7日目②
*
おれは居間で放心していた。
帰宅した夏未がおれを覗きこむ。
「市役所いってきた?」
「ああ」
「お疲れさま」
優しい声色だった。
制服のままおれの隣に腰かける。スマートフォンの画面をみせる。
「お兄の小説がランキング1位になってんじゃん」
とうとう『真面目系クズの異世界下剋上』は日間ランキング1位になっていた。だが、もはや関心がおきない。
「あとでみんなで読むし」
夏未は上機嫌で言った。
おれの部屋に美冬、夏美、秋加、つゆりの全員が集まっていた。パソコンに対面して座るおれを4人が囲んでいる。
美冬が言う。
「荒しを退け、ようやく本来の展開にすることができましたね。すばらしく自由な発想です」
夏未が小首を傾げる。
「革命をおこして奴隷制を廃止することを目指すとか、歴史的に正当だと思うけど」
たしかにそのようなことを書いた。定番だからだ。
美冬は首をふった。
「この作品が中世ヨーロッパをモデルにしているなら、奴隷があきらかに不自然です。服が粗末な布だと書かれているでしょう。ローマ帝国がトゥニカを奴隷の服装と定めていたことを意識したものでしょうが、中世とは時代が1000年以上ズレています。ローマ帝国は市民の正装が1枚布のトーガです。トゥニカは日用品で、特別に粗末なものではありません。そして、中世でトゥニカを着ていたら時代物のコスプレになります」
「トゥニカって?」
夏未が首を傾げると、秋加が言った。
「歴史モノでよくみるランニングシャツみたいな服のことじゃない? トーガはバスタオルを肩からかけたみたいなヤツだよね」
夏未は反論した。
「奴隷は貫頭衣みたいな服を着るものだと思ってたし。でも、古代の世界観も混ざってるってことでいいんじゃない。奴隷制を廃止するって展開は悪くないし」
美冬が首をふる。
「いえ、ローマ帝国の奴隷制を意識しているなら、なおさら不自然です。女性と子供の奴隷が交易されたのは古代ギリシャです。征服のために男性は殺害し、女性と子供は奴隷化し、強制移住させました。ですが、ローマ帝国の時代はパックス=ロマーナで戦争はありません。奴隷貿易は戦争によるものは女性が主で、誘拐によるものは男性が主です。女性は男性より市場価値が大幅に低いです。人間は食費と管理の人件費で莫大な費用がかかります。わざわざ市場価値の低い女性を誘拐しません」
「でも性奴隷としての需要があるだろ」
秋加のつゆりを意識して小声で言う。批判されて不快になる。どうしてこんな思いをしなければいけないんだ。
「古代ギリシャ、ローマの性に対する態度はきわめて現実的です。売春は公的な職業でした。古代の性奴隷というのは、経済合理性を欠いた消費主義社会の幻想の産物です」
おれはつぶやいた。
「そう言われても、奴隷を買う以外にヒロインをつくる方法がわからない」
「嘘でしょ!?」
夏未が絶叫する。
美冬は嬉しそうに言った。
「ですので、お兄さまの小説は自由ですばらしいです。奴隷の身分も歴史とは大きく異なりますね。ローマ帝国では5年間継続して労働するか、身柄の代金を返済すれば奴隷は解放されました。ローマ市民が捕虜になり、国が身代金を弁済する場合も5年間の公有奴隷としての労働が義務として課せられました。首都ローマでは、人口の30%が奴隷身分でした。いわば奴隷制は人口流動の一環だったのです。生活水準についても、当時の農書によれば、肉体労働者である農業従事者の奴隷の食糧が夏季に月間小麦35キログラム、冬季に30キログラムで、1800年以前のヨーロッパの肉体労働者の1日3500キロカロリーとほぼ同じ水準です」
「そう言われても、虐待された奴隷を人並みにあつかって感謝される以外にヒロインに好意をもたれる方法がわからない」
「お兄。それ、童貞がキャバ嬢に貢ぐのと同じ」
夏未が冷たい目でおれをみた。
秋加が首を傾げる。
「でも、それだと奴隷制のメリットがないんじゃないの?」
「お兄さまと夏未にはお話ししましたが、まさにその理由により奴隷制は封建制に転換しました。付言しますと、近代初期、スペイン領のアメリカおよびチリでは、キリスト教の理念のもとインディオが小作人になりましたが、その生活水準は奴隷を下回っていました。奴隷までもがそうしたインディオを雇用していたのです。ご質問のことですが、マルク・ブロックの『古代奴隷制の終焉』によると、帝政の末期に大量の奴隷を使役する広い私有地が多数の小作地に細分化したそうです。ブロックはこれを大規模経営に対する小規模経営の勝利と表現しています」
「じゃあ、奴隷って何?」
秋加の疑問に、美冬は口元に手を当てた。
「そもそも、自由の概念が古代ローマと現代では異なります。書記官、会計官、監査官。ローマ帝国の公務員はすべて公有奴隷であることを考えれば理解しやすいかと存じます。古代ギリシャのアテネでは、奴隷のスキタイ人が射手巡視官、つまり警察官を務めました。法執行の対象は当然、アテネ市民です。近代のアメリカで法執行官が逃亡奴隷を追跡したのと真逆です」
「いまと感覚がちがいすぎてよくわからないよ」
秋加が困惑する。美冬は解説した。
「古代ローマにおける法律は明晰なものです。木庭顕の『ローマ法案内』によれば、ローマ法における自由とは支配従属関係に所属していないことです。ですので、契約法は合意にもとづく強制を成りたたせる政治システムを意味しました。現代における請負契約は、費用投下に対する果実収取の関係だと明確にされています。つまり現代とは逆に、請負契約の発注者が契約を売り、受注者が買うのです。代表的なことが農繁期の日雇いです。請負人は荘園の所有者に対価を払い、果実をとります。こうした契約において請負人はつねに主体です。現代において、事実上の雇用契約であるにもかかわらず、発注者が雇用者としての義務を免れるために請負契約を選択し、受注者に被用者としての指揮監督への服従を強制していることを考えると、ローマ法の明晰さは至当です」
夏未が噛みつく。
「請負はそうかもしんないけど、問題は雇用ッしょ。自由労働が認められてる現代のほうがいいに決まってんじゃん」
美冬は説明を続けた。
「くり返しになりますが、現代とは自由の概念が異なります。自由市民の労働の基本は政治的階層の無償の奉仕です。代表的なものは裁判の弁護人です。対価を払い、医師、教師、音楽家、料理人など、高度な技芸にもとづく活動の利益を受けます。これは支配従属関係であってはなりません。奴隷と同じで、自由市民が自由市民を支配することになるからです。それは政治システムと敵対します。ですので自由市民の労働は、第1に働くものが強い立場にあり、第2に都市の自由な空間が成立していることを要請しました」
「じゃあ…」
「現代の賃金労働者はローマ法においては、文理的にも実体的にも完全な意味で奴隷です」
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