マイ・フェア・ダーリン

木下瞳子

1区 社員食堂で昼食を

 昼下がりの陽光を受けて、キラリと光るひと雫が落ちた。それは私の眦からするすると頬を伝って、乾いた手の甲を濡らす。


「あーーーー、目がかすむ……」


 目薬のボトルを置き、潤んだ視界のまま周囲に目を走らせると、そつのない園花ちゃんがさっとポケットティッシュを渡してくれた。お礼を言って目元を拭うついでに、「もうこんな生活耐えられない……」と泣き落としもしてみる。が、賑わう社員食堂の誰ひとり憐れんでくれなかった。人間とは孤独なものですね。


「本格的な冬になったら、乾燥で眼精疲労もひどくなりますよね」


 長い睫毛ごと園花ちゃんも目をシパシパさせた。本人曰く、元々の睫毛は産毛程度しかないというのだから、最新のマスカラの性能はすさまじい。砂漠の緑地化まで成し遂げる勢いだ。

 この業界ではどこもそうだと思うけど、ササジマ物流の午前中は忙しい。とにかく伝票を数え続け、電話を取り続け、数字を睨み続け、データを打ち込み続ける。こうやって説明するとのんびり事務作業をしているように聞こえてしまうけれど、お昼休憩までまばたきするエネルギーさえ絞り取られるほどだ。塗りたくったファンデーションも剥がれ落ちる勢いで伝票と向き合う姿なんて、好きな人には絶対に見せたくない。職場恋愛なんて生まれるはずがないほど、鬼気迫る現場なのだ。

 勤務はシフト制で勤務時間は前後するものの、四十代ベテラン社員の桝井友恵さんと、二十八歳ですでに中堅の私と、二十三歳契約社員の飯星園花ちゃん、五十代の課長、あとは臨時のアルバイトさん数名で対応している。


「目を閉じたままパソコン画面見られたらいいのにね」


 チキン南蛮を噛み締めながら瞼を下ろすと、


「あ、いいですね、それ」


 ときつねうどんのつゆを飲んでから園花ちゃんも目を閉じた。ところが桝井さんの「あら、そんなのダメよ!」という声に目を開ける。


「瞼の裏に浮かぶのは、愛しい相手じゃないと」


 あまりに真面目なトーンだったので、ちゃんと野菜も食べないと、と言われたのかと思った。とりあえず、ちょっと苦手なパプリカ炒めを食べておく。


「ここしばらく私の瞼の裏は、スペースに若干の余裕があるんです」


 苛立ちを込めてミニトマトに箸を突き立てた私の隣で、園花ちゃんも深いため息をついた。


「私なんて瞼の裏に課長のおでこが浮かんじゃいました。滅っ!」


 私と園花ちゃんが普段一番接している男性=課長である。ほらほら、社内恋愛なんて土星で行われている季節行事くらいに縁がない。


「その高性能マスカラで課長の髪も伸ばしてあげられないかな?」


 私は善意と環境意識の塊なので、そんな提案をしてみた。


「産毛もないところにはマスカラも無力です」


 ちなみに課長は休憩室で仮眠をとっているので、悪口を言っても大丈夫だ。いや、このくらいは日常茶飯事なので、聞こえちゃっても大丈夫!


「桝井さんが使ってる、そのブルーライトカットメガネ、効果ありますか?」


 桝井さんは仕事中、未来人(想像)みたいなブルーライトカットメガネをしている。それでもお手製弁当を食べながら、肩や首を揉んでいるので、効果のほどを怪しんで聞いてみた。


「優芽ちゃん、その聞き方がそもそもよくないわ」


 今度は質問からダメ出しすると、桝井さんはポケットからブルーライトカットメガネを取り出して未来人に変身し、自信たっぷりな視線を投げる。


「『効果ありますか?』じゃないの。まず、『ものすごく効果があるんだ』と思い込むところから始めないと」


 ニッと口角を上げた後に、ポーチから目薬を出すので、ポケットティッシュを袋ごと差し出した。


「目、疲れてるじゃないですか」

「絶大な効果をもしのぐ伝票の量だったじゃないの」

「まあ、確かに」


 この第三営業所のクライアントは主にホームセンターだけど、お預りしている商品はその他にも多岐に渡る。年末が近づくにつれ、物流業界全体がパニックのような忙しさになるので、十月下旬ともなると、その風がふんわり届き始めていた。


「伝票なんて何千枚あってもいいんです! 配車担当に電話しなくて済むなら、私今の時給の3%カットで働いてもいい!」


 いっそ“半分”とか“無給”と言わないところが園花ちゃんらしい。ストレスのあまりテーブルに突っ伏した彼女の背を、私はなだめるようにやさしく撫でた。


「下柳さん、機嫌悪かったもんね」


 倉庫側にある事務課と、車庫の二階にいる配車担当とは顔を合わせることがほぼない。けれど、到着日時変更や急なキャンセル、追加発注など、運行に関わる依頼が発生した場合電話をすることになる。直接配車担当に連絡が行けばいいのだけど、なかなかそう割り切れないところがあり、電話する頻度は高い。

 荷主様から時間変更の依頼があり、園花ちゃんが電話をしたところ、「昨日も変更したばかりじゃないですか。そうコロコロ変えられると困るんですよ!」と配車担当の下柳さんに怒鳴られたらしい。もちろん、園花ちゃんに非はない!


「ちょっと強気で、ちょっと口が悪くて、ちょっと愚痴っぽくて、あんまり気遣いできないからね、下柳くん」


 桝井さんの発言が本人に聞かれていないか周囲を見回すけれど、そもそも下柳のヤローの顔なんて知らない。「大丈夫。多分いないよ」という桝井さんの言葉を信じるしかない。


「下柳くん、パチンコに負けた次の日は機嫌悪いのよ。勝つと機嫌いいから、勝つといいね」


 突っ伏していたせいで変な癖がついた前髪を、園花ちゃんは払い退けた。


「機嫌悪くてもいいから、○○(自粛!!)の毛まで抜かれるほど負けたらいいのに!」


 今度こそ周囲が気になり、慌てて遮る。


「午後は牧さんがいるんじゃないかな? 牧さんなら何でもやさしく『はーい。わかりました』って言ってくれるって」


 結構無理難題を振っても『はーい。わかりました』と受けてくれる牧さんは、私たちにとって天竺のお経よりありがたい存在だ。


『イチマル富川店様、待機になりそうだと連絡があって……』

『はーい。わかりました』


『山内物流センター様が、パレットの返却はできないとかなんとか……』

『あらら。はーい。わかりました』


 牧さんはきっと『おはようございます』『お疲れ様です』『はーい。わかりました』と言う機能しかないゼンマイ仕掛けに違いない。


「牧くんねえ、最初はあの安請け合いでトラブル起こしてたけど、最近ようやく一人前になってきたよね」


 この営業所の立ち上げからいる桝井さんは、子どもの成長を見る目で従業員を見守っている。


「牧さんって、いつからここにいるんですか?」


 異動してきて間もない私は、ここの営業所の事情には疎い。


「二年くらいかな? あの人、乗務員の経験ないまま配車担当にされたから、ものすごく苦労したのよ」


 配車担当の多くはトラックの乗務員経験を経ているらしい。そうでなくても、経験を積んでから配車の仕事をすることが多いのに、牧さんは人事の関係で突然放り込まれたのだそう。


「その前はどこの営業所だったんだろう?」


 桝井さんからもらったみかんを剥きながら何気なく口にしたのだけど、彼女はあんぐりと口を開けて私を見つめていた。


「……そっか、優芽ちゃんは今年異動してきたから知らないんだ」

「へ? 何が?」


 園花ちゃんに視線を向けても、桝井さんと同じような反応をしている。


「西永さん、牧さんはこの営業所で結構有名です」


 真剣な表情に、みかんを剥く手も止まる。


「ユー? メイ?」


 説明を求めて桝井さんを見ると、おごそかにうなずいた。


「牧くん、ここに来る前は実業団にいたの。陸上の」


 陸上の実業団……私にとっては中学時代の元担任と同じ頻度でしか思い出すことのない(つまりほぼない)言葉だ。が、続く言葉には日本人なら誰でも私と同じ反応をすると思う。


「箱根駅伝も走ってるのよ」

「箱根駅伝ーーっ!!」


 中途半端に剥かれたみかんに視線を落とす。毎年やってるのは知っている。小さい頃年始におじいちゃんの家に行くと必ずついていて、強制的に目撃させられた(あくまで視聴ではない)。今でもお正月番組をふらふらしてる隙間に、ひたすら走ってる男子が視界に入ることがある。時期的なこともあり、箱根駅伝のイメージはみかんとセットになっている。日本において、その知名度は抜群だ。


「西永さん、箱根駅伝に興味あったんですか?」

「いや、全然。園花ちゃんは?」

「うちは父が毎年見てます」

「じゃあ牧さんのことも知ってたの?」

「私は毎年初売りと初詣に出掛けて、家にはいませんから」


 過去を辿る視線の先に、牧さんの姿は見えないらしい。有名なのは牧さんではなく、箱根駅伝だけだったみたい。


「よほどの有名選手じゃないと、一般的知名度なんてないからね。私は毎年観てるけど、牧くんに会ってもわからなかったわよ」


 いつの間にかみかんを食べ終えていた桝井さんが、皮をお弁当箱に詰め込んだ。


「私、配車担当の人、誰ひとり顔わかりません」


 事務課のある事務所内にはタイムカードがあって、みんな出勤退勤時には押しにくる。だから毎日目の前を通っているはずなのに、顔と名前が一致している人は少ない。配車担当とは電話でしか接することがないので、声以外はわからない。


「下柳くんは背が高くて目が細い人だよ。牧くんは……中肉中背……」


 桝井さんは言葉を切ったけれど、それはもったいぶったわけでも何でもなかった。


「え……牧さんの情報、それで終わりですか?」


 桝井さんは宙を見上げ、何かを一生懸命思い描こうとして、失敗したらしい。


「これと言った特徴がないのよねえ。インパクトというインパクトを消し去ったような顔で。あ、二重だよ」


 ざっと食堂内を見渡しても、中肉中背の人なんてみかんの皮を投げればぶつかるほどたくさんいる。きっと半数は二重だろう。


「私も一回チラッと見かけたはずなんですけど、覚えてないですねー。ハゲてなくて、髪の毛は黒かった気がします」


 牧さんに関する情報は降ってもすぐ解ける雪のように、まったく後に残らない。唯一インパクトのある経歴も、


「箱根駅伝か……私苦手なんですよね」


 人気スポーツを否定する言葉に、桝井さんも園花ちゃんも驚いたりしなかった。「まあ、走ってるだけですからね」と。


「そうじゃなくて、どういうスタンスで観たらいいのかわからなくて」

「“スタンス”なんて大袈裟ねえ」


 箱根駅伝について語る機会なんてこれまでなかったし、例えあったとしても口にしにくい違和感を初めて言葉にした。


「優勝チームを応援して『おめでとうー!』って言うのはいいんですけど、負けて泣いてる人たちを見ていてもいいのかな? って」


 甲子園で負けたチームが泣きながら砂を集めるシーンは名物と言えるけれど、それを近距離で撮影するカメラには居心地の悪さを感じる。あれと同じだ。


「襷が繋がって欲しいとは思うけど、もし毎年全チームの襷が繋がってしまったら、“ドラマ”のひとつが失われますよね? あと走れなくなった選手がフラフラしてる姿とか、よくテレビに映されるじゃないですか。でもそれって、他人の不幸を楽しんでる気がして罪悪感があります」


 箱根駅伝のニュースは終わった後もたくさん流れているけど、優勝以外はあまりいいシーンではない気がする。倒れ込むほど走っても襷が繋がらず、泣きながら運ばれて行く姿。脱水症状で朦朧として、蛇行しながら進む姿。自身の病気や、ご両親を亡くしたエピソードもある。だからあまりにひどいときは、チャンネルを変える。泣いてる姿なんて、私なら見られたくないから。


「……すみません。こんな話」


 窓からは色づき始めたイチョウの、やわらかな影が入り込んでいる。吹いた風にその枝が揺れ、影も床やテーブルや私たちをそっと撫でた。

 しんみりしてしまった空気をもはや自分ではどうにもできず、社員食堂の喧騒に救われる思いだった。こんな、何て言っていいかわからない発言に、それでも桝井さんはやさしく微笑んでくれる。


「一理はあるけど、楽しませてもらってることに感謝すれば十分じゃないかな」


 園花ちゃんもうんうんとうなずいて、


「スポーツに勝ち負けがつくのは当たり前ですから」


 と言う。私も力ない微笑みを返した。


「まあ、ちゃんと見たこと、一度もないんですけどね」


 結局私の中で、箱根駅伝も牧さんも、濃い霞みに覆われたまま、晴れることがなかった。


 午後になれば多少は落ち着くものの、さすがにアフタヌーンティーを楽しむ余裕なんてない。スコーンを頬張る代わりに苦虫を噛み潰しながら、相変わらず電話対応と伝票処理に追われる。作業はだいぶシステム化されているけれど、いまだにFAXや電話で注文するクライアントはたくさんいるので、机の上はいつも紙束があやういバランスを保っている。


「おっと、あった!」


 紙束の中に紛れていた伝票をペラッと園花ちゃんの机に置く。


「ありましたか! これで午前中の分は合います」


 伝票はお金と同じ、と叩き込まれてはいても、数が合わないことなど日常茶飯事。


「紙ばっかり触ってるせいで手がパッサパサです……」


 園花ちゃんは愚痴をこぼしながらもハイスピードで伝票を数えていく。


「やばい……眠い……。“U”と“V”の区別つかなくなってきた」


 送られてきた伝票のデータと、お預かりしている荷物のデータに、間違いがないか確認しながら打ち込むのだけど、心地よい季節が裏目に出て、瞼が勝手に下りてくる。ぼやける視界では型番の“FV-0028”と“TU-0026”が同じものに見える。

 引き取りのトラックが決まっていないお客様に電話連絡している桝井さんが、左手で通話しながら、右手でパソコン操作しながら、第三の手でポケットから“超激スーパークールミント”のガムを渡してくれる。ありがとうございます、とジェスチャーを返し、口に入れたそれは劇物だった。


「いったあーーい! “クール”が刺さった! ……お電話ありがとうございます。ササジマ物流第三営業所、西永でございます」


 私の得意技は、例え机に足を乗せスルメを噛みながらでも、美女然とした声を出せることだ。眉間に深い皺を寄せたまま、器用に美声を披露したのだけど、内容はあまりうれしくないものだった。眉間の皺をさらに深くして内線を回す。コールの間、下柳のヤローに何を言われてもいいように、心の扉を固くロックした。


『━━━━━お疲れ様です。配車担当、牧です』


 高らかにガッツポーズをしたせいで、ほとんど自由の女神みたいになった。


「お疲れ様です! 事務課西永です。今ジョイフル向川店様から定期便の追加依頼が入りまして、本日18時着でということでしたが、お願いできますか?」

『はーい。わかりました』


 予想に違わぬ返事に思わず吹き出したら『どうかしましたか?』と怪訝なお問い合わせがあった。牧さんはゼンマイ仕掛けではないらしい。


「いえ。余裕のない発注ですし、無理されてないかと思いまして」

『無理……するのは通常営業ですから。なんとかできるように、最善を尽くします』


 内容に反していたってのんびりした声だった。年明け早々懸命に走っていた人間とは思えない。むしろ、こたつに入りながらみかんを食べている側の声だ。


「牧さんって箱根駅伝に出てたんですよね?」

『へ?』

「あ、すみません。つい」


 会話の流れとして、あまりに唐突だった。だけどさすがは牧さん、忙しいはずなのにどうでもいい雑談にも真摯に対応してくれる。


『『出てた』というか、運よく一度走ることができただけです』

「でもテレビには映ってたんですよね? 今度動画探してみます」

『……なんか、恥ずかしいですね』


 はははは、ふふふふ、と笑い合って細めた目に、止まることを知らない時計の針が映り込む。


「あ! お忙しいところすみませんでした! 発注書のデータ送ります」


 言いながらパソコンを操作すると、


『あ、はい……受け取りました。ありがとうございます』


 とすぐに返答があった。


「よろしくお願いします」

『お疲れ様です』


 味のなくなったガムをティッシュに包んで捨てても、すっかり目は覚めていた。ミントよりスッキリした気持ちで、精力的にデータのチェックを再開すると、


「配車、牧さんでしたか?」


 と園花ちゃんが聞いてきた。


「そうそう。『はーい。わかりました』って言ってたよ」


 あはは、と笑って内線を回した園花ちゃんの顔が、笑顔のまま壮絶な怒りをたたえる。


「━━━━━すみません。一応その提案もしたのですが、どうしても変更したいと……━━━━━はい。━━━━━はい。━━━━━申し訳ありません。よろしくお願い致します」


 カチャリとしずかに置かれた受話器が、焔を上げているように見える。やけど覚悟で園花ちゃんに声をかけた。


「……かなり急ぎの仕事お願いしちゃったから、牧さんはそっちの対応中かもね」

「……下柳、不幸になれ!」







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