5区 ロード・オブ・ザ・箱根駅伝

 廣瀬さんの顔を覚えた。

 廣瀬さんと言えば、声を掛けられてもわからず「……誰だっけ? ああ、廣瀬さんか。そうそう、こんな顔だった!」がセットのような状態だったけれど、さすがに“打ち上げ”してからは迷うこともなくなった。廣瀬さんがタイムカードを押しに来ると、「おはようございます、廣瀬さん」「廣瀬さん、お疲れ様でした」と私から声を掛けることさえある。私の成長はとどまるところを知らず、今では本人がいなくてもちゃんと顔を思い描けるところまできていた。

 よくよく見れば目がくりっとしてる、と言えなくもないし、口も大きすぎず小さすぎず。鼻も高すぎず低すぎず。髪型に関してはスピードカットではなく、ちゃんと美容院で、さりげなく自然体を装って手の込んだカットをしてもらってる感じがする。もし廣瀬さんが、性格の悪い上司の息子さんだったなら、「イケメンですね!」ってお世辞を言える程度には悪くない。でもただの同僚だから、素直に「地味ですね」としか言ってあげない。

 これでようやく戸惑うこともなくなったと、ホッとした頃、朝出勤した私を廣瀬さんが待っていた。

 うちの会社は一応制服があり、事務員は白のブラウスにブラウンのチェック柄ベスト、黒いスカートのスタイルである。その日遅刻ギリギリだった私は、もちろん着替えが間に合っておらず、ベストの前を左手で押さえながら右手でタイムカードを押したところだった。


「よし、セーフ!」


 「8:27」という数字を見て、安心して三つあるボタンのうちふたつを留めたとき、


「西永さん、おはようございます」


 と声をかけられた。


「あ、廣瀬さん。おはようございます」


 廣瀬さんは珍しく困ったような顔で、


「すみません。ちょっといいですか?」


 と社員ロッカーの方を視線で示した。仕事の話ではないらしい。

 8:30から通常業務開始で、留守電も解除される。その途端依頼が舞い込むのは常のことで、これがお昼まで続くのだ。けれどその不安そうな表情を退けることができず、案外おひとよしの私は「三分だけなら」としぶしぶロッカー前に移動した。

 すみません、嘘をつきました。どういうわけか胸の内側がもぞもぞするのだけど、それを認めたくないし、間違っても廣瀬さんにバレてはいけないので、渋い表情を故意に作っていた。


「なんでしょうか?」


 やはりあえて素っ気なく言う私に、廣瀬さんはさらに恐縮する。


「お忙しいところすみません。手短に言いますね。明後日、若手の有志で飲み会があるんですが、西永さんもいらっしゃいませんか?」

「有志?」

「はい。うちの課からはふたり、倉庫と総務の方からも何人か集まるみたいで、それで事務にも声を掛けようってことになって」


 その手の飲み会はどこの営業所でもあることだけど、異動してきてからは課の飲み会しか出ていない。ちなみにうちの課の飲み会は、桝井さんと私と園花ちゃんの女子会に、課長がしれっと参加している、親睦だけがやたらと深まる会である。

 お酒は嫌いじゃない。でも知らない人の中に入っていくのは疲れる。コミュニケーションをはかるべきか、面倒だから断ろうか計算していると、


「それでですね、先輩から飯星さんも誘うように命令されたんですけど、飯星さんとは面識がなくて。西永さんから声を掛けてもらえませんか?」


 つい細くなった目に、廣瀬さんがたじろいだ。


「無理にとは言いません! 声を掛けてもらえれば、それで十分です。これ、当日の場所です」


 プリントアウトした居酒屋の宴会メニューの余白に、慌てて数字を書き込むと、


「ちょっと考えて、それで連絡ください」


 と押し付けてきた。

 プルルル━━━━━ワンコールですぐに、当の園花ちゃんの声がする。


「おはようございます。ササジマ物流第三営業所、飯星でございます」


 時刻は8:30。園花ちゃんの声に重なって、また別の電話が鳴る。


「考えておきます」


 紙をポケットに入れて、走って電話を取った。


「お待たせいたしました! ササジマ物流第三営業所、西永でございます」


 電話を受けながら目をやると、廣瀬さんが笑顔で手を振りながら事務所を出ていくところだった。



 いろいろ悩んだ結果、ありのまま正直に話すと、


「行きましょう!」


 と園花ちゃんは力強く拳をつくった。


「所詮社内の飲み会だよ? 親睦を深めるためだけの茶話会(?)だよ? 出会いとかロマンスの期待なんてできないよ?」

「それでも構いません。父親と課長の間を往復するだけの毎日に、嫌気がさしました」

「わかるーーーっ!」


 同じ境遇の者同士、共感の涙を拭い合う。胃カメラのとき後悔して、恋がしたいと思ったものの、具体的な打開策なんて思い付かないまま日々を過ごしていたところだった。


「この飲み会での出会いなんて期待できなくても、そこから出会いが広がる可能性はあるじゃないですか。父親と課長からは広がりません!」


 私の中にはない論理に感心して、盛大な拍手を贈った。最悪でも廣瀬さんはいるのだから、あの人を見ているだけで楽しめそうだし。

 ……というわけで、特別気合いの入っていないカットソーにパンツスタイルで、指定された居酒屋に向かった。今回の目的は食事と、出会いに繋がる人脈作りだ。

 会場は最近できたところで、こざっぱりとして小洒落た小綺麗なこぢんまりとした、それでいて小難しくなく小賢しくない女性人気の高い居酒屋だった。仕切りが高く、それぞれのテーブルは個室感がある。


「お疲れ様でーす」

「あ、お疲れ様です。荷物はこちらのカゴに、コートはその近くにお願いします」


 掘りごたつのテーブルには廣瀬さんしかいなかった。一番端に座っているので、私はその真向かい、園花ちゃんは私の隣に座る。先輩は「今お手洗いに行ってます」ということらしい。

 仕事帰りの廣瀬さんはスーツ姿だった。いつもはジャケットを脱いで、社名入りの作業着を羽織っているから印象が違う。ネイビーのスーツは薄ーーくシャドーストライプが入っているけれど、ウルトラマリンブルーのネクタイも、白いシャツも無地。着る人が着たならば、シンプルゆえにラインのうつくしさや、生地の品質が生きて素敵なんだろうと思う。しかし、そこは廣瀬さん。


「ふふ、今日も地味だな」


 多分センスは悪くないのに、まっっったくそれを感じさせない。緊張させない人柄に安心して頬が緩んだ。


「来てくださってありがとうございます」


 頭を下げる廣瀬さんに、園花ちゃんが笑顔で手を振る。


「いえいえ。とんでもない。このお店、デザートが豊富だから来てみたかったんです」

「女性受け狙った店選びしてよかったです」


 ははは、ふふふ、となごやかな声が立つ中、店員さんがお通しを運んできた。


「いらっしゃいませ~!」


 黒い焼き物のお皿にもりっとキャベツが乗せられている。


「後ろから失礼しまーす」


 店員さんは廣瀬さんに声をかけ、テーブルにお皿を置こうとする。


「あ、はい」


 声をかけられた廣瀬さんは振り返り、さすがと言うべきか山盛りキャベツに肘鉄を食らわせた。キャベツが雪崩を起こしてトレイとテーブルと床に散らばる。本当に、間の悪い人……。


「ああ!」


 悲鳴を上げたのは店員さん。


「も、申し訳ございません!!」


 こぼれたキャベツを拾い、廣瀬さんの肘におしぼりをあてようとして、それを本人が受け取った。


「こちらこそすみません。もったいないことしてしまいました」


 ゴシゴシと擦っても、肘にはわずかに染みが残っている。テーブルに落ちたキャベツをひとつ口に入れてみると、ゴマ油と塩昆布がまぶされていた。


「……クリーニング」


 肘の油染みを見て、店員さんが震える声で言った。


「安物ですし、本当に大丈夫です。元々明日クリーニングに出す予定だったので、気にしないでください。ほら、全然目立ちませんし」


 おしぼりで濡れた肘は確かに染みが目立たない(濡れてるからね)。ホッとした顔で、店員さんはふたたび頭を下げた。


「お通しはすぐ新しいものをお持ち致します。本当にすみませんでした」


 ジャケットを脱ぎながら、にこにこと廣瀬さんは彼女を見送った。うちの課長のスーツより高価だろうに、本当に気にしていないようで、適当にたたんでポイッとその辺に放り投げる。


「彼女、粗相したのが廣瀬さんでよかったですね」

「そうですか?」

「いや、相手が廣瀬さんじゃなければ、そもそも粗相しなかったかも」

「……その言葉、どう受け取ったらいいんでしょう」

「一連の流れが“らしい”なあって。私は楽しかったです」


 困ったような歪んだ笑顔で、廣瀬さんはテーブルに残ったゴマ油を拭き取った。


「お疲れ様です」


 すっかり忘れていたのだけど、廣瀬さんの先輩がトイレに行っていたのだった。戻ってきた彼を見て、園花ちゃんは妙にくっきりした笑顔で挨拶した。


「お疲れ様です。事務の飯星園花です」


 彼女の様子が気になりつつも、私も後に続く。


「お疲れ様です。同じく事務の西永優芽です」


 笑顔を向けても彼は細い目の奥を冷ややかに保ったまま、


「配車担当の下柳一誠です」


 と言った。園花ちゃん同様、凍り付く私の笑顔。園花ちゃんは、


「電話ではよく話しますけど、ちゃんとお会いするのは初めてですね」


 とおっとりした声で話し掛けつつ、固く握った拳で私の膝をパンチした。首が据わってないのかってくらい機械的にうなずきつつ、テーブルの下で園花ちゃんに手を合わせる。


 今度、何っっっでも奢る!


「西永さんは“ゆめ”さんって言うんですね」


 空気を読んでいるのかいないのか、廣瀬さんがのんびりと言う。


「母が少女趣味で……」

「いやいや、名前に関しては俺の方がおかしいですから」


 あれ? そういえば、と思ったタイミングで、


「お疲れ様でーす!」


 と倉庫チームと総務課の人たちがドヤドヤと入ってきた。合計で男性八人、女性五人の十三人。緊迫した空気が一掃され、私も園花ちゃんも肩の力を抜く。

 職場の飲み会とは言えカジュアルなものなので、「全員とりあえずビール!」とはならず、最初から好きなものを頼んだ。

 飲み物が届くまでの間、やはり名前と顔が一致しないということで、かんたんな自己紹介が行われる。


「配車担当の下柳一誠です。二十八歳。趣味はバイクです」


 偉そうな下柳はかなり年上かと思っていたのに、私と同い年だった。人間の価値は年齢の上下ではないけれど、今後の電話対応に少しは影響してしまいそうだ。

 下柳が無難な自己紹介で終わってくれたので、廣瀬さんもそれに続く。


「配車担当の牧廣瀬です。三十二歳です。好きな食べ物は麻婆豆腐です」


 ……………………………………は????


 みなさま(誰?)にお見せできないのが残念なくらい、私の顔は“無”になっていた。貧弱な語彙力を駆使して私の中のイメージをお伝えすると、驚きのあまり目も鼻も口も、顔のパーツすべてがツルッと剥けた感じだ。こんなに短い自己紹介の中に、疑問がたくさん溢れてて、私は廣瀬さん……牧さん? の顔を、筆入れする前のこけしのような表情のまま凝視していた。が、その場の視線が全部私に集まっていたので、最も重要なはずの第一印象を、おざなりな自己紹介で植え付ける。


「事務の西永優芽、二十八歳です。好きな食べ物はみかんです」


 別にみかんが特別好きなわけではなかったけれど、廣瀬さん……牧さん? の顔を見ていたらついそう言っていた。廣瀬さん→牧さん? →箱根駅伝→みかん、という連想ゲームが瞬時になされたらしい(無自覚)。自己紹介は園花ちゃんを経由してつつがなく進んでいる。

 幼少の頃より「他人の話は顔を見て聞きなさい」と言われて育った私は、ひととおりの自己紹介と、どうやら幹事を仰せつかっているらしい廣瀬さん……牧さん? が無難な挨拶のあと乾杯を告げるところまで、一応おとなしく聞いていた。しかしその乾杯のあとグラスに唇をつけることすらなく、テーブルの端に立ててあるメニューを床にどけ、廣瀬さん……牧さん? の直角になる位置にドスッと移動した。


「廣瀬さんって、“牧さん”なんですか!?」


 照れたように、廣瀬さん……牧さん? は笑った。


「やっぱり、わかってなかったんですね。そうかな? とは思ってました」

「“廣瀬まき”さん?」

「それ、よく言われますけど、“牧廣瀬”です」

「“廣瀬さん”はミドルネームですか?」

「いえ、普通に名前です。ミドルネームって“ウィリアム”とか“ジェームズ”とかじゃないですか?」

「“大岡越前守忠相”みたいな?」

「いや、官職名でもないです。普通に名前ですって」

「だって変!」

「ストレートに言われたのは初めてですけど、よく驚かれます」

「牧さん?」

「はい」

「廣瀬さん?」

「はい」

「どっち?」


 今度こそ本格的に困って、大根サラダにゴマドレッシングを丹念に混ぜ続けている。


「……仕事では“牧”が無難かな」


 廣瀬さんの顔から視線を外して声だけ聞くと、確かにあの『はーい。わかりました』と同じ声のような気がする。多分。きっと。おそらく。そもそも配車担当に電話して、“廣瀬さん”が出たことなんてなかったじゃないか! なんで気づかない……。


「なぜ、そんな名前……」


 自分の不手際は、とりあえず誰かになすりつける。


「父は娘が欲しかったみたいで、好きだったアイドルの名前をつけるって心に決めてたらしいんです。でも男だったので、その人の名字の方をつけられました」

「生まれた時から間が悪かったんですね。すみません。馴れ馴れしかったです」


 お皿と箸で手が塞がっていた牧さんは、顔をぶんぶん横に振った。


「いえいえ! むしろ、なんかいいなあ、って思ってて、あえて指摘しなかったので」


 ふわわんと笑った顔は少し頬っぺたが赤かった。

 知らなかったから「廣瀬さん」と遠慮なく呼べた。名字みたいだから名前だとわかった今でも抵抗を感じないのに、これからそう呼べないのだと思うと、“廣瀬さん”がどこかへ行ってしまったような気持ちになる。そんな気持ちを押し流すがごとく、ハイペースで梅酒ロックを飲み干したら、氷がカランと鳴った。

 視界の端で、下柳が園花ちゃんに絡んでいることはわかっていたのだ。だけど、本当に申し訳ないことに、枝豆サイズの私の脳は、今牧さんのこと以外考えている余裕がなかった。


「廣瀬さんが牧さんなら、なんで『趣味は走ることです』って言わなかったんですか? 一番インパクトあるのに。すみませーん! ファジーネーブルひとつ!」


 ごま手羽にかぶりついていた牧さんは、紙ナプキンで一度口元を拭う。


「陸上は、“趣味”っていうには少し足を突っ込みすぎました」

「ああ、“仕事”だったからですか?」

「というより、何でも真剣にやればやるほど、つらいことの方が多くなるでしょう?」

「……走るの嫌いになっちゃいましたか?」

「いえ、好きですよ。でも、」


 牧さんの視線はごま手羽に注がれていて、でもきっと違うところを見ていた。


「趣味になるには、もう少し時間が必要かもしれないです」


 そういうものだろうかと、私は届けられたばかりのファジーネーブルをゆっくり口に含む。牧さんもごま手羽を丁寧に食べていたので、私たちの間には沈黙が降りた。


「夢って、叶って終わりじゃないですもんね。そのあとの人生の方が長いし」


 そこが映画やドラマと違ってつらいところだ。最高地点で人生を終えられるわけではなく、そこから大変なことも嫌なこともまだまだある。簡単に死ねればいい方で、長く病気で苦しんだりすることもある。現実はつらい。


「そうですね。90%くらいはつらいかな。でも残りの10%で90%をひっくり返せるのも夢の舞台です」

「箱根駅伝?」

「もちろんそれが一番だけど、最初に感動したのは冬に走れたことです」


 どういうこと? とグラスに口をつけながら目で問う。


「俺、出身が東北なんです。そんなに豪雪地帯ではないんですけど、解けた雪が凍って路面がボコボコになるから、歩くのも大変なんですよ。とても走れない」

「野球やサッカーなんかでも聞きますよね。雪国は不利だって」

「はい。だから大学に進学した最初の年の冬、ずっと走れるのがうれしくて」


 半月より細く、三日月よりは太い、五日目くらいのお月様みたいな目で、牧さんは顔を綻ばせた。


「それが当たり前の人もたくさんいるのに」


 グラスを揺すって氷でファジーネーブルを混ぜる。そんなの、やっと同じラインに立っただけじゃないか。


「感動できた俺の方が得だと思いませんか?」

「思いませんね」

「あれ、そうですか」

「でも、きっと本当にうれしかったんだろうなあ、って、それだけはわかりました」


 十年以上経っても、頬を少し紅潮させるほどの感動。そういうものが私にもあっただろうか。たいそうな名前に反して、まともに夢を持ったことすらない私には、夢を追う姿だけで眩しい。私の人生を振り返ってみたけれど、かじったごま手羽の味の方が濃いくらい薄っぺらだった。



 飲み会ではよくあることだけど、トイレから戻ってみるとあちこちで席がシャッフルされていた。園花ちゃんは見事脱出をはかったらしく、テーブルの反対側の端で、倉庫アルバイトの男の子たちと楽しそうに話している。私が座っていたところには総務課の女性がいて、牧さんと楽しげに話していた。「総務で勤怠管理などを担当してます堀田真菜実です」と言っていた方だ。同じフロア内にいるので顔見知りだけど、いつもながらサラッサラの髪がうつくしい。何度耳にかけてもサラサラと落ちるから、“髪の毛を耳にかける仕草”が見放題ですよ、男性諸君!

 私のファジーネーブルは、彼女の隣の席に抜け目なく移動されている。溶けた氷のせいで、上の方が薄くなっていたそれを、割り箸でガッシャガッシャかき混ぜた。その箸をサーモンのお造りに伸ばす。


「いえいえ、本当ですって! ニューイヤー駅伝観て、箱根駅伝往復観るから、毎年三が日は家にこもってばかりなんです」

「それは僕も一緒ですね。誘われればその後飲みに行くことはありますけど」


 堀田さんは熱烈な駅伝ファンらしい。かぶさるように話す彼女にも、牧さんはふわわんと笑って受け答えしている。その笑顔を一瞬横目で見て、私は鶏つくね鍋を口に運ぶ。


「箱根駅伝で優勝するってどんな気持ちですか?」


 んー、このつくね、なんかちょっと辛い。


「やっぱりすごくうれしかったです」


 あ、生姜が強いのか。噛み続けてると、生姜の味しかしなくなるな。


「9区って、復路のエース区間じゃないですか? プレッシャーとかありました?」


 噛みごたえがあるというか、ありすぎるというか。硬い……。


「そう言われてますけど、僕はエースではなかったので、プレッシャーはありませんでした。他のメンバーが流れを作ってくれたので、僕はそれに乗るだけでしたし」


 ……失敗した。ちょっとつくね盛りすぎたな。


「でも区間二位なんてすごいです! 走ってるときって、どんなこと考えてるんですか?」


 あ、水菜おいしい。


「えーっと、もうあんまり覚えてないんですけど、楽しかったです」


 あー、水菜おいしーい!


「練習って厳しいんですよね?」


 あーー! 水菜おいしーーーい!!


「はい。それはもう」


 あーーーー!! 水菜おいしーーーーい!!!!


「西永さん、野菜嫌い?」


 名前を呼ばれて器から顔を上げると、いつの間にか下柳が隣にいた。


「好きな野菜と嫌いな野菜があります」

「さっきからずっとすごくマズそうに食べてるから、嫌いなのかと思って」

「この水菜、すごくおいしいです」

「だったらもっとおいしそうな顔すれば?」


 はははは、と笑う下柳に、完全なる愛想笑いで対応する。


「西永さんって、同い年だったんだね」


 ああ、それで急に慣れ慣れしい態度になったのか。今3cm近づいたな、離れてよ。


「そうみたいですね」


 慣れるつもりがないので、変わらぬ敬語で距離を取った。ついでに5cm離れた。


「同い年なんだからタメ口でいいよ」


 強く念じても、想いって伝わらないものだなあ。やけ酒気味にファジーネーブルをあおる。


「下柳さん、何か新しいお飲み物、お頼みになられませんでしょうか?」


 タメ口強要なんて断固無視してメニューを渡す。


「角ハイボール」

「かしこまりました」


 ちらっと牧さんたちの方を見ると、ふたりとも飲み物がほとんどなくなっていたけれど、


「最初は下りだからスピード出るじゃないですか。アップダウンも続くし。でも横浜駅前でもラップタイムにあまり差がなかったのって、やっぱり計算してたんですか?」

「うーん、どうだったかな? 夢中だったので細かいことはあまり覚えてなくて」


 話に花が咲きまくって大変オメデタイようなので、声をかけるのはやめて差し上げた。


「すみませぇぇぇーーーん!! カルピスサワーと角ハイボールひとつずつぅぅぅぅーーー!!!!」


 冷めて噛みごたえが三倍増しになった鶏つくねをガシガシ噛んでいると、下柳がこれみよがしに溜息をつく。一度は無視したけれど、しつこく繰り返すから、仕方なく尋ねた。


「……お疲れですか?」

「配車担当って、毎日毎日気を使うからね」


 私たちは毎日毎日アナタに気を使ってますけどね! と鶏つくねを噛み砕く歯にもさらなる力が入る。


「へー、大変ですね」

「事務はいいよね。電話回してればいいんだから」

「ソウデスネー。気楽ナモンデスー」

「荷主がさ、『この荷物早く持ってきて』とか言うだろ?」

「ああ、はいはい」


 時間指定ではなく漠然と『早めに』と言われることはよくある。時間指定でない限り、常にできる限り早くお届けしているのだから、そうそう早くはならないけれど。


「あれ、暗に高速使えって言ってるの。だけど明確な指定じゃないから『金は払わないよ』って」

「へー、ひどい話ですね」

「だろ? 『いつでもいいから返品の回収もお願い』ってのも、無料でって意味」

「へー、ひどい話ですね」

「そうなんだよ。いくら仕事もらう立場だからって、何でも言うこと聞いてたら大変なことになる。タダ働きなんて乗務員も納得しないから、結局俺たちが板挟み」

「へー、ひどい話ですね」

「廣瀬くんなんて、最初の頃はなんでも引き受けちゃって、俺が全部尻拭いしてやってさ。本当に大変だった」

「新人の尻拭いするのは先輩の仕事ですから当然ですね」

「……ああ、まあな。それでも廣瀬くんはひどかったよ」

「牧さんはやさしいですから」


 何でも全部やってあげようとしちゃったんだろうな。それで各方面から怒られて、すみませんすみませんって、毎日頭を下げていたんだろう。実際に動くのは乗務員さんだから、無理させるわけに行かないけど、自分ひとりの問題だったら、何もかも抱えてしまうタイプかもしれない。


「俺はね、物事には必ず対価を支払う必要があると思ってる。何か頼まれたらやってもいい。でもやるからには対価をしっかり要求する。でも長時間待機は別ね。金払えば待たせてもいい、なんて思われちゃ困るから。あれはある程度ガイドラインを定めて、例えば三十分待機したらその分待機料もらって、それ以上待たされるなら、仕事はキャンセルして帰る、とかね。そうしないと次の仕事に差し障るから。待機させられてるのは何も乗務員だけじゃないんだ。配車担当だって待たされてる。完了報告受けるまで帰れないからさ。こっちにも待機料もらいたいよな」

「そうですねー」


 当たり前だけど、牧さんも大変なんだな。いつもふわふわ笑ってるから、ストレスなんてなさそうに見えるけど、仕事していればそんなわけない。

 下柳の言ってることはわかる。おそらくは正しい。だけど、なんだか心に響かないのは、それがど正論だからかもしれない。牧さんなら同じことを言っても、もっとすんなり納得できる、別の切り口を持っている気がする。


「あんたたちはいつもかんたんに電話を回してくるけど、俺たちはそのたびに苦労させられてるわけ。もっとそれをわかってほしいな。そうすれば電話口での態度ひとつとっても、もっと変わってくると思う」

「はーーーい。わかりましたー。すみませーん! カシスウーロンひとつー!」



 トイレの洗面台でおのれの身体を支えていると、園花ちゃんが心配そうに飛び込んできた。


「西永さん! 大丈夫ですか?」

「大丈夫。……多分」


 なぜか酒豪に見られるのだが、さほど強くない私。自覚はあるのでこれまで酷い目にあったことはないけれど、ここが引き際であると感じていた。老兵は死なず、ただ帰るのみ。


「下柳さんにずっと付き合ってるなんて、悪酔いもしますよ」

「ああ、うん。そうだったね」


 下柳の話は半分ほど聞き流していたので、さほどのダメージは食らっていない。私を疲弊させたのは、別の人物だった。楽しそうにしてたなあ。全然聞き流してなかったなあ。


「園花ちゃんは二次会誘われてたよね? ごめん、私は帰るから牧さんにそう言っておいて」


 二次会になんて行ったら、見たくもない光景を見せられて、ますます具合が悪くなりそうだ。



 すでに解散後だったので、店先にも誰もおらず、二次会場所に急ぐ園花ちゃんとは反対方向にたらたら歩き出した。すぐタクシーに乗るよりも、少し風にあたりたかった。赤くなっているであろう頬っぺたに、十二月の夜の空気は気持ちいい。小さい頃熱を出したとき、おでこにあてられた母の冷たい手を思い出して、私はそっと目を閉じた。


「わあ! あぶない!」


 声とともに私の右腕をぎゅうっと掴んだその人は、牧さんだったか、廣瀬さんだったか。


「どうかしましたか?」

「倒れそうになってました」

「ちょっと目を閉じただけなんですけど」

「その千鳥足で? 自殺行為ですよ」


 お礼を言って体勢を立て直すと、牧さんはすぐ隣を歩き始めた。


「牧さん、二次会は? 幹事でしょう?」

「あとは若い人に任せました」

「老兵は帰るのみですね」

「はいはい」

「でも堀田さんは?」

「多分二次会じゃないですか?」


 放っておいていいのかなー? と思ったけれど、私は敵に塩を送るほど人間ができていない。……“敵”ってなんだ?


「もしよかったら、」


 牧さんは左腕をモジモジと差し出した。


「掴まってください。俺が西永さんの腕を掴んだらセクハラになりそうなので」

「私が牧さんのこと嫌いだったら、今の発言だけでセクハラになりますけどね」

「え! そうなんですか?」


 遠慮という言葉に修正テープを引いている私は、機能性とファッション性のバランスが取れた牧さんのダウンコートをぎゅうっと掴んだ。コートの生地は夜風のせいで冷たく、体温なんて伝わってこないのに、あたたかみを帯びている気がした。……もちろん気のせいだ。


「牧さん」

「はい」


 他の話をするつもりだったのに、ずっと感じていた違和感がやはり気になる。


「やっぱりなんか変な感じがするので“廣瀬さん”って呼んでもいいですか? 仕事ではちゃんと気をつけますから」

「もちろん。俺は構いません」


 いつもふわふわしている廣瀬さんは、ある意味普段から酔ってるみたいに見えるせいか、常と変わらない態度だった。


「廣瀬さん、箱根駅伝優勝してたんですね」


 聞こえてくる堀田さんの話は知らないものばかりで、親しくなったと思っていた廣瀬さんがよくわからなくなった。箱根駅伝なんて出場するだけで地元のヒーローだ。優勝なんてしたのなら、有名人になっていてもおかしくないのに、隣の彼は人混みにかんたんに紛れてしまうほどにスター性がない。


「四年のとき、一度だけ9区を走りました。そのときチームも初優勝したんです」

「走ったなら、廣瀬さんの優勝でもあるじゃないですか」

「足は引っ張らなかった、という程度ですね」


 安定した廣瀬さんの声は、謙遜するようでも卑屈になっているようでもなく、本当に本人が思っているままを口に乗せたみたいに聞こえる。


「謙遜が過ぎませんか? 箱根駅伝に出たくても出られない人たちに怒られますよ?」


 ふふふ、と廣瀬さんは苦笑いして、それでも撤回はしなかった。


「俺、高校時代はまったくの無名だったんです。箱根駅伝に出るような選手って、高校でも活躍していた人が多いんですけど、俺は都大路なんてとても走れるレベルじゃなかったんです」

「都大路?」


 全国高等学校駅伝競走大会の開催地は京都市で、そのコースのことを通称“都大路”と呼ぶらしい。西京極陸上競技場を出発し、国際会館前で折り返して戻ってくるまでの42.195kmを七人で繋ぐ(男子の場合)。47都道府県の代表校がそれぞれ走り、特に最長区間の一区はエース区間で、そこからたくさんの選手が翌年の箱根を目指すそうだ。中でも速い人は5000mを13分台、そうでなくても14分台の半ばくらいで走るのだという。


「でも俺の高校時代のベストタイムは5000m15分04秒28でした」


 車通りが多く声が届きにくいため、私はもう少しだけ廣瀬さんに近づいた。頬っぺたにも冷たいダウンコートの生地が当たる。


「……遅い、ですよね?」


 廣瀬さんは明るく笑って何度もうなずいた。


「どこの大学からも誘われなくて、一般入試で湘和教養大学に入りました。それで陸上部に入部を希望したのですが、断られてしまって」

「断られるんですか!?」


 驚いた拍子に足元がグラッと揺れた。ふたたび私を支えた廣瀬さんは、十数メートル先のコンビニを指差す。


「ちょっと休みましょうか」


 コンビニのイートインコーナーは、通りに面したカウンターになっていた。私はそこに座らされ、廣瀬さんがホットコーヒーをふたり分買ってきてくれる。


「ありがとうございます。いただきます」


 砂糖とミルクを入れると、廣瀬さんも並んでミルクだけ落としたコーヒーを飲み始めた。


「入部、断られてどうしたんですか?」


 廣瀬さんは大きなひと口を飲んで、ふうっと息を吐く。


「毎日通って頼み込みました。『どうしても箱根を目指したい』って。それで、駅伝シーズンに入る前の十月までに5000m15分を切れたら入部が認められることになりました」

「切ったんですね?」

「九月の終わりに14分58秒13!」


 にっこり笑ってピースサインを出した廣瀬さんに、私も声を立てて笑ってしまった。


「ギッリギリ!」

「本当に。首の皮一枚繋がりました」


 目の前の歩道を、おじさんがひとり走って行く。上下黒のジャージ姿とその体型から、昨日今日始めたばかりのダイエットだろう。慣れていないその走りを、私と廣瀬さんは見送ってから顔を見合わせて笑った。

 無事入部は果たせたものの、最初は練習にまったくついて行けず、チームメイトからも相手にされなかったそうだ。鳴り物入りで入部した選手には、同級生であっても声を掛けられなかったとか。それでも練習方法が合っていたのかタイムがどんどん上がり、三年生のときには学生三大駅伝の出雲と全日本は走れたのだそう。


「箱根は?」

「……直前でインフルエンザにかかってしまって」


 廣瀬さーーーーん!

 廣瀬さんは昔から本当に廣瀬さんだったんだな。


「間が悪すぎます……」

「その時は隔離されたまま新年を迎えました。だから翌年、箱根は出られただけで十分なんです。出られないチームメイトの方が多いですから」


 あたたかいコーヒーと廣瀬さんの話が、身体に吸収されていくのがわかるようだった。じんわり沁みるそれを感じていたら、廣瀬さんが思いがけないことを言い出して、危うく吹き出しそうになる。


「西永さんは、箱根駅伝が苦手なんですよね?」

「ぶっ! ………なぜ、それを」

「すみません。社食で話してるのを聞いてしまいました。あのとき、すぐ後ろにいて。あ、大丈夫です。下柳さんはいませんでしたから」


 桝井さんが辺りを見回して確認したはずだけど、その目をかいくぐる存在感のなさ。


「今後発言には気をつけます……」

「やさしい考え方をするなあって、聞いてました」


 そんな立派なものではないので、居心地の悪さからペコペコ紙コップを弄んだ。


「観ていいんですよ、箱根駅伝」


 私の顔を覗き込むようにちょっと顔を傾けて、うれしそうに笑う。


「むしろ観てあげてください」


 その笑顔に引き寄せられるように、廣瀬さんを見つめた。


「陸上の長距離は本当に地味で、高校生なんて今時まだボウズだったりするんです。体育系の名門校でもモテるのは野球部とサッカー部ばかり」

「モテたかったですか?」

「そんなの当たり前じゃないですか」


 廣瀬さんは不貞腐れたように顔を歪めるけど、モテてこなくて良かったと、私はこっそりほくそ笑んだ。


「だけど箱根に出場するような大学の陸上部は、いつも注目してもらえるし、ファンまでいるんですよ。夢のようです。脱水症状になったり、襷が切れたり、もちろん見られてうれしいものではありませんが、それはただの結果。あんなに注目されて、応援してもらって走れる場所なんて他にないんです。興行としての側面があることも、みんなわかってます。だから、観て楽しんで応援してくれれば、これほどうれしいことはありません」



 だいぶ落ち着いた脚でコンビニを出ると、ひんやりとした風がゆるくウェーブした遅れ毛を散らした。軽く撫で付けるようにして耳にかけながら、お酒のせいではなく、コーヒーのせいでもなく、高くなっている体温を感じていた。


「廣瀬さんはどうしてうちの会社に?」


 廣瀬さんは卒業後マルフジ食品に就職して、陸上競技部で活動していたそうだ。フルマラソンでオリンピックを目指したらしい。それがかんたんじゃないことはわかるけど、そんな大きな会社に就職したのに、やめちゃうなんてもったいないと思う。


「所属している陸上部が廃部になったんです」


 私は相当歪んだ表情をしていたのだろう。安心させるように微笑んで「よくあることです」と言う。競技を続けるなら別の陸上部に、辞めるなら社員に。でもケガから復帰できずにいた廣瀬さんは、他の陸上部にも移れなくて、引退を余儀なくされた。


「だったら、マルフジ食品の社員に?」

「はい。でも、これは会社の雰囲気によるのですが、あの会社はあまり実業団に対して好意的ではありませんでした。当然ですよね。時間になったら部活に行くから大事な仕事は任せられないし、何年経ってもできないことばかりだし。かと言って競技で成果を出すわけでもなく。それで給料はしっかりもらうんですから」


 世の中にはいろんな事情を抱えた人がいるのだから、どんな人でも働きやすい環境が整えられるべきだとは思う。それでも実際、子どもが熱を出した、オリンピックの選考会だ、としょっちゅう休まれると、皺寄せがどこかに来るわけで。不満を感じる人の心まで理屈では抑えられない。


「本社から系列会社の倉庫に移って、たまたま知り合ったササジマ物流の社長に拾ってもらいました。年齢の割に仕事ができないのは変わりませんが、しがらみがない分、気は楽です」


 白い吐息が、夜空に溶けていく。新月なのか、方角のせいなのか、見上げた空に月はなくて、街の灯りに抗った星だけがぽつりぽつりと転がっていた。


「廣瀬さんは、不公平な世の中だなあ、って思いませんか? もしその才能が陸上じゃなくて野球とかサッカーだったら、女の子にもモテて、年俸だってもっともらえたのに」


 さみしそうに笑った廣瀬さんは、スーツには不似合いな自身のスニーカーに目線を落とす。


「でも、結局陸上が好きなので」


 いつの間にか私もブーツの爪先を見ていた。その顔を廣瀬さんは覗き込む。


「ほらほら、そんな深刻に考えなくていいんですって」

「でも……」


 何かが痛かった。選手の境遇に同情したのでもなく、自分でも説明し切れない、何か。


「男なんて単純だから、西永さんが応援してくれたら、それだけで気分良くなっちゃうものですよ」

「そうですか?」

「はい。走ってるとき、沿道から下の名前で呼んでもらえたら、有頂天になります」

「じゃあ、『廣瀬くーん!』って呼ばれました?」

「はい」


 はあっと地面に落とされた息は、結構量が多かった。


「よく響くバリトンボイスでしたけどね」



 タクシーが赤信号で停まっているとき、メーターの値段が上がったのを見て思い出す。


「廣瀬さんも、配車担当の待機料欲しいって思います?」

「そうですね」


 廣瀬さんがあっさりと言うので、私もうなずいた。


「手当てがつくなら、ストレスも減りますもんね」


 ただ待つだけでお金がもらえるなら、待機を歓迎する人もいそうだ。


「でも、俺は、」


 小首をかしげて、へへっと笑う。


「かわいい女の子が『お疲れ様です』ってお茶の一杯でも淹れてくれたら、満足しちゃうかな」

「セークーハーラー」

「えー、男なんてそんなものでしょ?」


 チラチラ動くライトの流れに目を向けると、窓ガラスには不機嫌そうな私の顔がくっきりと映っていた。しかし、廣瀬さんは気づかずに続ける。


「対価によってストレスがなくなるかというと、必ずしもそうとは言えないと思うんです。それよりは西永さんたちの電話の方が癒されます」

「え! 嫌じゃないですか? 私たちからの内線。面倒なこと多いから」


 下柳ほどじゃなくても、内線で不機嫌な態度を取る人はいる。こちらも仕事だから仕方ないけど、感情ってそういうものじゃない。


「いいえ。女の人と話す機会なんて、あれくらいしかないし。むしろ西永さんなんて、申し訳なさそうに電話くださるので悪いなって思ってます」

「だって、いつも大変そうで」


 住宅街に入り、外の明かりが減った車内はほとんど真っ暗になった。廣瀬さんの表情は見えず、いつもの“牧さん”とも違う、凛とした声がした。


「依頼を受けるにしても断るにしても、とりあえずは丸ごと預ります。全部俺の仕事ですから」

「クレームも?」

「はい。配車に関してなら、怒られることも俺の仕事です。経験しないと仕事はできるようにならないので」


 何でも引き受けて失敗した、それは廣瀬さんなりの仕事の仕方だったのかもしれない。何年もひとつの目標を追い、嫉妬や挫折の渦巻く環境を越えるには、失敗を恐れない強靭なメンタルが必要だっただろう。

 酔いは冷めてきたはずなのに、速くなる一方の心臓を抱えて、私は改めて“牧さん”の強さを含んだ声を聞いていた。








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