2区 バック・トゥ・ザ・四十一分前
世の中どんなに技術やシステムが発達していても、現場では常にアナログ作業が伴うものだ。うちの電子レンジも「600Wで3分」という指示に従って冷凍パスタをチンしたのに、熔けた鉄か? ってくらい熱いときと、永久凍土を抱えているときがある。結局こっちサイドで十秒単位の調整が必要になって、「あと……20秒、いや30秒だな」と人間の感覚頼みだ。
わかる、わかるよ。やる気にムラはあるもんね、とそっと電子レンジの肩(角?)を撫でる日々です。
我が社もWMSという倉庫管理システムは導入されていて、入庫から出庫まで検品やピッキング、管理などが非常にやりやすくなっている。ハンディターミナルによって、間違った荷物をピッキングした場合ブザーが鳴って、ミスを防ぐことにも役立っている。が、外部と接点の多い事務方の私たちは、いまだに手作業が多い。
「今日多いな、FAX……」
依頼内容を打ち込むにも、FAXや電話ではコピー&ペーストもできない。印刷が悪い上に達筆過ぎる文字の打ち込みに、15Wしかない私のやる気は今にも消えそうになっている。
つぶれて見えない文字に頭を捻っていると、遅番の社員が続々と出勤してきた。一番アナログなのは、社内のシステムかもしれない。社員、アルバイト、合わせるとかなりの数になるのに、いまだにタイムカード! しかも機械にカードを通して時間をジジジと印刷するタイプなのだ。月末の勤怠管理は面倒臭いだろうと心配になるけど、それは総務の仕事なので、まあいいか、と思う。きっと上層部も、まあいいか、と思ってるんだろう。
一番遅い出勤は13:30。そこまであと10分を切って、タイムカード周辺は慌ただしくなっている。その中でひときわ大きな声がした。
「廣瀬くん!」
タイムカードに向かって、どことなくふわふわ歩く“廣瀬くん”を、事務所に飛び込んできた男性が呼び止めた。
「あ、下柳さん。おはようございます」
下柳? と名前に反応して注目すると、背が高く目が細い男性が“廣瀬くん”の挨拶を完全に無視して自分の要求だけ突きつける。
「廣瀬くん、急ぎで二台。手持ちに空きない?」
配車は日々綱渡りらしく、こんな風に頭を抱えている様子もたまに見かける。他人事なので、大変だなあ、なんて横目で見ながら鳴り響く電話を取った。
「お電話ありがとうございます。ササジマ物流第三営業所、西永でございます」
発注依頼だけど、これは明日の分だ。今すぐ車が必要なものでなくてよかったな、と思いつつチラッとふたりに視線を向ける。
「手持ちはいっぱいですが、懇意にしてる運送会社さんの車に心当たりあるので、聞いてみますね」
「時間ないから早く!」
下柳(敬称削除)に引っ張られるように、廣瀬さんは爪先の方向を変える。
おーーい! 廣瀬さーーーん!
電話の声に耳を傾け、データを打ち込みつつも、心の中で廣瀬さんに呼び掛ける。
タイムカード、押してませんよーーーーっ!
私と廣瀬さんは心が繋がっているわけではないので、下柳に引っ張られたまま廣瀬さんは事務所を出ていった。
「━━━━━確かに承りました。ありがとうございます。失礼致します」
電話を切ったときには廣瀬さんの風すら残っていない。時計をみると、あと三分ほどで時間切れだ。廣瀬さんの姿は、まだない。
やはりどうしても読めなかった文字を電話で直接確認して、ふたたび時計を見たらあと三十秒。電話中もずっとドアを見ていたのに、廣瀬さんは戻ってこなかった。
ええーーーっ! 廣瀬さーーーん!
アルバイトでなかったとしても、当然査定には影響する。お給料だってちょっと削られる。事情がある場合、タイムカードの時刻を訂正することも可能だけど、訂正させる気ないな、というくらい煩雑な手続きが必要だった。だから私なんて遅刻寸前のときは、制服への着替えもそこそこに、髪の毛も振り乱してタイムカードを押しているっていうのに。
FAX発注データを打ち込み、何本か電話対応をして、翌日の日付に切り替えた伝票データを入力し始めたとき、ひとりの男性がふらりと事務所に入ってきて、タイムカードの前に立った。おそらく廣瀬さんだろう。14:08。三十八分の遅刻。
横目で様子を伺っていると壁の時計を見上げた彼が、ふうっとひとつため息をついた。首元を手でさすりながら、タイムカードに手を伸ばす。そこまで見て、私はさりげない素振りで立ち上がった。小走りで近づいて、今まさにカードを入れようとしてした挿入口を手で塞ぐ。
「ちょっと、待ってくださいね」
一応辺りを見回すと誰もこちらに注目なんてしていない。それでも身体で隠しながら機械の上蓋をパカッと開けると、その中にある時計を13:27まで戻した。桝井さんから一子相伝(?)で受け継がれている裏技である。こういうのがアナログのいいところ。
「押してください。本当は遅刻してませんよね?」
「いいんですか?」
驚いた顔の彼が動かないので、私は眉を吊り上げる。
「いいわけないじゃないですか。怪しまれる前に早く!」
「あ、すみません!」
ジジジと13:27がカードに印刷される。それを確認して、私はすぐに時刻表示を元に戻した。
「ありがとうございました」
ふわわんと笑った廣瀬さんに、こちらの緊張感も抜けていく。
「なんでここまで来て、タイムカード押し忘れますかねえ」
「あはは! 本当にそうですよね。でもこんな方法があるのかあ」
「内緒にしてくださいね」
「はい。もちろんです」
長居すると怪しまれるので、私はさっさと机に戻った。廣瀬さんが出ていったことも、その後も、記憶にない。
早出だった私は16時には勤務も終え、暮れかけた空に浮かぶ白いお月様を見上げながら、たらたら駐車場に向かって歩いていた。
「お疲れ様ー」
「お疲れ様です」
倉庫のチーフであるタカセさん(背の高い女性。本名不明)とアルバイトのカワイさん(ちっちゃくてかわいい。本名不明)がパタパタ駆け抜けながら挨拶してくれる。
「お疲れ様でーす」
少し離れた背中に向かって、私も声を張った。センターはまだ営業中なので、トラックの行き来も、人々の走る姿も忙しない。
ふっくり太めのお月様に、おでんが食べたいなあ、と食欲をそそられていると、
「西永さーーーん」
と走ってくる男性の姿があった。西永姓を名乗っている者として、一応私も立ち止まったけれど、その顔に見覚えがない。
誰……?
「今帰りですか?」
「……はい」
親しげな話し方からして、知り合いらしい。いや、見たことはある。……気がする。多分。きっと。おそらく。
「あの、今朝は……いや昼か、ありがとうございました。これ、よかったら」
缶のミルクティーを差し出す姿に、昼間のふわわんとした笑顔が重なった。
「ああ、廣瀬さんか!」
「……え?」
「すみません、すぐ気づかなくて。お名前、廣瀬さんでしたよね?」
「……はい、そうですけど」
所在なげに浮いているその手から、ミルクティーを受け取った。本当はあまり好きではないけれど、まだあたたかいそれは、私の姿を見かけて急いで買ってきてくれたことがよくわかる。
「ありがとうございます。いただきます」
「お疲れ様でした。お気をつけて」
「廣瀬さんも。お疲れ様です」
ほんのり赤い廣瀬さんの顔に気付いて空を見上げたけれど、薄青いばかりで夕焼けは見えない。そのとき廣瀬さんの携帯が鳴って、彼は表情を引き締めた。
「すみませんが、失礼します」
電話に出ながら走って事務所に戻る後ろ姿に会釈して、今度こそ駐車場に向かう。
「お疲れー」
「あ、はい。お疲れ様でーす」
乗務員のダビゾウさん(ダビデ像に似てる。本名不明)に挨拶しながら、プルトップを開けた。
「けほっ。うわ、あっまーい……」
冷めないうちに、と歩きながら飲んだミルクティーはむせるほどに甘かった。甘いものが嫌いなわけじゃないけど、市販のミルクティーは甘すぎて苦手。そんなことを廣瀬さんは当然知らないし、通りすがりの人にわざわざ言うことでもない。でも、コーヒーではなくてミルクティーを選んでくれたことが、ちょっとした女の子扱いのような気がして、ほんの少し……いやなかなか……実を言うと、結構うれしかった。
廣瀬さんか……
顔を思い浮かべようとしたけれど、最後に挨拶したダビゾウさんの顔が邪魔をして、廣瀬さんのイメージは霧散してしまう。ダビゾウさんは純正日本人らしいのだけど、びっくりするくらい顔が濃い! こけし集めを趣味とする祖母がいて、ギリシア彫刻とは縁のない環境で育った私は、何度見てもびっくりする。
そのせいもあるとは言え、二回も見た顔を思い出せないとは……。これは私ではなく廣瀬さんが悪いと思う。
唯一覚えているきりっと深い夜空みたいな色のネクタイを思い浮かべ、私は大きくひと口ミルクティーを飲んだ。
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