3区 素晴らしき哉、人間ドック!

 痛くもない腹を探られる。痛くないって言ってるのに探られる。痛くないはずなのに、いたたた、胃が痛い……。


「おはようございます。問診票と検尿、検便はこちらでお預かりします」


 人間ドックにやってまいりました。人生初の人間ドックです。

 うちの会社では、年齢が偶数になる年に人間ドックの助成がされることになっているものの、あくまで希望制。毎年やっている健康診断と違ってタダではないため、受けない人も多い。

 実際私も、まだ若いしぃ~、二万円も自腹なんて高いしぃ~、と案内を見もしないできたのだが、妹の陽菜から強烈に勧められたのだ。


『お姉ちゃん、自分はひとりで生きてるって思ってるでしょ?(決めつけ) でもね、野良猫も野良犬も野良ピロリも勝手に棲み着くものなんだよ。私だってね、まさか自分が長年胃の中にペットを飼ってるなんて思ってなかったよ。居心地のよい部屋と食事を与えてやったのに、まさか飼いピロリに胃を噛まれるなんてね! うちのアパートはペット禁止なんだよーーーっ!』


 要するに胃炎になったらしい。それで胃カメラで検査してピロリ菌が見つかったんだそうだ。出産より苦しい、と経験もないのに熱弁をふるっていた。


『だって出産は苦しみのあとに喜びがあるけど、胃炎は苦しみに次ぐ苦しみしかないじゃない!』


 同じ環境で育った私も絶対同じペットを飼ってるはずだ、と陽菜は強く主張する。そう言われると、なんだか胃がもたれる気も、しなくもなくもない……。

 というわけで、今年度の人間ドックに申し込んだのだった。

 自分のモノとは言えなんとなく出すのは恥ずかしいアレの入った容器は、問診票の入った封筒に入れてそのまま受付に出す。私の小さな恥じらいなど、使い捨てガーゼ感覚で捨て去り、受付の女性は検便と検尿の容器をささっと後ろのケースに収めた。


「こちらは案内書ですのでお返し致します。51番でお呼びしますので、あちらの更衣室で着替えましたあと、お掛けになってお待ちください」


 振り返ると受付前のソファーには、みんなお揃いのグレーの服を着た人ばかりが座っている。女性は袖部分がクリーム色、男性はうぐいす色。更衣室の中の棚にはサイズごとに分けられたその服があり、私もパンツ一枚の上からそれを着た。

 鏡に映る姿は、ちょっとそっとオシャレ感を出したところで、誤魔化しようのない絶望的なグレーだ。前みごろは暖簾を合わせたように、ペラリとめくれる仕組みになっていて、なるほど脱がなくても検査しやすい機能になっている。そのため、普通の服よりもスースー空気が通る。

 携帯もお財布もすべてロッカーに預けてしまったのでできることもなく、言われた通りソファーに座ってテレビを見ると、朝の情報番組で人気業務スーパーの上手な利用方法を紹介していた。たくさん積み上げられたダンボール箱は、スーパーというより倉庫そのものだ。あのデータの打ち込み、やりたくなーい。


「おはようございます」


 隣に座っていた男性が、読んでいた新聞をバサリと下ろして声を掛けてきた。


 …………誰?


 見たことはある。……気がする。多分。きっと。おそらく。あ、この感じ、もしかして、


「…………廣瀬、さん?」

「西永さんも今日人間ドックなんですね」


 向けられた笑顔はふわわんとしていて、頭の中で廣瀬認証がようやく一致するのを感じた。廣瀬さんに関しては、服が違うだけで認証に自信が持てない。


「面倒臭くて延び延びにしてたんですけど、本格的な年末前に終わらせてほしいって課長に言われました」

「俺もです」


 助成の有効期間は年内。しかし、頭が蒸発するほど忙しい年末に休みを取るのは厳しい。課長の毛根のためにも素直に従った次第だ。


「なんか緊張しますね」


 バクバクいう胸元に手をあてると、妙に心もとない。分厚い生地で透けることはないけれど、この服一枚の下は素肌なのだと思い出し、さらに動悸が激しくなる。

 そういえば“吊り橋効果”って聞いたことがある。吊り橋を一緒に渡ると、恐怖感のドキドキを恋愛のドキドキと間違って、恋に落ちる可能性があるとかないとか。ということは、一緒に人間ドックを受けたら、私は廣瀬さんを好きになったりする?…………いや、ないな。

 締め付けられるような胸を抱えて覗き見た廣瀬さんは、ドキドキ感とは無縁の顔をしている。


「西永さんは人間ドック初めてですか?」


 そう言うと廣瀬さんは新聞を丁寧に畳み、立ち上がって二歩だけ離れたラックに戻す。座っていたソファーからは1m、2秒ほどしか離れていなかった。それなのに、その絶妙なタイミングで、すーっと歩いてきたおじいちゃんが、自然な態度で廣瀬さんの座っていた場所に座った。


 ………あ。


 廣瀬さんは元の場所に座ろうとして、泰然自若としたおじいちゃんを見て苦笑い。離れた後ろのソファーに移動して行った。


 もう、廣瀬さーーーん!


 何の義理もないのだけど、まだ会話の途中だったという居心地の悪さもあり、毒にも薬にもならない廣瀬さんでも(失礼)話し相手がいるだけマシだという気持ちもあって、私も廣瀬さんの隣に移動した。ちょっと驚いた顔の廣瀬さんに、そのまま会話の続きを投げ掛ける。


「お恥ずかしながら、二十八歳にして初めてです。廣瀬さんは?」

「俺も三十二歳にして初めての経験です。CTとMRIは受けたことありますけど」

「あれって痛いんですか?」

「痛くはないです。でもMRIは長い時間狭いところに閉じ込められて、大きな音を聞かされるので、なんか変な洗脳されてる気分でした」


 私は深く賛同を表明する。


「病は気から、って言いますけど、ここにいるだけでどんどん具合悪くなりそうですよね。食べてないはずなのに何かを吐きそう」


 廣瀬さんはうーーん、と伸びをした。


「俺はお腹すきました。終わったら何食べようかって考えるだけが楽しみです」

「何食べるんですか?」

「何だろう? 麺類がいいかな。ラーメンとか。燦々太郎の完全焼干し中華にしようかな」

「あ、私そのラーメン気になってるんです」

「48番の方ー!」


 かなり後ろの方に座っているため、看護師さんの声も聞き取りづらい。それでも、はい、と返事して廣瀬さんは立ち、軽く会釈して別室へと入って行った。

 ラーメンか……空っぽの胃には負担が大きそうだ。私は何食べよう。早く終わらないかなー。


「51番の方ー!」

「はーい」



 呼ばれた先で身長、体重、血圧を計った。次は採血、心電図、肺活量検査と順調に進んでいく。


「はい! 吸ってー吸ってー吸ってー」


 もう吸えませーーーん! ぶは!


「止めて。一気に吐く!」


 ふううううううううう!!


「まだまだ優しすぎます。もう一回! 吸ってー吸ってー吸ってー」


 無理ーーーーっ! ぶは!


「はい、思いっ切り吐く!」


 ふうううううううううーーーー!


「もっと! もっと! もっと!」


 ぅぅぅぅぅぅぅ…………(酸欠)


「……はーい、合格です。お疲れ様でした」


 肺活量検査でフラッフラになってソファーに戻ると、


「お疲れ様でした」


 とにこやかに廣瀬さんが笑っていた。


「お疲れ様です……。肺活量検査って、五歳くらい老けますね」

「そんなことないですよ」


 ケロリと笑うので、廣瀬さんは肺活量に余裕がある人なのだろう。


「魂まで吐き出してようやく合格です」

「あははは!」

「私、麺類もすすれないんですよ。すぐ酸欠になっちゃって」

「あはは! そんな人、初めて聞きました」


 他人の不幸を遠慮なく笑って、トイレ行ってきます、とソファーを立った。トイレの手前で人とぶつかりかけ、道を譲ったら集団で検診に来たらしい五~六人に遮られてなかなかたどり着けずにいる。トイレは目の前なのに、このままでは漏らしてしまいかねない。


 おーい、廣瀬さーーーん!


 その背中がようやくトイレの中に消えると、知らず入っていた肩の力が抜けた。なんだか目が離せない人だな。

 手持ち無沙汰になって検査用紙を見ると、なんと身長が1cm伸びていた! いくつになっても人間って成長するものだ。が、ひと枠下に視線をずらすと、体重は3kg増えている。それより何より体脂肪が……


「48番の方ー!」


 我が身の不徳を恥じ、ガックリ落ち込む私の耳に、看護師さんの声が届く。返事がないので、彼女はソファーの間を移動しながらもう一度声を張った。


「48番の方ー!」


 一向に現れない48番に、あれ? 廣瀬さんじゃなかったかな? と思ってトイレの方向を見たけれど、まだ姿はない。看護師さんもそれを確認したようで、ファイルを一枚めくった。


「49番の方ー!」


 あ、飛ばされた、と思った瞬間に、トイレから廣瀬さんが出てくる。


 おーーい、廣瀬さん……


 なんか廣瀬さんって、どことなく間が悪い。

 とりあえず帰って行く看護師さんを捕まえて、


「さっき飛ばされた48番の人、トイレから帰ってきてます」


 と言っておいた。


「廣瀬さん」


 何も知らない廣瀬さんはスッキリした顔で、はい? と言う。


「さっき呼ばれてましたよ」

「あ、そうなんですね」

「この次に呼ぶそうです」

「わざわざ確認してくれたんですか? ありがとうございます」


 その笑顔に深い深いため息が出た。ああ、このタイミングで肺活量検査してもらえば一発で合格できたのに。


「廣瀬さんって、間が悪いですよね」

「そうでしょうか?」


 本人はキョトンとしている。


「他人のせいで怒られたりしてそうです」

「仕事していればよくあることでしょう?」

「クレームの電話ばかり受けちゃったり」

「電話のほとんどは厄介事ですから」

「レジで横入りされたり?」

「そういうこともありますね」

「廣瀬さーーーん!」


 もどかしい気持ちを吐き出したかったけれど、何と言ったらいいのかわからなくてただ名前を呼んだ。


「なんでしょう?」


 相変わらずのほほんとした廣瀬さんは、特に苦痛を感じていないように見えるけれど、私は気になるのだ。


「廣瀬さんって、謙虚過ぎるというか、前に出ないというか、いつも一歩引いてませんか?」

「そんなことないです。周りが一歩出てるだけですよ」

「同じです。それだと損ばっかりしちゃいますよ?」


 蛍光灯の無機質なはずの光が、廣瀬さんの髪にきらきらと降り注いでいた。


「ありがとうございます」


 こちらの居心地が悪くなるくらいに、にっこりと笑う。


「自分でも要領悪いなって自覚はあるんです。でも、人生ってそういうものだと思ってるので。映画やドラマみたいに、都合よくはいかないですよね」


 映画やドラマの主人公に憧れ、夢を見ていたのはいつまでだっただろう? 「そんなことないですよ」と見え透いた慰めも言えない程度に、私たちは年を重ねている。だからこそ、言えることもある。


「物語じゃない方がいいですよ! もし映画なら廣瀬さんなんて通行人Cだし、私もどうせカフェの客Bです。はっきり言って絶望的です。でも物語じゃなければ、私たちにも幸運が降ってくる希望が、わずかながら残されてると思いませんか?」


 廣瀬さんは口元を手で覆ったけれど、隠し切れない爆笑が漏れていた。


「“通行人C”かあ。“通行人A”ですらないんですね、俺」

「“A”なんて図々しい」

「さりげなく自分は“B”なのに?」

「そこ、指摘しますか? 細かい人だな」

「でも、ありがとうございます。何かいいことがあるような気がしてきました」


 そうは言っても、納得し切れない様子で、


「でも、俺は結構運がいい方だと思うんですけどねえ」


 と言う。


「廣瀬さんで“運がいい”なら、この世から戦争なんてとっくになくなってますよ」


 あはは、と通行人Cは笑う。そもそもの地顔がこれなんじゃないかと思うくらい、よく笑う人だ。

 だったら、この人が本当幸せなときは、どんな顔をするのだろうかと、ちょっとだけ興味が湧いた。


 レントゲン、視力&聴覚検査を挟んで、腹部と胸のエコー検査を終えた。エコー検査ではジェルをベッタベタに塗られ、タオルで拭いたもののいまいちスッキリしない。そのまま胃カメラの前処置室に入ると、ソファーに廣瀬さんが座っていた。


「お疲れ様です」


 私も気持ち悪さから眉をしかめて言ったけれど、廣瀬さんも笑おうとして失敗した顔でうなずくだけだった。


「あ、もしかして麻酔ですか?」


 その質問にも歪んだ笑顔を縦に振る。

 胃カメラ検査は麻酔をするらしい。最初に説明を受け、ゼリータイプの麻酔か氷タイプの麻酔か選ぶように言われて、そもそも「麻酔するほどヤバい検査なのか!」と衝撃を受けた。初心者は氷タイプの方がかんたんだと言うので、私もそっちを選んだ。胃カメラに関しては右も左もわからない初心者なので、何でも看護師さんの言いなりだ。「胃カメラは逆立ちして受けていただきます」と言われても、何の抵抗もできない。

 凍らせた麻酔ゼリーを口に含み、溶かしながら少しずつ服用するそうで、廣瀬さんもその麻酔服用中みたいだった。


「廣瀬さん、胃カメラはやったことあります?」


 今度は首を横に振る。


「私も初めてなんですけど、かなり辛いって聞くじゃないですか。怖いですよね」


 廣瀬さんはうなずいてから、口を手で抑え、


「バリウムは飲んだことありますけど、あれはあれで嫌ですよね」


 と、話しにくそうにゆっくり言う。麻酔が効いてきているらしい。


「その麻酔、おいしいですか?」


 顔をしかめて、こくんと飲み下し、やはり話しにくそうに答える。


「おいしくはないけど、柑橘っぽい味はついてます。それでも少し苦いです」

「51番の方ー!」


 呼ばれてソファーを立つ。


「頑張ってください」


 と歪んだ笑顔で送り出してくれる廣瀬さんに、ひきつった顔でうなずいて、重い脚をカーテンの向こう側に向けた。

 しょっぱい感じの薬品を飲まされ、お尻に注射されて、柑橘っぽい氷を口に入れる。確かにおいしくはないけど、思ったより苦痛のない味だ。戻ったソファーに廣瀬さんはおらず、私は麻酔がちゃんと喉に落ちるように、少し上を見上げてぼんやり座っていた。

 始まる前はあんなにドキドキしていたのに、思ったより落ち着いて進んでいる。廣瀬さんの、あのぼやーっとした顔を見ていると、つられてぼやーっとしてしまうみたいだ。もし一緒だったのがダビゾウさんだったら、あの目力で緊張感が増したんじゃないかな。

 氷が溶けはじめると、聞いていたとおり少し苦かった。それでもそんなに苦痛には感じない。ただ、なかなか溶けてくれないだけで……。

 喉の奥がぼわーっとしてくるにつれ、麻酔の味が気持ち悪くなってきた。麻酔を拒否する喉に、ねじ込むように飲み下すと、胃の奥からせり上がった気持ち悪さで、うえっ、となってしまった。


 もうやだ! もう帰りたーい!


 すでに涙目になっていると、ドアが開いて廣瀬さんが出てきた。赤い目をして、ぐったり疲れている。不安げに見上げる私に、それでも笑顔を向けてくれたけれど、さすがに引きつっていた。


「……大丈夫です。死ぬことはありませんから」


 なんて、かすれた声で言う。


 ええええーーーっ! 死を引き合いに出すような検査なのーーーーっ!?


「51番の方ー、どうぞー」


 涙の量を増やす私を、廣瀬さんは最後まで見送ってくれた。


 すべての検査が終了して更衣室に向かうと、ちょうど出てきた廣瀬さんと会った。


「……地獄でしたね」


 表情の抜け落ちた顔で話し掛けると、廣瀬さんも真剣な顔でうなずいた。


「『死ぬ瞬間ってこんな感じなのかな』って思ってました」

「私は走馬灯を見る余裕もなかったです」


 ひどい嘔吐感に苦しみながらカメラを入れられ、空気や水を送り込まれてどんどん気持ち悪くなっていく。断末魔の叫びを上げることも叶わず、ひたすら涙とよだれでタオルを濡らした。


「画面で見ていたら、私の胃に黒くて丸いシミが見えて、『あ、私胃ガンだったんだ』って絶望したんです」


 いつもおだやかな廣瀬さんの顔が、一段と険しくなった。


「もっと生きたかった。まだ沖縄にも北海道にも行ったことがないのに。ホールのアイスクリームケーキも食べたことないし、燦々太郎ラーメンの完全焼干し中華も食べてない。買ったのにもったいなくて着てない夏物のワンピースがあるけど、来年の夏まで生きられるのかな? 恋だって、結婚だってしたかったのに、職場と自宅の往復だけで人生終えるんだな、って」


 廣瀬さんは何も言わず、苦しそうな顔で私を見下ろしていた。その彼に、いまだ涙の余韻の残る目を向ける。


「黒いシミに見えたけど、ただの腸の入り口でした。胃はキレイなもので、ピロリ菌もいないって」

「なーんだ。びっくりした」


 廣瀬さんは満面の笑みを浮かべ、くたっと身体の力を抜いた。


「だけど、我ながら後悔ばかりの人生だな、って。見つめ直すきっかけにはなりました」


 死に直面したとき(してなかったけど)、今のままでは後悔しか残らないと思った。旅行に行って、おいしいものも食べて、恋して結婚しよう。


「打ち上げでも行きますか?」


 廣瀬さんは黒くてガッシリした時計に視線を落とす。


「今から北海道には行けませんし、夏物のワンピースも難しいけど、燦々太郎ラーメンなら。それと、ホールは無理でもカップのアイスクリームくらいは可能です」


 別に急かされたわけでもないのに、私は更衣室に駆け込んだ。


「着替えてきます!」

「そこのソファーで待ってます」


 そんな声が、扉の向こうから笑い声とともに聞こえた。







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