あの日、僕は受け取らなかった

ぐみねこ

あの日、僕は受け取らなかった

 2月14日。粉雪がふわふわと舞っている様子を見ながら、僕は朝早く、誰もいない校門の前で、息をついた。

 誰もいない……と思っていたから、少し驚いた。


「あ、あの――」


 僕が振り向くと、いつもは遅刻ギリギリで登校してくる高橋さんが、震える身体で立っていた。

 耳元で2つに結んだ黒髪には、雪の白い光が輝いていた。

 彼女のその潤んだ瞳は、真っ白な雪の色を映して、まっすぐと、僕を上目遣いで見つめていた。

 そして、両手に大事に持つ、『甘い香りの箱』を僕に突き出しながら、小さな……だけどはっきりとした声で、こう言った。


「宮本くんが、宮本唯くんのことが――」


 ――好き。


 僕は、「……ごめん」とだけ言って、『甘い香りの箱』も受け取らずに、教室へ向かった。


 □■□■□■□


「バレンタイン、俺、女子からなんにももらってねーわー」


「そんな大声で言っても私はあげないからね」


「チョコレート皆の分作ってきたから、ここから好きなの選んで!」


「おーまじか!」


 いつもより盛り上がりをみせる放課後の教室を、僕は他人事のように見ていた。

 実際に他人事だし、仕方ないのだけど。

 そして、逃げるように廊下に出た。

 クラスメイトの楽しそうな会話は、僕の耳には痛かった。


「なんで、なんでお前は、俺よりなんでもできるんだよ。俺だって頑張ってるんだよ!」


 陸上部の中学最後の大会で、僕は優勝してしまった。その時はすごく楽しかった。けど……。

 中学の頃、元友達の武内海人に言われたその言葉で、僕は気づいてしまった。

 僕は、周りの頑張っている皆を、不幸にしてしまうことに。


 幼い頃から物事のコツとか本質を掴むのが得意で、何をやってもすぐにできてしまうのが僕だった。

 勉強も一回授業を聞いただけで理解して、テストで満点を取ることができた。

 音楽に興味を持った時は、約半月で曲を作れるようにまでなってしまったり、絵を描くのに夢中になった時は、夏休みの課題で優秀賞をとったり。


 でも――。


 だからこそ、僕は人と関わるのが怖くなった。

 武内海人の、中学最後の陸上での人生を、壊してしまったから。

 彼は優勝を夢見ていただろうに、僕のせいで、優勝できなかった。

 当の僕は、ただ楽しみたいだけで、それだけの理由で彼のがんばりを無駄にしてしまったんだ。


 僕は、本気で何かをすることが、できなくなった。

 僕は、他人と関わるのをやめた。 


 彼女を振ったのも、そんな理由だった。


 □■□■□■□


 朝降っていた粉雪は幻だったのではないかと思わせるほど、空は青い空が広がっていた。


「ねえ」


 帰り道、僕を呼び止めたのは、石神玲だった。確か、高橋さんの友達。


「なんで、チョコ受け取らなかったの。あんたのために、凛音はがんばったんだよ。なのに」


「僕は、誰とも関わりたくないんだ。高橋さんに、そう言ってよ」


 僕はそれだけ言うと、呼び止める石神さんの声に聞こえないふりをして歩き出した。

 

 しかし、歩き出したのも束の間、もう一人の人物に、僕は呼び止められてしまった。


「唯っ!」


 僕の目の前に、武内が立っていた。

 高校生になってからは、一度も会っていなかった武内が、僕を待ち伏せしていた。


「武内……」


 僕は、あの大会の日の情景を思い起こす。

 僕が、彼の夢を踏みにじってしまったあの日、僕たちは、友達ではなくなった。


「勝負しようぜ。百メートル走で。俺、今度は絶対に負けないから」


 武内は、すぐそばの公園を指差した。百メートル走ができるくらいは広い公園。

 通り道は塞がれているので、僕に選択肢はないのだろう。


 □■□■□■□


「もう一回だ」


 走り終わると、武内は無感情にそう言った。


「いや、武内の方が絶対に速かった。勝負は終わったはずだよ」


「情けはいらねえんだよ」


 武内は、僕の目を睨む。あの日の恨みがまだ、晴れていないのだろう。


 しかし、何度勝負をしても、武内は納得せず、「もう一回」と言うばかりだった。

 武内は何連勝しても、その一言を言うだけだった。

 武内の足は、だんだんと、ペースが落ちてきている。


「いい加減にしろ!」


 10回目の勝負を終えて、武内はついに、僕のことを怒鳴り散らした。 


「何考えてるんだよ。昔のお前、そんなんじゃなかったろ!」


 僕は、何も返せなかった。言っている意味が、わからなかったのだ。


「俺の所為なのか……?」


 何も言わない僕の目をみて、武内は言う。


「明日のこの時間、また勝負しろ。その一回で、終わりにする」


 僕は、公園から出ると、もうすっかり暗くなってしまった夜道の中で、考えていた。

 なんで武内は、あんなに勝負をしてきて、今もなお、納得していない様子だったのだろうか。


 □■□■□■□


「宮本……くん」


 話しかけたのは高橋さん。

 2月15日の放課後、武内との約束のため、教室に残って時間をが過ぎるのを待っていた。

 まさか話しかけるとは思われていなかったので、僕は反応を遅らせてしまう。


「な、何?」


 僕は誰とも関わりたくない。

 そうずっと言って来たのに、高橋さんだけは、いつもクラスで浮いている僕に何度も話しかけにくる。

 それを何度も素っ気なく返してきたのに、彼女はこうやって、いつも僕の前に現れる。


「……チョコ、食べて、ほしいの」


「悪いけど、僕は」


「宮本くん、3年前の夏の、陸上の大会、覚えてる?」


 僕は頷く。その大会はたぶん、僕が武内から優勝を奪ってしまった大会のことだろう。


「私、中学は違ったんだけど……その時の宮本くんに、その、一目惚れ……したの。宮本くんの、走ってるときの楽しそうな顔が、今でも脳裏に焼き付いてる」


 赤面して、聞こえるか聞こえないか……くらいの声で話す彼女を、僕はいつの間にか、ただただ見つめていた。


「高校が一緒になって、クラスまで一緒になった時は、すっごくうれしかった。……なのに、なのに」


 夕焼け色に染まる瞳の奥には、不安とか、哀しみみたいな何かが、入り混じったように揺れていた。


「――どうして、本気になることをやめたの?」


 僕は、その言葉を聞いて、何も言えなかった。

 

「私はね、宮本くんの優勝は、宮本くんの才能だけじゃなかったと思う」


 そうして彼女は、昨日、粉雪の中で僕に差し出した『甘い香りの箱』を、開ける。

 中には、手作りのチョコが入っていた。


「これね、頑張って作ったの。でも、それ以上に」


 高橋さんは、僕の口にチョコを放り込んだ。


「すっごく楽しんで、作ったんだっ」


 チョコレートは、甘かった。口の中でゆっくり溶けていく。僕の内に秘めた感情を、優しく包み込んでくれた。


「チョコ、すごく美味しい。高橋さん、ありがとう。大切なことに気がつかせてくれて」


 僕はそのチョコの入った箱を受け取り、教室を出た。


 昨日、武内が勝負を仕掛けて来たのは、僕に勝つためじゃなかった。

 武内はきっと、僕に負けた日から、恨みを捨てて、努力を重ねて来たんだ。

 そして。


 ――本気で楽しむ僕と、もう一度戦いたかったんだ。

 

 勝ちたいんじゃなくて、楽しみたかったんだ。


 彼女のチョコが教えてくれた。

 だから僕は、もう一度チョコを含んで、公園に佇む武内ににっと笑ってみせて、こう言った。


「絶対に負けないよ」


「ああ。俺だって、負けねえよ」


 もう一度、武内と友達になれた、そんな気がした。

 チョコを手に持つ彼女の顔を思いだした。


 ――明日は、彼女に、本当の気持ち、伝えられるかな。

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