7区 愛と追跡の一日
受話器を置くと顔の右側が痛かった。隣から園花ちゃんが、薙刀で突くような鋭い視線を送っている。
「……なに?」
顎まで下ろしていたマスクを口元に戻しつつ、恐る恐る聞いた。
「目に余ります」
ペラペラペラペラッと伝票を高速で数えながらも、私を追い詰める手も緩めない。
「職場の電話で甘ったる~~い声出さないでください」
「そんな声出してないよ……。むしろ声出ないよ、風邪だもん」
仕事のやり取りと「よろしくお願いします。お疲れ様です」しか言ってない。名前だってちゃんと「牧さん」って呼んでいる。努めて冷静に振る舞ってるはずなのだから。
「行間全部みっちみちにハートマークで埋めてるじゃないですか。『仕事だから感情抑えてます』感にも腹が立ちます」
じゃあどうしたらいいんだよー!
園花ちゃんはあの飲み会の後もアグレッシブに出会いを求めたが、留年してまでアルバイトに精を出す男子大学生しか引っ掛からず、最近とみに苛立っていた。伝票をめくる指先に苛立ちがこもっていて、弱々しい紙などすぐに破けてしまうのではないかと心配になってしまう。高速でデータ入力している桝井さんも、未来人メガネの位置を直して言う。
「本当に不思議よねえ。『第一営業所から横持ち車両の車番について問い合わせが入ってます』って言ってるはずなのに、『好きです』って聞こえるんだから」
「字数全然合ってないじゃないですか」
園花ちゃんは数え終わった伝票の束をバシッと叩きつけ、次の束へと移っていく。
「違うって言うなら、下柳さんにも同じ声出したらどうですか?」
「嫌。出ない。さっきなんて『モゴモゴしてないでハッキリ言ってください』って、同じこと三回も言わされたんだよ。悪化したの、絶対アイツのせいだから。げほっ」
「にしても温度差ありすぎます。電話回線にアリがたかってショートしたら、西永さんのせいですからね」
私語は過ぎるものの、一応(私も)仕事の手は止まっていないので、目とおでこを光らせている課長もおとなしく空気と同化している。
「さっさと告白しちゃえばいいじゃないですか」
「無理だよ~」
「あら、だったらいっそ結婚しちゃえば?」
「『だったら』と『いっそ』の使い方おかしいです」
「“牧優芽”ってゴロ悪くないか?」
ふだん空気みたいなくせに、空気を読まない課長は、時折女子トークに参戦することがある。
「ゴロが良すぎる“牧まき”よりマシでしょう!」
「す、すみません……」
課長が額の汗を拭ったとき、
「西永さん……」
園花ちゃんの声色がガラリと変わって、震えるように私を呼んだ。
「ん? どうしたの?」
何かトラブルだと察して、浮わついたところのない声で応えた。
「伝票が、足りません。……三枚も」
「三枚……」
「三回数えましたし、データともつき合わせて、倉庫の方にも電話で確認取ったんですけど、確かに出庫してるはずなのに足りないんです」
示されたディスプレイを確認し、伝票の束も受け取る。
「ありがとう。あとは引き継ぐから、データの入力お願いしていい?」
伝票はお金と同じ。ないはずがない。数え間違いなのか、どこかに紛れたのか、勘違いなのか、とにかくどこかに原因がある。
紛失してる伝票を確認すると、三台口の伝票が丸々ないことになっていた。つまり、枚数は三枚だけど、トラブルは一件だ。それだけで少し気持ちが楽になる。風邪薬でぼーっとするし、三件のトラブルに対応できる元気はない。
園花ちゃんを信用しないわけじゃないけれど、もう一度数え直して、データも確認して、ゴミ箱も引き出しも、重なった書類の間も調べる。……ない。こうなれば、伝票が移動した経路をひとつひとつ追跡して行くしかない。
「これだけ確認したんだから、私たちの紛失ではないと思うよ」
心配そうに私を見る園花ちゃんにあえて笑顔を向けて、まず担当した乗務員さん三人それぞれに直接電話して確認してみた。
『俺は持ってないよ』
『田代さんが受け取ってたのは見た』
『ちゃんと渡したよ! なに? 失くしたの? しっかりしてよ』
お礼と謝罪を繰り返して電話を切ると、桝井さんが声を掛けてくれた。
「見つからない?」
「はい」
「ごめんね。この入力終わったら、私も手伝うから」
課長も含め暇な人なんていないし、通常業務は止まってくれない。他の業務をカバーしてもらって、私がひとりで動く方が効率的だ。
「ありがとうございます。でももう少しひとりで探してみます。倉庫の方行ってきますね」
倉庫でももう一度確認してくれたけれど、やはり見つかっていない。
「こっちじゃないと思うよ」
責任の所在は明確ではない。事務で失くしたのか、倉庫でのミスなのか、乗務員さんなのかわからないけれど、探しているのが私なので、私が責められるような立ち位置になる。忙しいのはお互い様で、伝票がなくて困るのもお互い様なのに、頭を下げるのは私だ。
「すみませんが、思い当たるところ、もう一度確認してください。よろしくお願いします」
あってはならないことだけど、こんなことはよくある。いくらシステムを導入しても、使うのは人間だし、伝言ゲームになる部分は生じてしまう。何度も何度も経験したことなのに、何度でも心臓が痛くなる。
体調も悪いし、下柳のヤローには嫌味を言われるし、今日は本当に最悪だ。歩いているだけなのに、広い敷地と風邪の影響で息が切れる。
「げほっ! げほっ! ……はあ、苦しい。もうこの仕事辞めちゃおうかな」
短絡的な考えだし、本心ではないけれど、そんな気分にもなる。真面目に一生懸命働いてはいても、仕事自体を愛しているかというと、そうではない。ひとえに生活のためだ。私だって夢を追い求め、人生を掛けるような仕事がしたかった。きれいな職場でおしゃれなスーツを着て、その人にしかできないクリエイティブな仕事を任されている女性を見ると、コンプレックスも感じる。本当に、私って何もかもダメなんだよな……
「あ、西永さん!」
呼ばれて立ち止まると、地面でしょぼくれている私の影に、駆け寄る影が見えた。振り返るとそこには、ふわふわ笑う廣瀬さんの姿がある。
「ちょうどよかった! 今伝票届けようと思ってたんです」
廣瀬さんの影の中に、私はすっぽりくるまれた。
「……伝票?」
「三台口の伝票、一番上の伝票にしか受領印押されてなかったんですよ」
荷物を納品したら、必ず受領印をもらうことになっている。伝票があっても受領印がなければ、荷物は届いていないものとみなされ、最悪は弁償になってしまう。
「向こうのミスだったので、トラブルにはならなかったんですけど、今急いでもらってきました」
差し出された伝票はしっかり三枚。受け取る手が震えた。
「もしかして、探してました?」
声も出せずこくこくと強くうなずくと、俯く私の頭の上で廣瀬さんが慌てた。
「うわー、すみません! 受付にはちゃんと言っておいたんですけど、直接電話すればよかったですね。大変だったでしょう?」
感謝を言いたいのに、もっと言いたいこともあるのに、涙しか出なかった。廣瀬さんの影の上に、滴がボタボタ落ちていく。
いつもながら、なんだかタイミングの悪い廣瀬さん。今回もきっと、受付の人に伝わってなかったのか、伝言を受けた人が忘れたまま交代してしまったのか、私にまで届かなかった。廣瀬さんの間の悪さに、私まで巻き込まれた形だ。そうだ、廣瀬さんが悪い。間が悪すぎる。だけど、どういうわけか、私にとっては絶妙にタイミングがいい人。
「え…………そんなに心配させてしまいましたか?」
ものすごく動揺したのか、ポケットのあちこちを探って何かを探す(多分ハンカチかティッシュだろう)。出てくるのはレシートやクリップや使用済み付箋ばかりで、目的のものは見つからなかったらしい。そんな様子がやっぱりかわいくて、私は潤んだ目を細め、自分のハンカチで涙を拭った。
「そうじゃなくて、私、今風邪引いてて、ちょっと情緒不安定で、それで……」
涙が出たのは心配したせいでもあるし、見つかってホッとしたせいでもあるし、実際情緒不安定でもあるけれど、それだけじゃない。今の私から出てくるものは、言葉であれ、涙であれ、すべてに恋が含まれている。
「風邪、大丈夫ですか? 帰り送ってあげたいけど、すみません。俺、車じゃなくて。一回取りに戻ってから迎えに来るので、待っててください!」
「いえ、大丈夫です。私も車なので、送ってもらっても明日困りますし」
「あ、そうですよね。……えっと、これ、よかったらどうぞ」
おばあちゃんが持っているような黒飴なんて、久しぶりに見た。思わず吹き出してしまった。おそらく廣瀬さんももらったものだろう。黒飴が風邪に効果あるのかどうか知らないけれど、その気持ちがうれしくて受け取った。親指と人差し指と中指の先が、その手のひらをかすめる。
「ありがとうございます」
「いえ、こんなことしかできなくて」
「ありがとうございます」
またあふれた涙のまま見上げた廣瀬さんは、五日目のお月様みたいな目をして笑った。
「あ、事務所までおんぶして行きましょうか!」
「脚はどこも悪くないです。しかも恥ずかしい」
「そう、ですよね。すみません。本当に、何もしてあげられなくて」
廣瀬さーーーん! もう、もう、本当に、廣瀬さーーーん!
大好き、大好き、と鳴る胸の音が届けばいい。だけど自分の口では決して言えないから、「ありがとうございます」と何度も言った。
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