第3話

 どうにも微睡む。意識が定まらぬのは術後の貧血か。人間は輸血とやらで出ていった血を補うらしいが、果たして犬にも左様な術法が用いられるのだろうか気になるところではある。

 いや、それよりもだ。ドクターとナースと、それから私を拾ったと思わしき男。この三匹の入室に私は如何にして対応すべきか。こちらが動かぬ吠えぬをいい事に、不躾にも寝所に足を踏み入れるとは不届千万。無作法者には相応の仕置が必要であるが、いかんせん力が入らぬ。然るに、今私ができる事といえば無様に横たわり、三匹の動向を視認しつつ低く唸るくらいなものなのだがそれだけでら不十分。何とかして憤りを伝えたいところだが、さてどうしたものか……





「おや。随分元気がいい。目を覚ました途端に尻尾を振るなんざ、中々ないですよ」


「そうなんですか」


 抗議のつもりであったが逆効果であったか。どうやら歓迎しているように取られてしまったらしい。これは常々思う事であるが、意思が通じぬのをいい事に自分達に都合が良いよう解釈しようとする人間の悪癖には失笑を禁じ得ない。その楽天的な思考にはほとほと呆れ返るばかりである。


「で、どうしますか。飼いますかこの子」


「やはり急な話で……先にも申し上げましたが、犬の世話などした事もなく……」


 何。飼うだと。何の話だ。まさか私の事ではあるまいな。

 いやこの場合私の事に決まっているではないか。どうして左様な筋書きとなるのだ。認められぬぞ左様な侵害。私は自由に生きたいのだ。勝手に生き、勝手に死にたいのだ。人飼いなどに落ちぶれればそれができぬ。愛玩動物に成り果てた先にあるものは自由の剥奪であり、屈辱と落胆の後の精神薄弱である。毒にも薬にもならぬ曖昧な跡を残してなんになるか。断固拒否。首輪など付けられてなるものか。


「あらこの子。遮二無二尻尾を振ってらしてよ。貴方に飼われたいんじゃないかしら」


 それは曲解だナースよ。身体が動かぬ以上、尾でしか意思伝達を試みる事はできないが、尾を持たぬ人間には私の抱く感情を察する事はできぬか。なんと歯がゆい。


「そうでしょうか。何か、承服できぬといったような表情に思えますが」


 その通りだ。到底承服できるものではない。なんだ雄。中々聡いではないか。単なる木偶の坊かと思ったが、存外聡明。機微に目敏い。これで、いらぬ世話さえ焼かねばよかったのだがな。


「そんな事ありませんよ。ねぇ先生。この子、飼われたがっていますよね」


「その通りだとも金井さん。うちでも助力をするから、飼ってみなさい。それに、もし貴方が引き取らねば、この犬っころは保健所へ連れて行く事になるよ。運が良ければ貰い手も見つかるだろうが……」


「運が悪ければ、どうなるんです?」


「……」


「……」


 不穏な空気である。この沈黙は、つまりそういう事なのだろう。


 馬鹿な。ただ生きているだけでどうして殺されなければならぬのだ。無闇に生きたいとは思わぬが、無為に殺されるのは腑に落ちぬ。神でもないものが生殺与奪の権を握るとは何たる傲慢。何たる不遜。底のない人間のエゴイズムにはまったく驚嘆させられる。


「それは困りましたねぇ」


「困りましたねぇ」ではない。貴様は一個の命が無残に散るを黙して知らぬ素振りをするのか。畜生にも劣る鬼畜無動。獣以下の所業である。もし左様な狼藉が許されるのであれば、人類は一度絶えるべきである。


「心配であれば、しばらくこちらでお預かりいたしますから。その間に勉強なされてはいかがでしょうか。ねぇ先生」


「そうだね。こちらも立場がありますから、あまり行政には頼みたくないですし」


 生き死にではなく立場を語るかドクター。

 何と薄情な言い草だ。命を救うのが医者の本分ではないのか。医療に従ずる者の堕落と失墜に杉田玄白も草葉の陰で泣いていよう。死ぬのはかまわぬが、斯様な扱いを受け軽んじられるのは甚だ心外である。


「困りましたねぇ」


 そしてこの木偶の坊。聡明だの目敏いだの吐いた前言は撤回せねばならぬ。先ほどから困る困ると稚児のようではないか。勝手に拾い治療まで受けさせておいて困るでは通らぬであろう。責を負えぬなら最初から引っ込んでいればよかったのだ。それを今になって狼狽するとは、とんだ軟弱を晒せるものだ。


「困りますか」


「困りますね」


「それは困りましたわ」


 揃いも揃ってこれか。一番に困窮しているのは私であろうに。どうしても手前の都合を優先させたいと見える。何ともはや、浅ましい限りだ。

 まったく、人間とはなんとも下劣な精神性を所有しているものだ。犬として産まれた事は不運だが、人間に産まれるよりは、幾らかましである。

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