7日目④
美冬は冷静に言った。
「『孫の世代の経済的可能性』ははじめに有史以来の経済を確認しています。ここでケインズは紀元前2000年から18世紀初頭まで大衆の生活水準は変わっていないことを指摘しています。18世紀初頭にあった重要な技術のすべては、人類の黎明期にすべて存在していました。言語、火、家畜、小麦、大麦、ブドウとオリーブ、犂、車輪、オール、帆、革、亜麻布と毛織物、レンガと壺、金、銀、銅、錫、鉛、銀行、政治、数学、天文学、宗教です。ただし鉄だけは紀元前1000年に加わりました。16世紀以来の資本の蓄積と、18世紀の科学と技術的発明によりはじめて大衆の生活水準は向上しました。知的能力を用いない四圃輪栽式のようなものは、こうした変化に無関係です。ケインズは週15時間労働による余暇に対し、現在の裕福な階級がどのように行動し、何を達成しているかをみると、暗然となると述べています。ですが、実際の大衆はケインズやヴェブレンが想定するよりはるかに頭が悪かったのです」
「そこまで言わなくてもいいのに…」
秋加はつゆりを抱きかかえていじけた。
夏未は難しい顔をした。
「いろいろ言ってきたけど、それでも奴隷制がいまの賃金労働制よりいいわけないッしょ。だって奴隷には人権がないわけッしょ。現代の労働者とはちがうじゃん」
「それは不正確ですね。『ローマ法案内』によればローマ法の刑事司法は本来、政治システムの破壊を対象とするものだ。はじめ、政治システムの末端は議員であり、それが自由市民に広がりました。その末端がさらに広がり、殺人罪はひと一般、《ホミネース》を対象とするようになりました。《ホミネース》は狭義には奴隷、広義には従属的人員を指します。もともとは自由市民の殺人すら犯罪ではなかったのです。この明確さに対し、近代にできた人権という概念はあいまいなものです。木庭は『現代日本法へのカタバシス』で、奴隷がいないこと、つまりすべての人間が自由であることを定めても、自由が制度的に保障されなければ有名無実だと指摘しています。古代ローマでは政務官がすべての自由市民に対し、自由を保障するため裁判をおこなうことができました」
「それは現代と同じッしょ」
夏未が不満げに言う。
「いえ。現代の日本では当事者適格性をもつものだけが提訴できます。これは当事者の利益に適うものですが、同時に多くの違法な事物がそのままに放置されます。たとえば多くの中小企業は労働法を遵守しません。そして、裁判のとき政務官は国家主権の外部に立ちます。現代の日本の裁判は、法律の構成要件該当性を形式的に審査するものです。裁判官は公務員で、古代ローマにおける公有奴隷です。裁量権はありません。国会が法律を制定すれば、あらゆる行為が犯罪になります。上位法である憲法すら、国会で改正できます。対して、古代ローマの政務官は犯罪の犯罪たる理由、犯罪と訴因の関係を議論します。現代の刑法犯の犯罪の犯罪たる理由は、国民の利益または感情を害したということだけです」
「法の支配ッしょ。それに罪刑法定主義。それが民主主義ってやつじゃん」
美冬は静かに言った。
「『ローマ法案内』によれば、そもそも古代ローマに国民という概念は存在しません。演説などで《国民》という表現を使うことはありますが、ある領域に存在するひとびとを国民という単一の集団として擬制することはありません。こうした誤解が、古代ローマの民会を直接民主主義とする混乱した理解を招きます。古代ローマにおいて現代の議会に相当するものは評議会です。対して、現代では国会議員が国民そのものの代理だとみなされます。とくに古代ギリシャ、ローマでは選挙は貴族政の制度で、クジ引きでなければ民主政でないと考えられました。これは《倫理》の授業であつかったでしょう」
夏未が唇を尖らせる。
「選挙で国民の代表を決めるのがもっとも民主的に決まってんじゃん。それに従うのは当然だし。普通選挙が実施されてるいまが一番いいに決まってるし」
「現在の日本は人口の27.7%が65歳以上、とくに13.8%が75歳以上の非労働力人口です。労働者における農業従事者は5.1%、製造業従事者は17.0%に過ぎません。もっとも多いのは卸売・小売業の従事者です。サービス業は従来の産業である農業と製造業とはまったく異なります。たとえば宿泊・飲食サービス業の離職率は30%で、製造業の9.4%より大幅に高いです。この現代の労働者は政治に参与できていません」
「つーか、時代の流れッしょ」
美冬はうなずいた。
「そのとおりです。いま労働者の37.3%が非正規雇用です。第2次安倍政権は雇用が100万人増えたと主張しますが、2010年から2014年にかけて正規雇用が96万人減少、非正規雇用が199万人増加しました。日本における非正規雇用の増加はソロー型経済成長モデルのとおり、1990年代初頭からマクロ経済成長率が鈍化し、物的・人的資本の収益率が低下したためです。ですので、今後も反転することはありません。2010年から2015年にかけて卸売・小売業、宿泊・飲食サービス業、その他サービス業では求人は増加し、就業者数は減少し、かつ賃金は低下しています。高い離職率と低賃金はたがいに原因ですので、これらが改善することはありません。医療・福祉産業は就業者数も増加していますが、賃金は下落しています。社会保険・社会福祉・介護事業の就業者数は2003年の189万人から2015年の386万人まで倍増していますが、2000年から2014年にかけて介護事業をふくむ社会保険・社会福祉の賃金水準は20%低下しています」
美冬は言葉を途切らせた。
「ディートンは『大脱出』でアメリカの連邦議会の制定する最低賃金が1981年から2回しか変更されていないことをもって、労働者の政治への影響力が低下していることを主張しています。1975年の最低賃金の2.0ドルに対し、2011年の最低賃金の7.25ドルは購買力で30%下回っています。アメリカは労働組合の加盟率が1973年の24%から2012年の6.6%に減少しています。日本は労働組合の加盟率が1949年の55.8%から2014年の17.5%に減少、争議件数は1974年の9581件から2018年の80件に急減しています。選挙は自己の生活のためのものです。1920年代には市場経済が政治から独立し、労働者が選挙を通じて自己の生活を変えることができなくなったため、先進国でファシズムが発生しました。これを免れたのは、金本位制を離脱し、政府が市場経済に介入したアメリカとイギリスだけでした」
夏未が眉間に皺を寄せた。
「現代もそれと同じってわけ。お姉はネトウヨを擁護したいの?」
「戦前と現代はちがいます。現在、失業率は3%ほどで安定しています。つまり、労働者は自己の生活を向上できない一方で、最低限の生活保障がされています。1990代以降、左派と右派の争点は文化的承認に限定され、経済的再分配が争われることはなくなりました。ガルブレイスは『経済学の歴史』で、商品の価格が任意に決まる現代を、まるで中世に戻ったようだと表現しています。現代における商品の価格は、近代に成立した価格形成をおこなう生産要素市場からかけ離れています。生産要素投入量と別個に成立する付加価値という概念は、まるで中世の魔法のようです。わたくしたちはいま幻想のなかに生きているのです。この数日、わたくしは多数の異世界転生モノと呼ばれる小説を拝読しました。あらゆる意味で現実性とは無縁の物語。これこそ現代の精神だとわたくしは感得いたしました」
美冬の長弁が終わると部屋は静まった。
それまで黙っていたつゆりが沈黙を破った。
「それはちがうぞ。姉上。わらわは異世界転生モノのアニメは好かぬ。じゃが、わらわがアニメをみるときの感情を、わらわの生活だけに還元できるはずがない。あらゆるジャンルで作品はそれ自体の意味があるはずじゃ」
夏未が腕組みして言う。
「お姉は他人の感情がわからないから、ぜんぶ経済で説明しようとするんだよ」
美冬は言葉に詰まった。
おれは咳払いした。
「異世界転生モノが流行ることと、異世界転生モノの世界観が現実と関係ないことはもっと簡単に説明できるぞ。オタクが誰でもゲームをやるようになったからだ」
「ギャフン」
美冬は降参した。
夏未が鼻で笑う。
「現実とフィクションは分けたほうがいいってことかもね。現実の話は現実の話として大事だし。お兄にも関係あることッしょ。市役所の就労支援はどうだった?」
「べつに。なんも進展はねェよ」
口に出してから失言に気づく。
秋加が不思議そうにする。
「お兄ちゃん、平日はバイトなんじゃなかったの?」
美冬もキョトンとしておれをみる。夏未とつゆりは顔を背けた。
自分の顔から血色が失せるのがわかった。
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