弐ノ段 序編 ひとりの私

ひとりの私

 ……清々しい、朝。春うららかなこの季節も、早朝の空気は未だ凜とし、若干の肌寒さを感じさせます。この清廉な空をもっと近くに感じるなら。きっと校舎の屋上は、私の足を踏み入れる事を許された中で、そして最も高き場所ではないでしょうか。

 とはいえ、一般生徒の屋上への出入りは、校則には禁止されていて、許されては……いませんね。そんな、大人の目に隠れて無邪気ないたずらを思いついた様な、そんな不思議な高揚感を抱きながら屋上への階段を昇り……立入禁止の札に躊躇しながらも、意を決して扉を開けます。


 視界には壮大な蒼空が広がり、私の胸の歪を受け入れるかような満足感を覚えます。


 たった一枚の壁を乗り越えることが、どれほど大変か――

 この蒼い空を見るために、どれほどの血が流れ、幾度とない戦があったのか――

 ――私は知っています。


 この国は、花の乙女たちが汗を流し、骨を折り、血を流し、紡いで守って来たのです。

『民を虐げる雲を払い、災いを引き寄せる雨を晴らし、全てを抱擁し優しく照らす日輪を守る』それが立花の在るべき姿と、家では教えられてきました。しかし――

 だからこそ、私は確かめたいのです。もう、臆して逃げるのは終わりにします。

 いずれは立花の全てをかけて彼らと話さなければなりません。私は彼に責任があるとは思えませんが……家は納得しないでしょう。

 その太刀筋は流れた血を洗い流す、恵みの村雨──かつては友好の契りを交わした村雨家。この中でも法によって殺人を許された妖刀を抜いたという──村雨秋人くんと。



 ――散る桜、残る桜も、散る桜、舞い散る様は、吹雪の如く――


 屋上の淵から校庭の桜を眺めつつ、家に伝わる歌を詠みつつ思考に耽ります。

 全てを失い、私を全て包み込んでくれたあの人に再び会うこと――それが私の夢です。

 私は……それさえもできないのでしょうか。その人がいるだろう高き空に近いこの場所でも……どれほど希っても、たとえ私の全てを捧げようとも、また会うことは……叶わないのでしょうか。

 昨晩、研究をしていた疲れもあり、ふと空が見たくなったのは仕方がないことです。

 最近は、ときどき自分を見失いかけます。こんなことをし続けていいのか――と。

 私のしていることは全て無意味なのではと。私の夢は、叶わないのか――と。

 この気持ちを誰かに打ち明けられたら、どれほど楽でしょうか。


 でもきっとそんな人はいないのです。私は――ひとりぼっちなのだから。


 そんな私にここはもしかしたら死に場所に最適なのかもしれません。

 そんなことを考えていた矢先、身体の力が……ふと抜け――


 清く心地よい春風に身を委ねて――


 その中でも視界の太陽は……昇る。昇っていた、はずだったのに――


 ――そのとき、私から太陽は見えなくなった。あの日と同じように――

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