7日目⑨

 《神坂文也》はため息をついた。片手を掲げる。

「フラッド・ウォーター!」

 手のひらからボールほどの大きさの球状の水が出現し、美冬に激突した。直撃を受け、美冬は弾きとばされた。食卓が倒れ、鍋と食器類が落ちる。カレーが床に零れる。油面に具材が浮いていた。

 美冬は体を丸め、苦痛で呻いていた。

「お姉ちゃん!」

 秋加が泣きそうな顔で屈む。

 《神坂文也》は首をふった。

「やれやれ。おれが本気だったら死んでたぞ。異世界では偏差値も、志望校判定も関係ない。危機感が足りないからそうなるんだ。必要なのは本当の頭のよさだ。学歴は関係ない」

 努めて平静であるように装っていたが、劣等感をもつ美冬を屈服させることができて、《神坂文也》は小鼻をふくらませていた。

 美冬に歩みよる。靴底がカレーと米飯を潰した。

「わかったか? 東大に合格できることなんて、頭のよさには関係ないんだ」

 美冬は必死にうなずいた。腹部が痛むらしく、呼吸がつらそうだ。脂汗を浮かべている。

 秋加は《神坂文也》を見上げた。

「あなたなんかお兄ちゃんじゃない! お兄ちゃんはひとに暴力をふるったりしない!」

 《神坂文也》は肩をすくめた。

「それは偽善だ。現実がみえてない。合理的に考えれば、力をふるうのが必要なときがある。異世界で偽善者は死ぬぞ」

 秋加は涙の滲む目で睨んだ。誰も言葉を発しない。

 《神坂文也》は両手を広げた。

「ここには偽善者しかいないのか? これがパーティーだったら、とっくにダンジョンで全滅してるぜ。つゆり。おまえならおれの言うことが正しいってわかるよな。おまえはこの世界がまちがってることを知ってるはずだ」

 つゆりは静かに言った。

「わらわには、おぬしがアニメと現実の区別がつかない頭のおかしい子供にしかみえぬ」

「このガキ…」

 《神坂文也》が向かう。つゆりは両目を固く閉じた。

「待て!」

 大声で叫ぶ。《神坂文也》はふり返った。

 足が震える。だが言わなければいけない。これ以上、家族を巻きこむことはできない。

「おまえの目的はおれだろ。おれを殺してさっさと異世界に帰れよ」

 《神坂文也》は長く息を吐いた。

「そうだったな。じゃあな、おれ」

 長剣を構える。

 目を閉じ、死を覚悟する。何の意味もない人生だった。それでも最後に家族を守ることができた。

 空気を裂く音がする。

 《神坂文也》が呻いた。

 目を開ける。夏未が椅子をもっている。《神坂文也》の頭にふり下ろしたらしい。

 《神坂文也》は片手に長剣をもったまま、後頭部を押さえていた。

 命が助かったことの安堵より、怒りが先にきた。夏未に怒鳴る。

「ふざけた真似はよせ! これは遊びじゃないんだぞ!」

 夏未は怒鳴りかえした。

「遊びで刃物をもった変質者の前に立てるわけないッしょ! お兄の命がかかってるからやってんだよ!」

 夏未をみて、《神坂文也》はため息をついた。長剣を収める。

「おまえみたいな危機感のないヤツは異世界で真っさきに死ぬ。顔を焼かれればすこしは現実が理解できるか? キンドル・ファイアー!」

 手のひらに火炎が出現する。

 だが、夏未は逃げずに《神坂文也》の懐に飛びこんだ。

「なッ」

 予想外の行動に《神坂文也》が動揺する。夏未は火炎を燃やす右腕を抱えこんだ。夏未の体が邪魔で、《神坂文也》は長剣を抜くことができない。空いている手で夏未の頭や背中を殴りつけるが、夏未は腕にしがみついたまま離れなかった。

「お兄、はやく逃げて!」

 夏未が叫ぶ。

 《神坂文也》は夏未の背中に何度も肘を打ちつけた。次第に夏未の力が緩む。

「いい加減にしないと、おまえも殺すぞ!」

 おれは呆然とした。夏未に叫ぶ。

「何やってんだよ! おれが死ねば済むことだろうが! おれに守る価値なんてない! おまえたちにだって迷惑しかかけてない! おれは死んだほうがいい人間なんだよ!」

 夏未は顔をこちらに向けた。

「ふざけんな! ウチらに借りがあるなら、死んでチャラにするなんてできない! 生きて借りを返せ!」

 大声で叫ぶ。「困ったときは助けあうのが家族だろうが!」

 衝撃を受け、思考が停止する。われに返る。

「秋加! つゆり! 逃げるぞ!」

 つゆりを抱え、秋加が出口に走る。《神坂文也》が叫ぶ。

「逃がすかよ! バーン・ファイアー!」

 炎が円陣のように燃え、出口を遮る。

 《神崎文也》は夏未を突きとばし、おれに近づいた。

「おれは異世界に転生して変わった。自分のことしか考えないクズだったが、おれのことをわかってくれる仲間ができて、他人のために行動できるようになった。人生を前向きに生きることができるようになった。いまのおまえ、昔のおれとはちがう。だから、おまえは死ね」

 静かな声が響く。

「いいえ。あなたは何も変わっていませんよ」

 美冬が倒れたまま《神崎文也》を見上げていた。

 《神崎文也》がふり返る。美冬はその目をまっすぐに見つめた。

「他人に嫌われれば自分がクズだから仕方ないと開きなおり、自分を責めているようで、そのじつ他人に責任を転嫁している。万事につけそのとおりで、障害が生じれば自分はクズだからと開きなおり、努力することをしない。努力せず、実績もないのにプライドだけは高い。努力しなければ能力がないことが原因でも、性格のせいだと思うことができるからです。ひとづきあいをしたことがないのに他人を見下し、自分は頭がいいと思っている。屁理屈だけは達者で、物事を総合的に考えることができない。表面上はとりつくろっても、そういう本性は見透かされる。だからあなたは嫌われるのです」

「黙れ」

 《神坂文也》は低い声で言った。

「自分がひとこと命じたり、怒ったふりをすれば、他人が言うことをきいてくれると思っているのですね。他人からみれば何をやっているのかまったくわかりませんが、ひとと話したことがないから客観的にみた自分を想像できないのでしょう。そして異世界に転生して、チートでもらった能力を通してひとづきあいですか。多くの仲間ができたと言いましたが、能力が生む利益のために味方になっただけでしょう? もし能力がなければ彼ら、彼女らがあなたの友人になったと思いますか? つまり、あなたはいまだに誰にも好かれていないのです」

「黙れっつってんだよ!」

 《神坂文也》は激昂した。円陣の炎は消えている。おれたちのことは意識から消えているらしい。

 美冬はおれたちに目配せした。すばやく《神坂文也》に視線を戻す。大きく息を吸う。

「つまり、あなたはバカなのです」

 《神坂文也》は美冬の顔面を靴のつま先で蹴りつけた。

「あッ」

「温厚なおれでも頭にきたぜ。おれは人当りはいいが、怒ると容赦しないんだぞ!」

 美冬は鼻面を押さえて言った。

「あなたは頭が悪く、言葉も下手で、他に才能もないから、そうやって暴力に頼ることしかできないのですよ」

「うわァーッ!」

 《神坂文也》は靴で美冬の背中を何度も蹴りつけた。美冬は頭を抱え、背中を丸めて耐えた。

 おれは秋加とつゆりの肩を叩いた。

 玄関までくると、秋加はおれにすがりついた。

「はやく戻らなきゃ! あのままじゃお姉ちゃんが死んじゃう!」

 おれは息を細く吐いた。

「秋加。おまえは近所の家に助けを求めろ。ダメなら交番までいけ。おまえの足ならすぐにいける。つゆり。おまえはおれと残れ。おれの部屋のスマホで警察に通報するんだ」

「お兄ちゃんも逃げなきゃ! あのひとの狙いはお兄ちゃんなんだよ!」

 秋加が声を抑えて叫ぶ。

「おれにはやることがある。それに、最悪でもおれが自分を差しだせば被害は終わる」

 秋加は泣きそうな顔でうなずいた。

「お兄ちゃん。死なないでね」

 静かに玄関の扉を開ける。外に出ると、闇夜を駆けだした。

 おれはつゆりと2階にいった。おれの部屋にはいる。

「つゆり。警察に通報しろ」

 スマートフォンを差しだす。

 つゆりは震えていた。

「兄上が通報してくれ。わらわはこの口調じゃ。イタズラ電話と思われるかもしれぬ。警官の1人や2人きたところで、あやつはとめられぬぞ」

「おれにはやることがある。大丈夫だ。おまえならやれる」

「じゃが、何と言えばいい」

「兄が刃物をもって暴れてるって言えばいいんだよ!」

 つゆりはスマートフォンで110番通報した。耳にスマートフォンを当てる。コール音のあと、電話ごしの声がきこえた。

《はい、110番、静岡県警です。事件ですか、事故ですか》

 つゆりは深呼吸をした。大声で叫ぶ。

「助けてください!」

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