4区 プリティ・マン
検診センターの駐車場は混むことで有名なので、私はバスで来たのだけど、廣瀬さんは果敢にも車で来ていたらしい。
「こうなってみると無理してよかったです」
やはり駐車スペースは満車だったらしく、建物脇の通りにみっしり縦列駐車する形で車が並んでいた。
「動かしますから、離れて待っていてください」
私ならひと目で諦めたであろう高度な駐車テクニックだ。やり方を思い出そうにも、教習所の教官に泣きつく自分の姿しか浮かんでこない。
シルバーの、駐車場に並んでいたら見分けがつかないありふれた車を、廣瀬さんは難なく動かした。
「お邪魔します」
と、助手席のドアを開けて、一応の確認をする。
「あの、後ろに乗った方がいいですか?」
廣瀬さんは不思議そうな顔をした。
「お好きな方で構いませんけど、前の方が話しやすいです」
「彼女さん、嫌がりません?」
彼女なんていないと思うけど、確認するのが礼儀のひとつ。
「彼女がいて他の女性に声をかけるほど、不誠実じゃありません」
「ですよね」
今度こそ乗り込むと、車はするする走り出した。
可もなく不可もない車内だった。不清潔ではないけれど、これと言って気を使ってる風でもない。シガーライターソケットからは携帯充電器のコードが伸びていて、助手席と運転席の間には小さなゴミ箱とつぶれたボックスティッシュがあるくらいだ。
「運転中落ちてきたとき、うっかり踏んじゃって」
ボックスティッシュを見ていた私に、廣瀬さんはえへへ、と笑った。
「シルバーって人気カラーだけど、その分見分けつきにくくないですか?」
私はよく自分の車を見失う。基本的に車には興味がないので車種なんてわからないし、なんなら車輪が四つついていればみんな同じに見えるほどだ(あ、さすがに軽トラやバスくらいならわかりますよ)。だから車の色は、黒と白とシルバーを避け、今はコーヒーブラウンを選んだのに、似たような色の車があると100%惑わされる始末。シルバーの車なんて買った日には、ショッピングモールの駐車場を一生さ迷って生涯を終えるに決まってる。
「埃って灰色だと思うんですよね」
廣瀬さんは正面を向いたまま言う。
「白でも黒でも汚れが目立つ。それって、きっと埃が灰色だからなんですよ。だったらグレーとかシルバーなら目立たないかなって」
「それはそうかもしれませんね」
非常に合理的な考え方だ。マメに洗車するという思考のない私は、深く納得した。その間にも、車は着実に住宅街の細いカーブを曲がっていく。
「旅行はともかく、燦々太郎はいつでも行けたんじゃないですか?」
人気ラーメン店の燦々太郎は、職場の最寄り駅裏手の路地にある。いつもは車通勤だけど、たまに駅を利用するとき近くを通るとい~い匂いがするのだ。
「入りにくいんですよね、あそこ。こだわりの店っぽくて」
店構えはシンプル……というより、小汚ないほど。簡素なサッシタイプの引戸に、色褪せた赤い暖簾がかかっているだけの店だ。すぐ近くにはパチンコ屋があり、そこのお客さんが常連として通う流れができている。引戸を開けながら「大ひとつ!」と言っている人を見かけたこともあって、一見さんお断り感があるのだ。
「食べるの遅いと怒られそうだし、女ひとりで入るにはハードル高めですよ。友達誘ってランチする雰囲気でもないし」
「確かに愛想はないですけど、怒ったりはしませんよ」
件のパチンコ店に車を停めて、数十メートル歩けば燦々太郎だ。
「『完全焼干し中華』ってどういう意味なんでしょうね」
「焼干し出汁をうたっていても、実際にはいろんな魚介出汁が混ざってることも多いんだそうです。燦々太郎は出汁は焼干しのみ、味付けも自家製の醤油のみ、というこだわりだそうですよ」
「そんなにこだわってるなら、食べ方変だと怒りません?」
「むしろラーメン作りに集中してて、お客さんのことなんて見てないと思います」
燦々太郎のサッシはガタついていて完全には閉まり切らず、そこから出汁と醤油の匂いがダダ漏れていた。
「ふああああ、いいにおーい!」
肺活量に問題があるので思いっきり吸い込むのにも不自由し、スーハースーハー少しずつ味わう。
「魚臭くて苦手だと言う人もいるけど、大丈夫そうですね」
笑いながら廣瀬さんがその匂いの中に入っていく。店内はほぼ満席で、カウンターの端しか残っていない。
「カウンターでもいいですか?」
空いてる席にどうぞー、と丸投げした店員さんに代わり、廣瀬さんが気遣ってくれた。
「何でも大丈夫です」
カウンター前でコートを脱ぎ、イスの背もたれに掛けながら店内を見回した。廣瀬さんが言っていたように、壁にサイズとトッピングの値段が書いているだけで、テーブルにはメニューもない。お水もセルフサービスで、注文も直接厨房に呼び掛けるシステムらしい。
「中ひとつと大ひとつ!」
廣瀬さんが声をかけると、中のおじさんがチラッとこちらを見て「はーい」と返事をした。
「やっぱり、ひとりで来なくてよかったです」
声をひそめて言うと、廣瀬さんはふっと笑みを深めた。
「ご案内できて、俺もよかったです」
昼休みの時間帯は終わっているのに、お客さんはまだふらりと入ってくる。それでも回転がいいせいか、うまく席が入れ替わっていく。
「廣瀬さんはよく来るんですか?」
「たまに。ひとりでも来るし、職場の人と来ることもあります」
「この回転の良さなら、お昼休みでもギリギリ来られそうですもんね」
「お待たせしましたー」
さすがの速さでラーメンはやってきた。チャーシュー、メンマ、ナルト、ねぎ、絵に描いたような理想の中華そば。
「あ、おいしい」
レンゲでひと口スープを飲んだら、吐いた息とともに自然と言っていた。過不足なく、いいところにちゃんと落ち着いている味だ。シンプルゆえに空っぽの胃にも負担が少なく、飽きることなく何度でも通えそう。
しばらく無言で食べていたのだけど、視線を感じて隣を見ると、廣瀬さんが興味深げに私を見ていた。
「変わった食べ方ですね」
私はいつもレンゲにひと口分の麺を乗せ、少しスープを入れてミニラーメンを作り、そのまま口に入れるように食べている。
「ラーメン、うまく吸えないので」
「そういえば、そんなこと言ってましたね」
チマチマとミニラーメンを作り続ける私に廣瀬さんは、
「ちょっと吸ってみてください」
と依頼してきた。
「本当に吸えないですよ?」
「はい。興味あって」
仕方なく箸で麺を持ち上げ、直接口に運ぶ。
ズーーーーッ!
思い切り吸ってみたけれど、ラーメンはほんの少し上にズレた程度だ。
ズーーーーッ!
ズーーーーッ!
ズーーーーーーーー……………(酸欠)
音ばかりで麺はまったく動かないので、諦めて箸で詰め込むように口に収めた。長く外気に触れていたせいか、かなり冷めている。
「はあーー、クラクラして味なんてわかんない」
「すみません。本当にできないんですね」
しおらしく謝罪しながらも、肩が小刻みに震えていた。
「そんなに笑うことないでしょう」
「すみません。つい」
謝りながらも笑うことは止めず、震えながらズズズッとラーメンをすすっている。たらたら遅い私と比べて、廣瀬さんの丼は底が見え始めていた。
「廣瀬さんってストレス溜まらないんですか?」
間の悪さに加え、今も遅い食事に付き合わされているのに、おっとりした彼を見ていてそう思った。
「ストレスですか?」
「私とラーメン食べるの、ストレスが溜まるらしいんです」
陽菜を筆頭に、元彼や友人から四票ほど投票いただいている。
「おもしろいだけですけどねえ」
「じゃあ仕事は? 配車担当って荷主と乗務員さんとの板挟みって聞くし。仕事回しておいてなんですけど、『これ、受けたくないなー』って内容も多いので」
すでに食べ終えたらしく、お水をひと口飲んで、
「ああ、まあ、そうですね」
と、のんびり肯定する。
「いろいろ言われるんですけど、俺、都合の悪い話は聞き流すので」
「ええっ!」
問題発言に反応すると、廣瀬さんも少し慌てて訂正を入れる。
「もちろん仕事内容はちゃんと聞いてますし、安易に引き受けたりしないですよ。でも、乗務員さんのワガママって、話しを聞くだけで矛を収めてくれるケースが多いんです」
「聞いてなくても?」
「タイミングよく相づちを打つのが、昔から得意なんです」
にっこりと笑われても褒めにくい特技だ。
「さんざん『嫌だ』ってゴネられて、それでも黙って聞いていたら、『仕方ないからやってやるよ』って。今は配車もシステム化している会社もありますけど、この世界はまだまだアナログというか、人間関係第一なので、苦労することもある代わりに、助けられることもありますよ」
麺を噛みながら、深くうなずいた。今の今「話を聞き流す」と言われても、つい話したくなってしまう雰囲気のある人なのだ。吐き出せた満足感があれば、有益な返答が返ってこなくても気にならないかもしれない。
「カウンセラーとか向いてそうですね」
話を聞き流す能力は、有効な職業もありそうだ。
「ああ、そうかもしれません」
「コールセンターも」
「うん」
「あとは……」
「西永さん、会社から俺を追い出そうとしてます?」
困ったように廣瀬さんは言う。
「まさか! いてくれないと困ります……っていうほど接点ないけど、いてくれても構いませんよ」
「……ありがとうございます」
複雑な笑顔で、廣瀬さんは頭を掻いていた。
一万円札しかないので、と廣瀬さんがふたり分払ってくれて、だったらアイスクリームは私がご馳走します、という流れでアイスクリームショップのあるショッピングモールにやってきた。
エレベーターの扉はシルバーで、並んでいる私と廣瀬さんが映って見える。少年漫画の主人公って、シルエットにしても誰だかすぐわかるくらい特徴的に描くらしいのだけど、それでいうと廣瀬さんはシルエットにしたら、少なくとも500万人は同じシルエットになりそうだ。通行人Cの才能がある。
エレベーターの前まで来たのに、廣瀬さんは少し離れて立つ。だから私は上に向かう「△」のボタンを押そうとした。アイスクリームショップは三階にあるからだ。だけど、
「ちょっとだけ待ってください」
と私を手招きした。不思議に思って廣瀬さんの隣に立つのと、
「あ!」
とかわいらしい声がしたのは同時。小さな女の子が走ってきて、急いで「△」ボタンを押した。
わざと押させてあげたの?
そんな意味を込めて見上げると、
「こっちに向かってるのが見えたから、もしかして、と思って」
と内緒話をするように私の耳元で言った。ずいぶん秋が深まって、外気で冷えた耳に、その声は熱く感じられる。
「よく気付きましたね」
「俺も小さい頃は何でも押したくて、それに命掛けてたので」
「気持ちはわかります」
「でもだいたい先に押されちゃうんですよねえ」
幼い頃から廣瀬さんは廣瀬さんだったようだ。微笑ましい話に笑い合いながら、到着したエレベーターに乗り込もうとすると、
「うわ!」
廣瀬さんが扉に挟まれた。扉は廣瀬さんを噛んだ後、「ああ、人がいたのね」と言うようにのっそり開いていく。二の腕をさする廣瀬さんに、ものすごく慌ててお母さんが頭を下げた。
「すみません! すみません! ケガはありませんか? ほら有華、『ごめんなさい』でしょ!」
ボタンを押したい盛りの少女は、乗り込んですかさず『閉』ボタンを押したらしい。消え入りそうな声で「……ごめんなさい」という少女に「大丈夫だよー」と笑い掛ける廣瀬さんの隣で、私は爆笑をなんとか噛み殺していた。
「笑い過ぎですよ」
噛み殺せてなかった。もう無理!
「すみません。でも、でも、あはははは!」
さすが、廣瀬さん!
アイスクリームショップを遠目から眺める位置で脚を止めた私に、少し前を歩いていた廣瀬さんが「どうかしましたか?」と振り返った。
「今日、久しぶりに体脂肪率を計ったんですよね」
「ああ、なるほど」
察した廣瀬さんはニヤニヤする口元を手で覆った。その彼を頭のてっぺんから爪先まで一通り目測する。
「私、絶対廣瀬さんの10倍体脂肪率あります!」
頭を抱える私に、冷静な声が降る。
「10倍だとさすがに100%越えますよ。せいぜい2倍。3倍はないです」
「そんなリアリティある数字言わないでください! デリケートなところなんですから、表現はくれぐれも牛革で包むくらいの言い回しで!」
目を背けている私のすぐ目の前に、廣瀬さんが立った。
「俺たち、今日がんばりましたよね?」
「……はい」
「死の淵まで覗き見ました」
「はい」
「その打ち上げでしょ?」
促すように、ポンッと私の背中を押した。まだ少し遠いけれど、ケースの中に並んだ色とりどりのアイスクリームが見える。
「今日このアイスクリームを食べなかったら、またひとつ人生に後悔を抱えることになると思いませんか?」
目だけで廣瀬さんを見上げると、小首をかしげて、
「えへへ、誘惑」
などと言う。
おい、おじさん! かわいいことしないでよ!
世間で三十二歳は十分若いけど、例えば小さな子に「おじさん」って言われたら否定できない年齢だ。自分のことを「お兄ちゃんはね……」なんて言おうものなら、「自分で“お兄ちゃん”なんて図々しくない?」と言われる程度には年を重ねている。それなのにそのおじさんをほんの少し……いやなかなか……実を言うと、結構かわいいと思ってしまった。この誘惑になら誘われてやってもいいか、と思うくらいには。
「よーし! どれにしようかなー?」
これだけたくさん種類があるなら、迷うことも楽しみのうちだし、やはりその辺では食べられないオリジナルの味を選ぶべきだと思うのだ。断固!
「バニラ……なぜバニラ……」
パッションフルーツ・エレクトリックなる、パッションフルーツをベースにあれやこれや混ぜ込んだアイスを食べながら、ひたすらに白い廣瀬さんのカップに不満を向けた。
「おいしいですよ?」
「それはそうでしょうけど、あれだけあってバニラですか? コンビニでも売ってるのに?」
廣瀬さんは少し溶けた外側を丁寧にすくって口に運んでいる。
「ちゃんと選びましたよ。いろいろ見て迷っちゃって、そうしたら無性にバニラが食べたくなったんですよね」
「なーんか、廣瀬さんって感じですね」
「褒められてないことはわかりました」
パッションフルーツ・エレクトリックは甘味の中にチカチカと強弱のついた酸味があって、とてもおいしい。初めて食べる味だった。貧乏性の私としては、これとバニラが同じ値段だということが納得できない。廣瀬さんも絶対びっくりすると思うんだけどなあ。
「廣瀬さん、はい。あーーーん」
ショッキングピンクと紫色の毒々しいアイスクリームをスプーンに乗せて、目の前に差し出すと、
「ええ! わっ! ああああ」
仰け反って自分のスプーンを取り落とした。
「すみません! 大丈夫ですか?」
スプーンは廣瀬さんのシャツを経由してから床に落ちた。そのせいでシャツにバニラアイスがついている。廣瀬さんは私から受け取ったティッシュでちょっと拭いて、
「全然目立たないし、すぐ乾きますから」
と何でもないように笑った。
「本当にすみません。ついいたずら心が。新しいスプーンもらってきますね」
もらったスプーンを渡しながら見ると、やはり濡れたような染みが残っていた。
「いいシャツなのに、もったいない」
春の空のようなサックスのコットンシャツだと思っていたけれど、よく見ると白、ブルー、グレーのマルチストライプがさりげなく入っていて、意外に凝ったデザインだった。素材もしっかりしていて、ラインもきれい。ごくごくカジュアルなのにくたっと見えないのは、おそらく物がいいのだろう。
「何度洗ってもくたびれないので、また洗いますから」
私はファッションセンスを褒めたのに、廣瀬さんが重視しているのは機能性らしい。
ちょっとちょっと、廣瀬さーーーん!
すごいよ。ある意味すごいよ、廣瀬さん。どんなものでも廣瀬さんを通すと、平たーく平凡の範疇にならされる気がする。もしこの人がコンビニで万引きしても、店員さんの印象には残らないんじゃないかな。でもきっと生来の間の悪さでお巡りさんにぶつかって、結局捕まるんだろうな。
そんな私の妄想も知らず、万引き犯どころか、ついお賽銭を置いて行きたくなるような害のなさで、廣瀬さんはふたたびバニラアイスを食べ始めた。
「廣瀬さんならバニラアイスで正解かも。こっちだったら、悲惨なことになってました」
「そうですね。着色料は落ちにくいので。西永さんも気をつけて」
とうなずく。
「お母さんみたいなこと言うんですね。私は大丈夫ですよ」
いたずらなんて仕掛けて申し訳ない気持ちはあるけれど、予想より楽しい結果となった。廣瀬さんにも食べさせたいと思ったのは事実で、でも食べないだろうと思ってやったことだ。それでももし、さっきのアイスクリームを本当に食べていたら……それはそれで「ほらね! おいしいでしょう?」と笑い合えたような気がする。
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