第2話

 とはいえ、風来を気取れる程渡世は甘くはない。餌場は少ない上に縄張りもある。下手な場所に踏み入れば痛い目を見るのだから、彷徨くにしてもやはり勝手知ったるいつもの巡回経路を辿るのが善いだろう。命に未練や執着があるわけではないが、生きている以上は不快を感ずるような事は極力避けたいところだ。意思が芽吹き思考が回り如何に叡智を振り絞っても、結局のところは腹を満たすばかりを求めるのだから、如何なる生物もその根本は何も変わらぬ。殊に人間などは愚の骨頂であろう。繁栄英華を極めたとしても実際には獣と同じ。いや、無闇に要らぬ事を考えなくともいい分、獣の方がまだ健全といえるのではないか。死に向かう生において、あえてしがらみを抱え苦しみ続けるとはつくづく度し難い。さっさと死んだ方が安楽なのは明白であろう。もっとも、それは私にも該当するのであるが。


 餌場に着いた。如何にくたばりたいといっても腹は減る。飢え乾く苦悩と惨めさは筆舌に尽し難く、喰わねば狂うほどに忍び難い。死にたいと考えながらも飯を漁る時の情けなさといったらないのだが、それでも喰わずにはいられない生物の性を感じ入ると、私も人間と変わらぬのだと不面目な自覚が芽生え遠吠えを上げたくなる。益体のない思考を巡らせながら残飯を貪るなどまったく恥知らずもいいところではないか。心底自分の浅ましさと、残飯の食いでの無さに落胆するばかりである。


 ……次に行こう。


 これでは眠れぬ。腹が満たされなければ安眠できぬ。まったく獣だ。自らの不遇に落涙を禁じ得ない。あぁ。どうして私は意味もなく斯様な精神性を持って産まれ落ちてしまったのだろうか。見ろあの野良猫を。間抜けづらして蒲公英なんぞを食みよる。あれ程の阿呆となれば、五里霧中の七難八苦に悩む事なく苦苦を甘受できるだろうに。知恵は原罪の賜物だと耶蘇が説いたそうだがまったくその通りではないか。等しく皆獣であれば、皆等しく阿呆となり、皆等しく死ねるのだ。それがなぜ私の知性は獣ではないのか。牙と爪ばかりで充分だというのに、なぜヌースまで付与したもうたのか。神がそうしたのであれば露悪極まりなく、運命がそうしたのであれば悲劇でしかない。


 うだつの上がらぬ惰弱だ。今日はどうもいかん。いつもより弱気が過ぎる。これもあの烏のせいに違いない。要らぬ怒気や苛立ちが頭の動きに何かしらの影響を与えたのだ。これは許せぬ。やはり次会った際には打倒し絞め殺してやらねば気が済まぬ。


 おや。猫が失せたな。やはり獣は行動においても滅裂である。少し目を離した隙にこれなのだから。

 別段近寄って愛でたり、共に何かをしたいわけでもないのだが、突然蒸発したのであればそれはそれで気掛かりではある。見たところまだ幾許も歳を重ねていない小さな猫であった。この辺りは害鳥も多く、よしんばあの忌々しい鳥畜生に啄まれているとすれば、それは目覚めの悪い話ではないか。


 であればよかろう。どうせ暇な身の上。ここは一つ小捕物に興じるのも善し。猫よ。貴様は今何処で花を喰わんや……!


 突然仰天! 背後からの接触!


 にゃあと一言響き渡れば、尻尾に走る鋭い痛み。何事かと振り替えって見たならば、先の猫が毛を逆立て立っている。


「何事であるか。私は貴様に敵意はないぞ」


 そう伝えようにも話は通じず。獣が言を解する道理なし。威嚇で終わらず危害まで加え、更には今、右前足にて我が横面を弾き飛ばすとはなんたる野蛮か。なるほど所詮は畜生か。利するは奪い、害するは殺すの刹那的衝動しか持たぬ不心得者であれば止むを得まい。反してもかまわぬが無駄な殺生争いは好まぬし、斯様な場所で怪我をするのも間抜けである。猫風情にまったく遺憾であるが、退散し、此奴の目に入らぬ場所へと行くほかあるまい。そうと決まれば長居は無用。一刻も早く立ち去ろう。

 烏といい猫といい、今日はどうも良くない。厄続きではないか。斯様な日は早々に別の餌場へと赴き、腹を満たして寝てしまおう。


 一目散に脱兎の如く。彼の猫に背を向け一心不乱。駆けよ駆けよと四つ足で。行くは渡世の無情也。


 ……あ。


 それはちくと眼を切った直後の事であった。

 猫が追って来ぬかと後方を脇見し走行したところ、凄まじまい衝撃が私を襲ったのだ。何があったと問われれば答えは完結。自動車に跳ねられたのである。

 思えば考えなしに車道を横断していた私の過失。是非もない。あの無礼な猫には些か腹は立つものの、元より死を望む身なれば、苦痛に苛まれようとも安堵が先んじ甘美なる虚無に誘われるのを良しとした。


 ここが我が死地荒涼たれど。根付くは名もなき無垢なる花よ。満たせや満たせ。血潮の肥で。咲かせや咲かせ。消えゆく花弁。


 後に残らぬ詩唄い。六文銭なき我が身なれど。死地への旅路に臨まんと。霞む瞼を呑み込めば。ここは地獄か極楽か。



 いや現世である。どうやら、運悪く生き残ってしまったようだ。まったく、車に轢かれて死なぬとは我ながら頑丈な作りではないか。


 ……いや違う。


 此は私が倒れた道ではないな。白と苔緑に塗れたこの潔癖な部屋は、恐らく病院という場所に違いないだろう。ならば、いったいなぜ私は斯様な場所にいるのだろうか。推察は安易。何者かが、死に損なった私を連れてきたのだ。まったく度し難い。いったい誰だ。左様な真似をした奴は。


 ……あいつか。


 硝子越しに話し込む人間の内、一匹はドクターと呼ばれる者であろう。あれがここの家主だ。その傍に佇む雌はナースとかいう助手役だろうな。という事は、消去法で残ったあの雄が私を勝手に助けたに違いない。要らぬ事をしよって。あのまま死ねたのならば、不要な苦悩に悩まされる生も終われたであろうに。


 まぁ、言っても仕方がないのだが。

 拾った以上は、生きねばならぬ。不本意ではあるが……

 あぁしかし、それにしても、この病院と思わしき建物は、辛気臭くていかんな……

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