3日目⑦
近世のほうが話を展開しやすそうだ。だが《近世ヨーロッパ風ファンタジー》はきいたことがない。
「中世について説明してくれ」
美冬は低頭した。
「承知いたしました。中世ヨーロッパは孤立した商圏と無人地帯があるだけです。ですので貨幣経済と統一市場はどちらも存在しません。経済は2つの中心がありました。北西ヨーロッパのフランドルからバルト諸国におけるフランドル・ハンザ貿易圏と、北イタリア諸都市を中心とする地中海地域の経済システムです。近世にこの両者が結合し、東ヨーロッパ、新世界、大西洋沿岸諸島が加わり、資本主義的な経済ができたのは、いま申しあげたとおりです。高橋理の『ハンザ「同盟」の歴史』が中世におけるフランドル・ハンザ貿易圏と、地中海地域の経済システムの特徴をまとめています。前者は北海およびバルト海と交易し、生活必需品である穀物、材木、毛織物、海産物、鉱石、塩、原毛などをあつかいます。これらは取引きが恒常的で、価格が需給バランスで決まるため、安価で大量に取引きしなければ利益を出すことができません。ですのでハンザ同盟の諸都市は豊かではありませんでした。後者は地中海と交易し、胡椒など香辛料、香料、絹、錦、絨毯、宝石などをあつかいます。流通量が少なく、投機的で、顧客は貴族階級です。世間的な中世の商人のイメージは後者のものです。ブローデルも『地中海』の第2巻で、地中海貿易の商人は利益を失うことがあるため、小麦はあつかわなかったと述べています」
「そういや『狼と香辛料』のロレンスも、商人だけど大して稼いでなかったな。あれは北部の商人だったからか」
「はい。そして都市は市民を保護するため、外地商人には卸売りしか許しませんでした。小麦だけは例外として、食糧供給の安定のため各都市が公定価格を定めました。他の商品は独占市場で高価なものになりました。農村は金納のため貨幣を必要としましたが、行商を選択することができません。そのため農産物の価格交渉ができず、また債務を負わされました。こうして債務と強制的な売買の永続的な循環がおこなわれました。この局地交易が都市の食糧供給を実現しました。都市の市場にせよ、農村と都市の取引きにせよ非競争的です。価格形成をおこなう生産要素市場は存在しません。そしていま申しあげたとおり、この局地交易で大きな利益を得ることはできませんでした。それができたのは投機的で、高い利潤を設定することのできた地中海貿易の商人だけです」
「それが政治家の気まぐれと最富裕層の資産状況に左右されるもの、ってわけか」
おれは応答した。
「仰るとおりです。マヨネーズの原材料にせよ、リバーシ、つまり手工業製品をつくる熟練労働者にせよ、それらの生産要素を安価に入手できるなら、マヨネーズやリバーシの生産に当てるのは金をドブに捨てるようなものです」
そこまで言うか。
「貨幣経済と統一市場がないって言ってたな。統一市場がないのはわかった。でも貨幣はあるだろ。金貨、銀貨、銅貨は中世ヨーロッパ風ファンタジーに必須のアイテムだぞ」
美冬は説明した。
「貨幣はありましたが、貨幣経済は不完全なものでした。ジャック・ル=ゴフの『中世と貨幣』によれば、中世の貨幣は以下のようなものです。ハンザ同盟では13世紀末、ようやく信用取引が規制され、貨幣を用いるようになります。ただし東部は貨幣の導入に失敗し、テンの毛皮による支払が残存しました。貨幣も東部のリューベック・マルク、ポモージュ・マルク、プロイセン・マルク、リガ・マルク、ブランデンブルグ・ターレル銀貨、西部のライン・フローリン金貨が混在し、さらに通用力があったのはリューベック・マルク、フランドル・グロ・リーヴル、イングランド・スターリング・リーヴルという有りさまでした。さらには、ドイツのフリブールの鉱山地帯に銀鉱があり、銀貨は自由に発行できたため、13世紀後半から金貨の流通を阻止しようとしました。この状況は交易の障壁となり、両替に経費がかかりました。地中海沿岸では13世紀末にヴェネツィアで発行されたドゥカート金貨が基軸通貨として流通します。ですが、巨額の支払いは貨幣でなく地金によるものでした。貨幣は再鋳造されるもので、そのなかには贋金もあります。金銀複本位制により、貴金属重量、他の貨幣との比較、計数貨幣との比較の3つの基準による為替相場はなおさら複雑になりました。『異世界はスマートフォンとともに。』の青銅貨、銅貨、銀貨、金貨、白金貨、王金貨の6種類の通貨などは、はなはだ不合理です」
「国が貨幣価値を安定させる権力をもっていればいいじゃないか」
「強制通用力のある貨幣を発行できるのなら、巨額の財政支出を要する貴金属を用いるはずがありません。とくに『異世界はスマートフォンとともに。』の世界は製紙技術がありますので、紙幣を発行するでしょう」
美冬は即答した。
ぐぅの音も出ない。
「いまお話ししたのは金貨と銀貨についてです。13世紀、都市での日常生活の需要に応える補助貨幣が誕生しました。銅貨などの小額貨幣です。『ゴブリンスレイヤー』に、冒険者ギルドに救援を求める農村の代表が大量の小額貨幣を出すという場面があります。読みあげます。《受付嬢はニコニコとした笑みを崩さず袋を受け取る。ずしりと重い、が……。その中身はほとんどが銅貨で、銀貨が数枚。金貨は一枚もない。》、《金貨に換算してようやく十枚になるかどうか、といった所。白磁等級の冒険者を数人雇える、ギルドの規程、ぎりぎりの金額。依頼仲介の際に差し引く手数料なんかを考えると、赤字かもしれない。》」
美冬がふたたび音読する。だからやめろ。
「この記述からして、銅貨が小額貨幣であることはたしかです。ですが、商取引に小額貨幣を用いることはありません。つまり、本文には《辺境の村》と記述されていますが、奇妙にもこの農村は都市経済が機能しています」
おれは弁護した。
「『ゴブリンスレイヤー』はヒーローものだからな。《ん?》って思うところはいろいろあるが、それを指摘するのは、なんで仮面ライダーが変身する前に攻撃しないんですか、とか、どうしてプリキュアの家族を人質にとらないんですか、とか、そういうバカなツッコミをするのと同じだよ」
「ばッ…」
美冬が表情を硬直させる。
「お兄さま。そのような下品な物言いは慎まれますよう」
「おう」
声が震えていて過呼吸の兆しがあったため素直に従う。
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