私の半分以下ーーーーっ!!!

 とりあえず、手に持っていたマドレーヌを、そっとテーブルに戻した。

 8区のランナーは苦しそうにあえぎながら襷に手をかけ、それを一度高く掲げる。その姿を見て廣瀬さんは笑顔になり、飛び跳ねながら「りょーせー!」と名前を呼んだ。


『総合優勝に向けて湘和教養大学、二年の畑山涼成から四年の牧廣瀬へ、今トップで襷リレー!』


 襷を受け取った廣瀬さんは、畑山くんの背中をポンッと叩いて走り出す。ひろい空は真冬とは思えないほど青く、その中を走る廣瀬さんの姿は……すぐに画面から消えた。


「………………ねえ、全然映らないよ?」


 走り去った廣瀬さんをカメラは追わず、中継所の映像ばかりが映されている。


「全参加校の襷リレーが終わるまでは、中継所がメインですね」


 画面が変わったと思っても、


『戸塚から鶴見へ戻る9区は23.1km。序盤はアップダウンが続き、そこで力を使うのか温存するのか、精神的な強さも求められる復路の最長区間です』


 それもコースの説明だった。

 じゃあもうトイレタイムにしちゃおうかなー、と腰を浮かしかけたとき、唐突に廣瀬さんが映る。


『湘和教養大学の牧、1kmの通過が2分45秒です。追い掛けます志野原大学の矢代は1km2分44秒。1秒差を詰めています』


 おだやかな光の中、廣瀬さんは淡々とゆったりジョギングでもするように走っている。ショッキングピンクや蛍光オレンジなど、派手なシューズを履く選手も多い中、廣瀬さんのシューズは黒一色。センスは悪くないはずなのに、とにもかくにも地味に落ち着く人らしい。


「こんなペースで走ってて追い付かれない?」

「こんなペースって、ラップタイム聞きましたか? 1km2分45秒って、ここから中島書店まで2分45秒ですよ?」

「うそ! はやっ!」


 思わず半身を起こしてしまうほどのスピードだったのに、本人は至って落ち着いた表情で走り続けている。その髪に新しい春の日差しが舞い降りて、むしろのどかな雰囲気さえ漂って見える。小鳥でも飛んできて、その肩にとまりそう。


『牧廣瀬。中学校までは野球をやっていました。高校で陸上に転向。しかし記録はまったく伸びず、どこからも声がかからないまま、一般入試で湘和教養大学に入学しました。『箱根駅伝を走りたい』その想いで練習を重ねましたが、去年はインフルエンザで欠場。四年生にして初めての箱根駅伝で、復路のエース区間を走っています』


 廣瀬さん本人から聞いて知っていた話なのに、改めて紹介されると涙が滲んだ。夢が叶ってよかったね、と下心なしで抱き締めたい(嘘。下心は消せない)


「ずっと気になってたんですけど、」


 和紗ちゃんは横目で伺うように私を見る。


「お姉さん、なんで牧くんに注目してるんですか? 湘教大出身なら、6区を走った長澤くんとかアンカーの金平くんが有名なのに」


 マグカップのコーヒーをゆっっっくり飲んだけれど、和紗ちゃんは質問を引っ込めなかったので、DVDのお礼に私も腹をくくる。


「……今、同じ会社なの」

「ええっ!!」


 廣瀬さんには興味ないはずなのに、和紗ちゃんは急に食いついてきた。


「いいなあ! いいなあ! 長澤くん紹介してくれないかなあ!」


 廣瀬さんじゃないのか! と苦笑いを返しながら、ホッと安堵のため息をついた。廣瀬さんはダメ!

 5kmを過ぎて、運営管理車で追う監督から何か言われた言葉に、廣瀬さんはふわっと右手を上げた。何か言われるたびに、「わかりました」と手を上げる。風が廣瀬さんの髪の毛を後ろに運んでいて、少し口を開けた真剣な表情がよく見えた。それは走り出したときと何も変わっていない。


「牧くん、卒業後はケガが多くて。なかなか活躍できなかったんですよ。ランナーとしては早い引退でした」


 “趣味”と言えないのは、まだランナーとして未練があるのだろう。ただ走るだけとは違う。勝たなければならない走りは、廣瀬さんにはもうできないんだ。会社を変えた理由は、そのあたりの事情もあるのかもしれない。


『こちら一号車です。湘和教養大学の牧は4kmの通過が11分46秒。後ろを走ります志野原大学の矢代とは少し差がついてきました。大内さん、牧の走り、いかがですか?』

『非常に落ち着いていますね』


 アナウンサーは大内さん(誰!?)の言葉を待ったらしく少し間があったけれど、それ以上何も言わなかった。


 ええーーー、大内さーーーん! もっと何かないの?


『こちら三号車です! 澤南大の浦垣が常道大の保坂を抜きました! これで見た目の順位としては四位まで上がっています!』

『こちら四号車です! シード権争いが熾烈になっています! 八位から十二位までの五校が集団でしのぎを削る大混戦です!』


 ヒートアップする中継に反して、私の表情は曇っていく。


「……この9区は他に見所が多くて、あまり牧くんは映ってないですね。トップって本当はもっとずっと映るんですけど」


 和紗ちゃんも申し訳なさそうに小声で言った。


 廣瀬さーーーーーーん!!


 あなたの間の悪さが、なんだかいちいちいとおしい。一世一代の場面なのに、なんで見所が他にたくさんあるんだろう。

 それでもさすがにトップ。一段落するとカメラは廣瀬さんに戻ってきた。


『権太坂のチェックポイントで計りましたところ、この牧と後ろの矢代との差は1分47秒に開いています。大内さん(陸上長距離界では有名な解説者らしい)、どうでしょう?』

『矢代くんはここから立て直したいところですね。ハーフでもいい記録を出してますし、元々力のある選手ですから、期待したいと思います。牧くんもいいですよ。非常に落ち着いています』


 …………大内さん、もっと廣瀬さんにも何か言ってあげて。

 沿道には途切れることなく観客がいて、旗を振りながら応援している。出場校ののぼりを掲げている人もたくさんいるけれど、まったく揺れていなかった。廣瀬さんが浴びている向かい風は、廣瀬さん自身が作り出しているものなのだ。

 10kmを過ぎて胸に“給水”と書いた服を着た人が、並走して廣瀬さんにペットボトル二本を渡しながら何か言っている。廣瀬さんはうん、うん、とうなずいてペットボトルを返し、最後にちょっと笑って、ありがとうというように左手を上げた。その瞬間だけ、私のよく知る廣瀬さんに見えた。けれどすぐに表情を引き締め、風を生み出しながら淡々と前だけを見て走っている。のどかな雰囲気は変わらないのに存外日差しは強いらしく、足元に落ちる影の色は濃い。真冬にかなりの薄着をしているのに、盛り上がった肩は汗で光っていた。

 13km地点で、廣瀬さんは区間五位ペース。区間トップで走っているのはオーブン参加の澤南大で、中継もその選手とシード権争いが中心になっていく。


『二号車です! 直線に入ると若豊大学の背中がチラッチラッと見えるようになってきました! オーブン参加の澤南大浦垣。区間記録ペースで好走を続けています!』


 アナウンサーの興奮が伝わったように、和紗ちゃんの声にも熱がともる。


「この浦垣くんも、アンカーの五十嵐くんも実質区間賞の走りで、オープン参加の大学がどこまで追い上げるのか、注目は優勝した湘教大より澤南大に集まっていたんですよね」

「本っっ当に、間が悪いなー」


 映ったと思っても先導する白バイ隊員の紹介だったりして、いまいち廣瀬さんが注目を集める場面がない。

 横浜駅前に入り、四車線ある広い通りは高い高架によって日陰となっていた。後ろを走る車のフロントガラスには強さを増した日差しが反射して、ダイヤモンドのような光を放っている。

 ここでふたたび給水があり、やはり廣瀬さんは最後に微笑んで左手を上げる。そのペースは落ちておらず、横浜駅前のチェックポイントでは区間三位になっていた。


『湘和教養大学は名門校でありがら低迷が続いておりシード落ちなども経験しました。しかし、和田監督の元で強い湘教大が復活。この牧のふたつ下の学年、今の二年生に速い選手がたくさん入ってきて、黄金世代と呼ばれています。その分、この牧、そして2区を走りました志田なんかは、なかなか出場機会を得るのも難しい立場でしたね』

『そうですねえ。牧くんなんかは特に高校時代に速い選手ではありませんでしたから、相当努力したんだと思いますね』


 サラッと紹介された廣瀬さんの状況は、実際にはかなり大変なものなのだと思う。「出られただけで十分」という言葉には、少しの嘘もなかったのだ。同時に、高校時代に活躍しながらも、廣瀬さんに出場機会を奪われた人もいるかもしれない。結局箱根に届かなかったランナーはたくさんいる。見た目にはどうしてもただ走ってるだけの、この変化に乏しい映像の中には、悲喜こもごもがぎゅうっと詰まっているんだ。箱根駅伝を楽しむというのは、そういう人たちの想いを感じることなのかもしれない。

 観客の密度が高くなって、みっしりとした黒山の人だかりが沿道を埋めている。その目の前で廣瀬さんは淡い黄色の襷に手をかけた。外すときに腕が髪の毛に触れて、飛び散った汗が日差しに輝く。襷をぐるぐるっと右手に巻き付けると、まもなく大きく角を曲がって最後の直線に入る。中継地点に立つアンカーが大きく手を振った。


『廣瀬ーーーっ! ラストーーーっ!!』


 その声に反応して、廣瀬さんは右手を高く上げる。最後は一段とスピードを上げたのか苦しそうにしているけれど、少し笑っているようにも見えた。


『四年の牧廣瀬、トップを守ってこの鶴見に飛び込んで参りました!』


 廣瀬さんは最後の最後で、受け取りやすいように襷を両手に持ち替えて繋いだ。


『湘和教養大学、牧から金平へ、鶴見中継所トップで襷を繋ぎました!』


 走り出す金平くんの背中と頭をポンポンと軽く叩いて送り出す。


「いいなあ。頭ポンポンされてる」


 記録は1時間9分13秒。走り続けるには長い時間だけど、何年も掛けた廣瀬さんの夢はたった1時間で終わってしまった。はあはあ、と呼吸は荒く、上下する肩にタオルをかけられた廣瀬さんは、「お疲れ様!」「よかったよ!」という声に、ちょっと微笑んで右手を上げていた。


「ダイジェストに戻しましょうか」


 声を掛けられて、ぼんやりしていたことに気づいた。画面は澤南大の選手が襷を繋いだところで、そこには廣瀬さんより速い1時間8分24秒と出ていたけれど、私の目にはまだ廣瀬さんの姿が残っていて頭に入ってこない。


「あ、うん」


 和紗ちゃんがDVDを入れ替えて情報番組に戻る。編集された内容はやはり廣瀬さんよりも、後方で起きた繰り上げスタートと、シード権争いと、幻の区間賞に時間が割かれていた。

 往路を走った選手たちは、復路の各地点を回って、沿道から選手に声を掛けているのだけど、廣瀬さんのときもタブレットで情報を確認しつつ、先回りしていたらしい。


『いいペース。これならいける!』

『よしよしよしよし! 優勝見えてきた!』


 テンションが上がってきたとき、彼らの目の前を廣瀬さんが通過していった。


『廣瀬えええええ!!!』

『廣瀬行けーーーー!!!!』


 ドスの効いた声に気づいて廣瀬さんは彼らに一瞬左手でガッツポーズをした。それでも、大きな歩幅で、体重も感じさせない軽やかさで、タッタッタッと三歩ほどのことだった。画面の背中はすでに小さくなっている。中継では正面からの映像ばかりでわからなかったけれど、沿道からの映像だとそのスピードがよくわかる。吹き抜けるように、ほんの一瞬。


「風みたい……」


 その風が届いたように息が止まる。でも、実際には前髪一本揺れていなくて、それがたまらなく残念だった。


「あのスピードで走る気分って、どんななんだろうね」


 車や自転車ではなく、自分の足で。それは私には生涯体験できない世界だ。


「大抵は苦しいみたいですけど、実際のところはわかりませんよね」


 私もあの風に吹かれてみたかった。見えないし感じない、十年前の風を追いかけて、私はさらに深く落ちていった。

 10区でも後方からの追い上げはあったものの、抜かれることなく湘教大がトップでゴールした。


『湘和教養大学、悲願の初優勝ーーーっ!!』


 その歓喜の輪の中にはもちろん廣瀬さんの姿もあり、監督の足を持ち上げて胴上げしていた。


『では9区の牧くん。走ってみてどうでした?』


 ようやく画面に廣瀬さんが大きく映し出された。テロップで、


『9区 牧廣瀬(四年) 好きな食べ物は麻婆豆腐』


 と映されている。若いけれど、今とあまり変わらない廣瀬さんはほんのり微笑みながら、やわらかい声で、でも背筋を伸ばしてしっかりと話す。


『ここまでのメンバーがいい流れで持ってきてくれたので、僕は落ち着いて楽しく走れました』

『後輩たちが応援してくれてたけど、呼び捨てでしたよね? いつもあんな感じなんですか?』


 え……あれ、後輩だったの?


 司会者の質問に、廣瀬さんは照れたようにふわふわ笑う。


『はい。先輩だと思われてないみたいで、敬語使ってもらったことないです』


「ヤバい。たまらなくかわいいな、この人」


 もっとずっと観ていたいのに、アンカーの金平くんへとインタビューは移ってしまった。金平くんはチームのムードメーカーらしく、その軽快なトークに場は盛り上がっている。その隣で、廣瀬さんも画面から見切れながら、おだやかに笑っていた。

 和紗ちゃんが持ってきてくれた雑誌にもあまり廣瀬さんは出ていなかった。表紙に湘教大のゴールシーンがついていても、それは半分だけで、もう半分には澤南大が同じ大きさで載せられていたりする。一冊だけ『湘和教養大学Wエース対談 志田隆人×牧廣瀬』という記事があり、


「おお! すごい!」


 と食い入るように読み始めた私は、途中から笑い転げてしまった。


『━━━━━今年度を振り返って、どんなチームでしたか?

 志田 故障者が多くてどうなるのか心配だった。夏合宿もうまくいかなくて、誰も走れないんじゃないかって思ったよね。俺自身故障して出雲には間に合わなかったけど、だんだん登り調子になっていけたのはよかったと思う。

 牧 そうだったね。

 志田 出雲での失敗が逆に発奮させたというか、「このままじゃヤバイぞ」ってみんなの目の色が変わったのがわかった。それがいい方に向かってくれて、全日本で手応えを感じることができた。

 牧 出雲のあとみんなでお好み焼き食べに行ったりしたよね。』


「これ、“対談”じゃなくて“相づち”だよ」


 廣瀬さんは別に無口なわけではないのに、緊張しているのか言葉数がかなり少ない。志田くんの方は話し好きらしく、始終対談をリードし続け、このペースのまま2ページの対談は終わってしまった。次のページには新主将のインタビューが4ページに渡って載っているのに!


「この記事、あとでコピーさせて」


 やはり緊張していて、ぎこちなく笑う雑誌の廣瀬さんを、携帯でも撮っておいた。

 決して武勇伝とは言えないエピソードのひとつひとつが、すべて“廣瀬さんらしい”。活躍していれば「かっこいい」、そうじゃなくても「かわいい」。私はこの人のどこも嫌いになんてなれない。


 翌日放送されていた復路は、昨日いろいろ解説してもらったせいか、往路より楽しめるようになっていた。たまに沿道を選手と一緒に並走する観客もいて、その必死の走りっぷりを見ると、いかにランナーが速いのかがよくわかる。

 この速さで走っている廣瀬さんが見たかった。世の中のたくさんの人が廣瀬さんのことを観ていたのに、私は知らなかった。今さらながらそれが悔しくて仕方ない。同時に、人々の記憶から廣瀬さんを消し去って、私だけのものにしたいとも思う。

 9区を走るランナーの髪が風で後ろに流れている。その風が、胸を高鳴らせて痛かった。


 痛かったのが、ときめきのせいだけならよかったのに。

 年一回しか食べないからとお雑煮を欲張ったり、陽菜が買ってきたお土産の最中がおいしくて欲張ったり、せっかく実家なのだからとあれもこれも欲張ったり……遅くまで居座って食べ続け、食べ過ぎで胃が痛くなった。ついでに後悔が心も痛くする。

 そういうわけで、自宅に戻ったときには夜十時を回っていて、さっさとお風呂に入って寝てしまおうと、バスタブにお湯を張りながら服を脱いでいたら、携帯が着信を告げた。実家に忘れ物でもしたのかと、油断し切った状態でディスプレイを見て、あやうく落としかける。


『着信中 廣瀬さん』


 飲み会の出欠確認のとき、連絡先を交換する形にはなったけれど、こんなことは予想していなかった。


「もしもし!」

『明けましておめでとうございます。牧です』

「明けましておめでとうございます」


 『今大丈夫ですか?』と聞かれ、「はい。大丈夫です」と答えながら携帯を首と肩で挟んで、部屋着のパンツを穿いた。


『今日は、大学時代のチームメイトや主務と久しぶりに飲んできて、今帰り道なんです』


 主務とはマネージャーのようなものらしいけれど、チームを裏方として支える重要な人だと和紗ちゃんは言っていた。昨日観た情報番組にも出ていたはずで、その顔を思い出そうとする。が、廣瀬さんばかり見ていたせいで、いまいち浮かばなかった。数ヶ月前は全然覚えられなかったのに。


「私も観ました。箱根駅伝」


 廣瀬さんの映像を観た、とは言えず、わざと事実だけ告げた。


『ありがとうございます』

「9区も観てました。長いですね、23km」


 エース区間と言われるだけあって距離も一番長くアップダウンも多い難所だと解説されていた。


『終わって欲しくないと思ってました』


 夢見るような声がした。


『楽しくて楽しくて、ずーっと走っていたかった。もっともっと走れた。あの23.1kmは、一瞬でした』


 こっそり涙が溢れたのを、気づかれないようにティッシュで吸い取った。廣瀬さんにとって一年でも特別な日である一月三日に、私を思い出してくれたこと、当時のインタビューでも聞けなかったその素直な言葉を聞けたことが、たまらなくうれしくて。

 そっか。本当に幸せなとき、廣瀬さんはあんな顔をするのか。

 少し口を開けて引き締まった表情で、風をおこしながら走る姿を思い出していた。何か切ないような満たされるような、甘い苦しさで胸がいっぱいになる。


「いいものですね、箱根駅伝」

『はい。走れただけで、俺は十分運がいいんですよ』


 どこまでも、転がるように堕ちていく。そのスピードは加速していく。それでも私は、そっと涙をこぼすばかりで、固く口を結んでいた。


 あなたが好きです。

 あなたが好きです。


 口を開いたら、この言葉しか出てこないから。


『あ、月だ』


 廣瀬さんがそう言うから、カーテンを開けて曇った窓ガラスを手で拭うと、瑠璃紺の空に淡い黄色のお月様が浮かんでいた。


「本当だ……」


 笑ったときの廣瀬さんの目みたいな、五日目くらいの月。廣瀬さんが着ていたユニフォームみたいな空。

 きっとこれは運命だ。もし違うなら、本物の赤い糸なんて切ってしまおう。

 冷え込んでいるのか、すぐに曇ってしまう窓ガラスを何度も拭きながら、廣瀬さんと同じ月を見続けた。バスタブからお湯が溢れていることにも、しばらく気づかないままで。


 日ごとに形を変える不実な月になど愛を誓うな、とシェイクスピアは言うけれど、それなら私はあの、いつも変わらない五日目のお月様に全力で恋をしたい。


 廣瀬さんが好きです。

 廣瀬さんが好きです。


 目を閉じたら、瞼の裏にはもう廣瀬さんしか見えない。









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