7日目③
夏未の疑問を受け、美冬が言った。
「ブロックの『封建社会』によれば、中世における奴隷の定義は《明日することを自分で決められないもの》だそうです。その意味で、現代の賃金労働者は中世でも奴隷と呼ぶ身分です」
咳払いして続ける。
「ただし、さきほど申しあげたことにも通じますが、そうした民主制は帝政の末期には有名無実となったそうです。荘園の所有者は請負契約のもと、奴隷より貧窮した自由市民を奴隷より少ない手当てで使用しました。こうした契約で請負人に主体性はありません。事実上の雇用です」
秋加が首をひねる。
「話が専門的すぎてついていけないよ」
夏未がうなずく。
「同感。大事なのは法律じゃなくて実際にどうかッしょ」
美冬は口元に手を当てた。
「2001年のアメリカの月次人口調査によれば、就業者のうち《就業時間を伸ばしたい》が27%、《今のままでよい》が66%、《短くしたい》が7%です。対して、2005年の労働政策研究・研修機構の調査によれば、《就業時間を伸ばしたい》が6%、《今のままでよい》が49%、《短くしたい》が45%です。つまり、日本では大規模な過剰就業が存在します。OECD労働統計の定義では、過剰就業は《過剰な仕事時間に関する不適切な就業》のことです。《不適切》とは非自発的の意味です。つまり、事実上も日本の賃金労働者は自由労働ではありません」
「日本は特殊な例じゃがな」
黙っていたつゆりがボソッと言った。
「そうですね。EUでは1993年の《EU労働時間指令》で雇用者の最大労働時間が週48時間を超えてはならないこと、週1日以上の休暇日、実働労働時間が1日13時間を超えてはならないこと、夜勤をふくむ勤務が1日8時間を超えてはならないこと、年間4週間の有給休暇を定めています。イギリスだけは適用除外を選択しています。イギリスも《労働時間に関する政令》で同様の指針を定めていますが、雇用者の合意のもと制限を免れることができます。さらに厳しいところでは、フランスは所定内労働時間を35時間とし、これを超える残業時間が年間180時間を上回るときは労働監査官の許可が必要です。オランダは《雇用時間調整法》で、雇用者が労働時間を決めることができ、また、その選択について企業が理由の説明を求めてはならないことを定めています。ちなみに、いずれの国も1人当たりGDPで日本を上回っています。もっとも、アメリカもこうした労働時間に関する規制はありません」
つゆりが鼻を鳴らす。
美冬は唇を撫でた。
「ウォーラーステインの『近代世界システム』の1巻によると、中世の農民の労働規範は日の出から正午まで働くというものだったそうです。農民の労働時間が増加したのは近世からです。農業技術の水準が同じですので、古代の労働時間もこの程度でしょう。少なくとも、古代ローマの奴隷が現代の賃金労働者の立場におかれたとして、解放されたとは思わないでしょうね」
おれは慌てた。
「それは困る。異世界転生モノでは現代の価値観で奴隷を人並みにあつかうことで感謝されるのが定番なんだ。それだといまの感覚で人並みにあつかったら、むしろ待遇が悪化するじゃないか。古代より現代のほうが科学技術は進歩してるだろ? どうして労働時間が減るどころか増えるんだ」
美冬は両手を合わせた。
「さすがお兄さま。鋭いご指摘です。ジョン・メイナード・ケインズは『孫の世代の経済的可能性』という評論で、2030年には執筆当時の1930年から先進国の生活水準は4-8倍になり、労働時間は1日3時間、週15時間になるだろうと予測しています。前者はそのとおりでしたが、後者は誤りでした。ケインズはアメリカの製造業の1人当たり生産量が1919年から1925年にかけて40%増加し、ヨーロッパでも年率で1%以上増加していることから、技術革新により20世紀中に農業と鉱工業の生産性が4倍になるだろうと推計しています。このときサービス業の従事者は増加しないだろうと付言しています。実際には、1970年代から先進国でサービス業が急増しました」
秋加が小首を傾げる。美冬は話を続けた。
「日本を例に挙げますと、GDPにおいて第1次産業は戦後から減少しつづけ、第2次産業は1955年の36.8%から1970年の46.4%まで増加しますが、2012年には23・9%まで減少します。そして第3次産業は1955年の42.4%から2012年の74.9%まで増加します。よく知られているように、ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』で紙幣を地中に埋めて掘らせれば有効需要は創出できると皮肉で言いました。『孫の世代の経済的可能性』でも、ワークシェアリングがおこなわれなければ大量の失業者が社会問題となるだろうと予測しています。ですが企業は1人当たり労働時間を増やし、労働者数を減らすことがつねに経済合理的ですので、ワークシェアリングは選択しません。ですので、大量の失業者が紙幣を地中に埋めて掘ることになりました」
「サービス業はそこまで無意味じゃないッしょ」
夏未は呆れて言った。
「それはどうでしょう。ソール・ヴェブレンは『有閑階級の理論』で浪費、つまり経済的合理性のない消費行動を理論化しました。ジョン・ケネス・ガルブレイスは本書を《俗物根性と世間体についての本》と要約しています。浪費を動物学と人類学から分析し、豪華な晩餐会や派手な衣服を、未開の部族の乱交や刺青から説明した本書は、資産家を憤激させました。とくに本書は資産家が大量の召使を抱えるのは原始的な動物的本能によるものだと分析しています。ですが現代になり、本書はますます参照されています。ただしヴェブレンの意図とは逆に、浪費を促進するためです。アンガス・ディートンは『大脱出』でこうした高所得者層向けのサービス業の増加をして、ヴィクトリア朝の大勢の召使を抱える大邸宅が復活したようだと述べています」
夏未がもっともらしくうなずく。
「たしかにフェミニズムから言えば、エレベーターガールとかスチュワーデスとかの意味のないサービス業は即刻、廃止すべきだけどね」
おれが笑うと、夏未は椅子の脚を蹴飛ばした。
秋加がおずおずと言う。
「そういうサービス業も、経済的に必要なくても意味はあるんじゃないかな。ひとに感謝されることそのものがやりがいになることもあると思うよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます