3日目⑥
「もちろん、『異世界居酒屋のぶ』の世界において、ジャガイモの耕作がはじまって間もない、あるいは一部でしかおこなわれていないのなら、整合性は保てます。ですが農村より生活水準の高い都市の住民である登場人物が、子供のときから食べあきていると言明しているので、それも成立しません。作者は時代考証について世評を気にするばかりに、設定を根本的に破綻させたものと存じます」
なるほど。ジャガイモに限らず、うかつに独自の設定をつくると思わぬ矛盾を生むらしい。
美冬は細い鼻梁をTENGAの挿入口にいれた。
「それにしても、これは何に用いるものなのでしょう。かすかにイカの香りがします」
「他に気づいたことはあるか!」
話題を逸らす。
「はい。商人の名前がスミスというのは不自然かと存じます。ヨーロッパでは12世紀、唯一の名にあだ名が加わるようになりました。この添名が世襲化により、家族名となったそうです。それも戸籍による人口管理が進むまでは世帯を表わすもので、使用人も用いたそうです。そして13世紀、そうして出現した姓のなかでイギリスのスミス、フランスのルフェーヴル、ドイツのシュミットなどは鍛冶屋を意味しました。お兄さまの小説の設定では架空の言語体系を使用しているので、現実の姓との一致は偶然になりますが、固有名詞全般にヨーロッパのものとの類似がありますので、さけたほうが無難かと存じます」
「地名や登場人物の名前は《海外 かっこいい名前》とかでググって決めているからな」
「すてきです。お兄さまはインターネットの集合知を活用していらっしゃいますのね」
美冬は両手を合わせた。
「固有名詞は簡単に変更できますが、もっと大きな改稿が必要になりうるところもあります」
「何だ?」
「マヨネーズです」
「マヨネーズ!?」
おれは高い声をあげた。
「マヨネーズは卵と酢と油だけでつくれて、中世には存在しないオーバーテクノロジーだ。異世界転生したときに財をなす基本だぞ」
美冬は文庫本を取りあげた。
「はい。お兄さまに貸していただいた『超人高校生たちは異世界でも余裕で生き抜くようです!』にも《「……なあエルク、不思議に思わなかったか? マヨネーズは少なくともこの地域にはない調味料だ。つまりその価値は砂糖や胡椒と同等ってことだ。なのに俺は野菜と付け合わせて誰にでも買えるように大安売りした。一部の食い意地の張った貴族相手に売り出せば、ほとんど錬金術みたいな利益が上げられただろうにな」》と書かれています」
ページを音読する。やめてくれ。
「胡椒の価格を確認しましょう。ブローデルの『地中海』第2巻に胡椒貿易を検討した箇所があります。わかりやすいのは、1585年のポルトガルからヴェネツィアへの胡椒の転売契約の打診です。これに先立ち、スペインがポルトガルのリスボンに1カンタラ当たり30ドゥカートで毎年3万カンタラを売却することを提案しております。しかし、これらの契約は成立しませんでした。理由の1つは、卸売価格の相場が1カンタラ36-38ドゥカートで、契約そのものが信憑性を欠くことでした」
「知らない単位しか出てこないからよくわからん。やっぱり異世界の単位はメートル法で、貨幣単位も日本円と同じがいいな」
「さすがお兄さま。明晰なお考えです。同書によると、1600年ごろ、小麦1キンタル、つまり100キログラムが4-5ドゥカートだそうですので、購買力平価で1ドゥカートがおよそ10万円でしょう。1カンタラは0.5キンタル、つまり50キログラムです。したがって胡椒の卸売価格は1グラム当たり72-76円です。これが小売価格になれば、さらに高価になります。《一部の食い意地の張った貴族相手に売り出せば》と言いますが、ただの使用価値ではこのような高値になりません」
「わかるぞ。つまり商人が暴利を貪ってるんだな」
「さすがお兄さま! ご明察です。ただ暴利という表現は中世に存在しない適正価格という概念を前提としますので、不適切かと存じます。胡椒より安価で、より重要な塩をみましょう。『ブローデル歴史集成』の第1巻に小論がございます。15世紀末でも塩は貨幣として通用し、とくにバルカン半島では賃金に用いられました。ヴェネツィアは遠隔地貿易で財をなす前、製塩で初期資本を形成したのです。16世紀末のヴェネツィア地方の塩の売上は、内訳が原価12%、手数料7%、利潤81%です」
「81%!?」
思わず大声を出す。
「はい。内陸部の都市での売上が20万ドゥカートほどであるのに対し、倍以上の人口を擁するヴェネツィアは10万ドゥカートほどです。生産地であるヴェネツィアでは、それだけ安価だったからです。話を戻しますと、胡椒に需要があったのは肉類の賞味期限を延ばすことができたためです。胡椒は12世紀から13世紀の十字軍運動で西洋にもたらされますが、胡椒貿易は14世紀から15世紀の肉類の消費の増加により開始しました。16世紀、胡椒は香辛料とは見なされず、薬種より廉価でした。その分、大量に流通したのです。つまり、塩や胡椒は大量の需要があり、価格弾力性がきわめて大きいため、高い利潤を設定することができたのです。マヨネーズにこのような価格弾力性はありません」
おれは呻った。
「うーん。マヨネーズに胡椒ほど高い価格設定ができないことはわかった。でも、未知の商品なんだからそれなりに利益を得ることはできるんじゃないか? マヨネーズがダメでも、リバーシとか」
「おそれながら、マヨネーズにせよ、リバーシにせよ、中世ヨーロッパで大量生産により利益を得ることはできません。大量の生産要素を廉価で購入することができないからです。つまり、価格形成をおこなう生産要素市場が存在しません。生産要素市場、言いかえれば資本主義と市場経済がはじめて成立したのは19世紀です。資本主義は貨幣経済と統一市場を前提とします。これらが西洋で成立するのは18世紀のことです」
言っていることが難しい。おれは首をひねった。
「え。でも中世ヨーロッパにも商人はいるだろ?」
「はい。ですが、中世の商業は資本主義的なものではありません。イマニュエル・ウォーラーステインの『近代世界システム』の第1巻の表現を借りれば、政治家の気まぐれと最富裕層の資産状況に左右されるものでした。一般に資本主義は18世紀末の産業革命ののちに成立したと考えられております。ただし、工業化は資本主義的な経済ができていなければ成しえません。『近代世界システム』第1巻によれば、そうした経済システムは1450年から1640年、おおよそ16世紀に成立したそうです。地理的には地中海と北西ヨーロッパを中心として、中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ、すなわちバルト海沿岸、エルベ川以東、ポーランド。新世界、すなわちカリブ海沿岸諸島、メキシコ、中央アメリカ、ペルー、チリ、ブラジル。大西洋沿岸諸島、アフリカ沿岸において成立しました」
美冬の話をきき、疑問に思う。
「ヨーロッパだけじゃないのか?」
「はい。ヨーロッパだけでは国際分業と国際貿易がおこらず、資本主義的な経済は発生しませんでした。地域間分業と国内商業はあくまでそののちに発生しました。ヨーロッパの貿易圏は地中海、北西ヨーロッパ、東ヨーロッパの3つがありました。3地域の物価水準比は1500年に100:77:16、1600年に100:76:25で、地中海と東ヨーロッパの物価水準比は6倍から4倍にまで縮小します。さらに1750年には2倍にまで縮小します。資本主義的な経済が成立したためです。他に証拠としては、ヨーロッパの利子率は中世末期に4-5%、1520-1570年に5.5%という高水準で、1570-1620年に急落し、2.2%になります。さらに『近代世界システム』の第2巻によれば、この経済システムは16世紀から18世紀にかけて完成したそうです」
「中世よりあとの時代だよな」
「仰るとおりです。中世と近代の中間で、近世と時代区分することもできるでしょう。中世ヨーロッパの経済成長は2つの停滞期がございます。1300-1350年と、1600-1650年です。ただし第1の経済停滞では、1300-1450年に経済規模は1000年頃まで戻るのに対し、第2の経済停滞では、1600-1750年も経済規模はそれ以前の水準を維持します。資本主義的な経済システムが成立したためです。経済発展は穀物の総生産高で計ることができます。他に人口、工業の規模、通貨流通高、中小企業家の指標がありますが、おおむね穀物の総生産高のとおりです」
すこし考える。
「中世ヨーロッパにも2つの時期があって、あとのほうは区別して近世と呼ぶこともあるってことか?」
「さすがお兄さま。正確なご理解です。1150-1450年の封建的経済と、1450-1750年の資本主義的経済です」
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