3日目⑧
「それより、これで主人公に荒稼ぎさせることができなくなった。小説を大幅に書きなおさなくちゃいけないんだ。どうすればいいんだ」
「お兄さま」
美冬がおれを見上げる。
「ただ考証をするだけなら二流、その上でシナリオとの整合性をつけて一流です。神坂美冬は役に立つ妹です。どうぞお使いくださいませ」
「何か案があるのか」
「はい。お酒をつくればよろしいかと存じます」
美冬の言葉に失望感をおぼえる。
「酒? そりゃ売れるだろうけど、やっぱり原価がかかるからマヨネーズと変わらないだろ」
「正確には炭酸水です。石灰石、つまり炭酸カルシウムが強酸と反応すれば、二酸化炭素が発生します。石灰石は建材です。強酸である酢は市場で入手できます。化学式はCaCO3+2CH3COOH→(CH3COO)2Ca+CO2+H2O。標準状態の気体の体積が22.4リットル。炭酸カルシウムのモル質量が100グラム、酢酸のモル質量が60グラムですので、中世ヨーロッパでもただ同然で二酸化炭素を生成できます。二酸化炭素は水に易溶ですので、容易に炭酸水にできます。これで醸造酒を半分に割るとすれば、その半値で売却できます」
おれは感動した。
「そういうのを現代知識って言うんだよ!」
「お兄さまにお喜びいただいて嬉しく思います。副次的な問題はありますが、これで財をなすことができるでしょう」
「副次的な問題?」
首をひねる。
「中世における醸造酒は嗜好品ではありません。1800年以前、ヨーロッパにおける1日のカロリー摂取量は肉体労働者が3500キロカロリー、それ以外が2000キロカロリーほどでした。そして、その一部を酒類で摂取していました。1日に1ガロンのビール、1300キロカロリーほどです。それを偽造品で代替するのですから、都市部では栄養失調が生じるでしょう。飢餓そのものより、免疫力の低下による疫病の流行が深刻です。中世の都市は18世紀まで出生率より死亡率のほうが高く、19世紀にようやく逆転したのです」
「……」
「べつにかまわないでしょう。中世では人命に価値をおくことはありませんでした。ミシェル・フーコーが『監獄の歴史』で詳述しているとおり、中世の人間の判断は暴力と直結しています。その価値観が変わるには、近代化を経る必要がありました」
おれは拳を固めた。
「もういい。いますぐ書きなおしてやる!」
「さすがお兄さま! 即断即行です!」
美冬が両手を合わせた。
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