1日目⑤
家に着く。鍵は施錠されていない。玄関にあがると家内は静かだった。
居間の扉を開ける。
破裂音が響き、クラッカーのテープと紙吹雪が舞いおりる。
「お兄さま、ご就職おめでとうございます!」
クラッカーを手にした美冬と夏未が立っている。夏未は美冬に強要されたらしく、憮然としていた。
美冬は別として、なぜ夏未までこうした先走りを認めたかは理解できる。まさかコンビニのバイトに落ちるとは思っていなかったのだ。
顔面から血の気が退潮していくのが自分でもわかった。
秋加が台所から出てくる。
「お兄ちゃん、お帰りー。お姉ちゃんたちからきいたよ。コンビニのバイトが決まったんだってね。おめでとう。お夕飯は約束どおりハンバーグだからね」
美冬がおれの様子がおかしいことに気づく。
「お兄さま、どうかされましたか?」
表情にかすかに不安を浮かべている。
「落ちた」
「はい?」
「バイト、落ちたから」
簡潔に言う。
夏未が苛立たしげに言う。
「はァ? なに言ってんの? 仮に不採用だとしても、その場で言いわたすわけないッしょ。まさかお兄、バックレたわけ?」
「うるせえな! 落ちたって言ってるだろ!」
怒りが激発する。
「なにキレてんの!?」
夏未が怒鳴りかえす。
「だいたい、おまえらがこんなのを着せるのが悪いんだろうが!」
父のジャケットを床に投げつける。
「どういう事情かちゃんと説明してよ! 仮に落ちたとして、妹に八当たりするなんて恥ずかしくないわけ!?」
わざと足音を立てて居間を出る。力をこめて扉を閉める。やはり足音を立てて階段を昇る。自室に籠城する。
夏未が扉を叩く。
「いい年して、なに拗ねてるわけ!? 閉じこもってないで出てきてよ!」
扉を蹴りつける。それで激しいノックはとまった。
扉に背中をつけ、床に座りこむ。耳をふさぎ、頭を抱えこむ。
美冬たちへの態度が理不尽であることはわかっている。だが、コンビニのトイレで盗み聞きしたことを話すことはできない。忸怩たる思いになる。
脳内でコンビニの店員たちに復讐するところを想像する。だが、意識の冷静なところで、そうした復讐心が理不尽であることも理解していた。
時間が経つ。時計をみると、2時間が経過していた。室内は暗い。気分はやや落着いていた。低い視点から室内を見渡す。壁にアニメとエロゲーのポスターが貼ってある。ベッドには美少女キャラの抱き枕がある。部屋中にフィギュアがおかれている。床は乱雑に物が散らかっている。
まともな社会生活を営む人間の部屋ではない。自己嫌悪がつのる。
扉が慎重にノックされた。
「よろしいでしょうか、お兄さま」
「……」
「本日は大変に残念でした。わたくしはお慰めすることもできません。ですが、秋加が料理を用意しておいてくれています。せめて慰労会をさせてはいただけないでしょうか。わたくしたちは未成年なので飲酒できませんが、お父さまの秘蔵するワインがございます。1杯、お召しになってはいかがでしょうか」
部屋を出る。
「あたり散らして悪かったな」
「お兄さま」
美冬は顔を輝かせた。
1階に下りる。
居間で夏未はソファに寝転び、スマートフォンに没頭していた。
声をかける。
「さっきは怒鳴って悪かった」
「んー」
スマートフォンから視線を外さないまま生返事をする。しかし意識はこちらに集中しているらしい。暗黙のうちに和解する。
椅子に座ると、美冬がワイングラスにワインを注いだ。ひと口で呷る。
「おまえら、今日はいろいろありがとうな」
「わたくしは何もしておりませんが、お兄さまにそう言っていただけるだけで、千の苦労が報われます」
夏未は反応を返さない。
「今日はもう寝る。夕食はいらない」
「じゃあ、お夕飯はラップして冷蔵庫にしまっておくね。明日のお昼に食べてね」
秋加が言う。
部屋に戻る。ビニール製の荷紐をとり出す。幾重もの輪にしてドアノブにかける。
いい具合に酩酊している。これなら苦痛を感じることもないだろう。胃は空だ。排泄は済ませてある。
尻が床につかない高さで、荷紐の輪に首をとおす。
おれは自分の人生を十分にやった。もういいだろう。
腰を落とす。荷紐が首の血管を圧迫し、視界が明滅する。その状態がしばらく続き、やがて気絶した。
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