3日目⑤


     *


 まとめサイトの記事をみせる。

 美冬は殺気立った。

「お兄さまの芸術作品を中傷をするなど許せません。このようにインターネットで誹謗中傷をするものなど、三十路近くになって就職もせず、実家に寄生し、家事も家族にやらせている社会のクズに決まっています。その分際で高貴なお兄さまの胸襟を騒がせるなど言語道断です」

「……」

「IPアドレスの開示請求をして住所を割り、ひとりずつ簀巻きにして駿河湾に沈めてやります」

 鼻息が荒い。

「いや、そういうことはしなくていいから」

 いまから炎上への対応をしたところで4日後、いや、もう3日後の異世界転生には間に合わない。

「批判は批判として受けいれなければならないからな。むしろ、この連中の要望に応えたい」

「お兄さまは芸術家の鑑です」

 陶然としておれをみて、パソコンに向きなおる。

「作品の如何は別として、サイトの運営者に通報が炎上によるものだということは報告しましょう」

 美冬はメールを作成した。下書きをせず、書きながら修正することもなく、形式を守り、文章の整然としたメールを最少の時間で書きあげた。根本的に頭がいいのだろう。

 おれは運営に対応を求めるということは思いつかなかったし、思いついていても、メールをどう書けばいいかわからなかった。劣等感を刺激される。

 美冬に尋ねる。

「時代考証で気づいたことはあるか」

「お兄さまの芸術作品に意見するのは僭越ですが、ひとつだけございます」

「何だ」

「胸です」

「は」

 美冬は真顔だった。

「古代、中世において美しい胸とは小さい胸のことです。古代については、ギリシャとローマの彫像を思いおこせばおわかりいただけると思います。中世についてはマリリン・ヤーロムの『乳房論』が詳しいです。15世紀のフランス詩人、フランソワ・ヴィヨンが年老いた娼婦の嘆きとして謳う美貌は《小さな乳房と豊かな腰》です。中世にできた美しい乳房の基準は、小さく、白く、丸く、引きしまって型崩れせず、左右に離れていることだったそうです。これはルネッサンス時代に移行しても変わりません。当時の高級娼婦、クルティザンは何より乳房が垂れることを恐れました。シャルル8世の愛妾エレオノールや、アンリ2世の愛妾、ディアーヌ・ド・ポワティエは《大きく醜い乳房》にならないため、さまざまな膏薬や美容法を試みていました。これは巷間の女性も同じで、16、17世紀に出版された多数の美容手引書や、薬の行商人が狙いにしています」

 ひと息にまくしたてる。

「中世の平均寿命が30歳ほどであることを思いおこしください。そのような時代にあって大きい乳房、すなわち垂れた乳房とは老醜でしかありません。痩せた体に大きな乳房という体型の理想は、20世紀後半にできたものでしかなく、消費主義社会の産物なのです」

 話を結論づける。息を継がずに話しつづけたため、肩で呼吸している。

 美冬にチラッとみる。ベビードールの胸のところはストンと落ちていた。

「お兄さまもあくまで読者に迎合しただけであって、胸の大きい女性のほうが魅力的だとお考えではないでしょうが…」

 そこまで言い、顔面を蒼白にする。

「まさかお兄さまも、無知蒙昧な大衆と同じく大きい胸のほうがお好きなのですか」

「……」

 おれが答えずにいると、呼吸が浅く短いものになった。

「い、息が…」

 床に倒れる。

「か、過呼吸をおこしました。何か袋状のものをください」

「待て、すぐ台所からビニール袋をもってくる!」

「じ、時間が… あッ」

 ベッドの下からオナホールの《TENGA》をとり出す。

 挿入口に口を当てて呼吸する。

「ハーッ、ハーッ」

「それはやめろォーッ!」

 思わず絶叫する。

 数分後、美冬は回復した。

「助かりました。ところで、この器具は何に用いるものなのでしょう」

「忘れろ」

「はい。過呼吸など中学生のとき以来です。話を戻しますが、お兄さまは胸の大きい女性のほうがお好きなのでしょうか」

「そんなわけないじゃないか!」

 おれは大声で言った。

「それをきいて、わたくしも安心いたしました」

 平らな胸を撫でおろす。

 おれは話題を変えた。

「とりあえず、ジャガイモ警察が文句をつけたところから考えよう」

「ジャガイモ警察とは何でしょう」

 美冬は小首を傾げた。

 由来を説明する。

「なるほど。言いえて妙ですね」

「ああ。だが、ファンタジーで架空の場所が舞台だからな。ジャガイモについては、その土地の原産ということにすればいい。問題はそれ以外だ」

 鼻を鳴らす。

 だが、美冬は同意しなかった。

「いえ。それだけでは解決しないと存じます」

「どうしてだ?」

 美冬は『異世界居酒屋のぶ』の第1巻をみせた。

「お兄さまのお話で、どうしてこの作品の第1話が《おでんのじゃがいも》なのかわかりました。おそらく作者は、時代考証の誤りとしてよく知られるジャガイモを導入におくことで、この作品の世界観が現実のものとは異なることを宣言しているのでしょう。ですが、これは作者が思っている以上に問題があります。ケネス・ポメランツの『大分岐』によれば、ジャガイモの耕地面積当たりのカロリーは小麦の2.5-3倍です。つまり、小麦からジャガイモへの転作は労働人口における農業従事者の3分の2を解放します。さらに、ジャガイモの耕作はスペードと呼ばれる踏鋤でおこないます。対して、穀物の耕作は高価な鋤と、牽引用の役畜が必要です。役畜は購入費および維持費とも高価で、中世ではつねに共同所有です。それらの固定費が削減されますので、ジャガイモへの転作は耕地面積当たりのカロリー以上に生産性が向上します。ちなみに、小麦に比較したジャガイモの生産性の高さは、アダム・スミスも『国富論』に記述しています。アダム・スミスは収穫高の重量が6倍だから、カロリーは最小で3倍だと推定しています。いい線です」

「そうきくと小麦よりだいぶいい作物のように思えるが、どうして広まらなかったんだ?」

「ですので、新大陸の発見以前にはヨーロッパには存在しなかったのです」

「ああ…」

 間抜けな質問をしてしまった。

「労働人口に占める農業従事者の割合をみてみましょう。ブローデルは『地中海』の第2巻で、16世紀の地中海の産業構造を推定しています。人口全体が6000-7000万人、都市人口はおよそ10%です。職人は200-300万人。このうち都市に居住するのが最大で50%です。のこりが商人です。どれほど過少に評価しても、人口の90%近くは農業従事者なのです。つまり、小麦からジャガイモへの転作は人口の60%を余剰労働力にするのです」

「転作じゃなくて、もともとジャガイモが主産物ということも考えられるんじゃないか?」

「わたくしも、そうでなければ設定の整合性が保たないと思います。ですが、『異世界居酒屋のぶ』は作品の性格のため、頻繁に麦酒、《エール》という語を使用しています。小麦は耕地面積当たり生産高、播種量当たり生産高ともに低く、代替する作物が存在する地域では耕作されません。稲の存在する東アジアを思いおこしください。ですので『異世界居酒屋のぶ』の世界でも、はじめは小麦が主産物で、のちに転作されたと考えるべきです」

 だが、その何が問題なのかわからない。

 おれは首をひねった。

「でも、農業の生産性が上がるのはいいことなんじゃないか? 中世ヨーロッパ風ファンタジーって基本的に現実の中世より生活が豊かだしさ。現実とちがってていいんじゃないか」

「さすがお兄さま。鋭いご指摘です。ですが、『異世界居酒屋のぶ』には当てはまりません。本作の舞台は城砦都市です。城砦都市は封建諸侯が分立し、私的財産が保護されない中世において、商人が自己の財産の安全を確保し、安定的に商活動をおこなうため、君主の庇護のもとに建設するものです。つまり、人口の70%が商人と職人という社会に存在する意味がありません。実際、15世紀から各国における市民層、つまり商人層の勃興と、中央集権国家の成立のために、城砦都市の連合であるハンザ同盟は衰退します。そのような社会に女騎士などの傭兵の存在する余地もありません。『異世界居酒屋のぶ』はドイツをモデルにしているようですが、ジャガイモは17世紀末にドイツに伝わったものの、主食となるのは18世紀末から19世紀半ばのことです。すなわち、産業革命の人口増大のあとです。ジャガイモを主食にするドイツというイメージは近代以降のものなのです。これは偶然ではありません」

「うーん」

 おれは唸った。

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