犬とて
白川津 中々
第1話
人の世には我輩は猫であるという書があるらしいが私にその書に関しての知見はない。
字を読めないことはないが、肉球で紙をめくるのは骨が折れるし、そもそも読みたいとも思わないのだから、別に内容を知らなくともいいように思える。何かの縁で目を通す事はあるかもしれないが、ともかく今、私はその書について知る事はない。
そもそも、猫であろうがなんだろうがどうでもいい事ではないか。私達は、不幸にも産まれてしまい、運が良ければ楽に死ねる程度の命なのである。殊更猫だと声高に宣言する事にいったいどのような意味があるのか。産まれ落ちて死ぬ存在ではないか。そうまでして猫であると主張する意義はなんだというのか。私にしてみれば、我輩は猫である。だからどうした。である。これ以上の進展はない。
件の書に記された猫には名がないらしい。大変遺憾であるが、私にも名はない。
差し迫って必要というわけではないし、先の通り、生物は単なる命に過ぎないわけであるから、呼び名を取り決めるという事自体がナンセンスであるように思える。産まれ、生き、死ぬばかりである存在に、一々お前は何々だと定立させる意味がどこにある。死ぬまでの過程など凡そ無価値。いや、死して尚も命に値打ちなどつかぬだろう。そんなものを呼ぶのに態々名などいらぬ。あれ。とか、それ。で十分だ。そういえば先日、物言わぬ犬が仰々しく
「小難しい事を考えるんだな」
何かの声が聞こえる。これは私に向かって言っているのだろうか。随分馴れ馴れしい。
「別に呼びたいように呼ばせてやれよ。あんたの言い方を借りれば、皆産まれ、生き、死ぬだけなんだ。なら、それぞれ好きなように生きたって悪い事はないだろう。名を付けて呼ぼうが、それは自由だ」
烏だ。私の前に、烏が一匹。無礼にも頭を超えてやって来たのだ。私の独り言に介入してくるばかりか、言葉まで拝借するとは何たる破廉恥。これは物申さねば気が済まぬ。
「君はなんだ。突然話しかけてきて。恥を知らないのか」
知らぬから恥を晒せるのだろうがな。
「なんだい一人遊びだったのかい。俺はてっきり、誰かに向けて話しているもんだと思っていたよ」
軽薄な口調。烏め、実に気に入らん。だから鳥は嫌なのだ。元来持つ頭の薄弱を微塵も省みないからそんな言葉が出てくる。
「そう邪険にするなよ。俺達みたいなのは稀有なんだ。仲良くしたって、罰は当たらないと思うぜ」
信心もない癖に何が罰か。普段から念仏も祓詞も唱えぬ無神論者め。
「生憎と生まれつきの翼しかなくてね。経典をめくろうにも、こまねく手もないんだ」
戯言を言う。まったくくだらん。
「冗談が通じない奴だな」
小うるさい。たまに同類に会うとこうなるから厄介である。思っている事が勝手に伝わってしまっては隠し事も影で小馬鹿にする事もままならない。実に難儀だ。
「随分とひねた奴だね。そんなんじゃ友達できないぜ」
いらんお世話だ。徒党を組む気など毛頭ない。
「なんだ。犬ってのは元々群れる動物だって聞くぜ。まぁ、何の因果かこんなんになっちまったが、それでも本来備わった習性はあるだろう」
烏が偉そうに語る。貴様の底の浅い知識などで私を括ってくれるな。何が生物としての習性だ。そんなものはない。早々と散れ。
「そうかい。なら、今回はこれでさよならとしよう。また見かけたら声をかけるよ」
二度と顔を見せるな。
……
行きよった。去り際もガァガァとまったく煩い。永遠に消えよ鳥類風情が。これだから羽の生えた連中はどうにも好きになれないのだ。きっと頭が伽藍堂だから宙に浮かべるのだろう。そのままずっと空で暮らしていればいいのに、わざわざ他を見下しに降ってくるとは俗悪極まりない根性だ。次に見かけたらつくねにしてやる。
……
……烏如きに我を忘れてしまった。情けない。戒めねばな。
苛立っていてもしかたがない。私も去ろう。あてはないが、風の吹くまま生きるが野良の本懐。風が止めば死ぬ。ただそれだけだ。明日はなくとも今日がある。今日だけ生きればそれでいい。我が征く道は我が逝く道となり、我が堪える時は、我が絶える時である。今日を生きて明日に死ぬ。命なんてものは、そんなものだ。
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