人生を捧げるに値する人
夕日の映える、歴史と趣あるピディアト王国城。
「――国は大混乱ですよ。フルール隊長の死を皮切りに突然帝国との戦争を知らされ、最高潮まで達していた国民の不安がとうとう、先日の魔女騒動で大暴発した」
豪奢な絨毯と調度品、玉座の並ぶ、優雅極まりない謁見の間。
――の直下に造られた、定員一名の地下特別牢。今回初めて使われた。
「エリクとシンシアは魔女の手下と判断され、生かすのも殺すのも不吉なので、オールのない小舟に乗せられて流刑を決行。魔女の呪いを恐れて家に閉じこもる者は多いけれど、魔女狩りを異質な集団心理と捉えて国を逃げ出そうとする者もいる。ついさっき入ってきたニュースでは、暴徒化した民が騎士団に半殺しにされたらしい。
かつての穏やかなピディアト王国はもうない。このままでは戦争など起こらずとも、国は傾く一方です。いっそ帝国の支配に下った方が良いとさえ思えるほど……」
そこまで語ると一息吐き、鉄格子の向こうで気だるげに座る女を見つめ、諦めたような顔をして青年は笑った。
「言うまでもないと思いますが……不気味がって、誰もあなたの処刑を行おうとしない。最もあなたの処刑に意欲的な王子は、彼の手を汚させまいとする王の御意向で軟禁中だ。恐怖は病気よりも早く伝染するって、あなたよく仰ってましたものね。全部思う壺ですか、どうなんです、先生?」
「……先生はよしてくださいな、私は魔女だそうですよ。何ならあなたを今この場で呪い殺しまうかも」
上目に青年を見上げてディアナは口の端を釣り上げた。真白の軍服を着たその青年も、同じように苦笑して冷たい石床に座り込んだ。天井――地上へと梯子で繋がる入り口はわずかに開けられていた。
確かにあの日、二人の親友を逃がすためにディアナは画策した。結婚式を行ったことがバレたら、自身を魔女と言い張り民を騙し、怯えさせ、エリクとシンシアを流刑に導こうとしていた。予想外にそれが上手くいったのは、良い展開でも悪い展開でもある。
まさか自分が内通者の濡れ衣を着せられるだなんて。王子自らがディアナを魔女だと罵ってくれたのは嬉しい誤算だが、あの日の配達員が帝国の諜報員だったというのは非常にまずい状況だ。
――まあ、フルールのいないこの国には何の未練もないのだけれど。
「シスター……先生の説教には何度も救われました。あなたは神を信じていなかったようだけれど、その視点から説かれる教えにこそ意味があったのです。――隣人を愛せ、どんなゴミにも利用価値はある。家族は殺すな、輸血や移植の際に役立つ。神を信じよ、己の信念の試し斬りには偶像が最も相応しい」
「司祭様の受け売りよ」
「先生にはトルマ語も教わりましたね。武器の買い付けに向かう俺の斑は、みんな教会に集まった」
「ああ……あなたは飲み込みが早かったのを覚えてるわ。もしあなたが女性だったなら、あなたも魔女と呼ばれていたかも」
「光栄だ。この国では賢い人間をそう呼ぶようですから」
ディアナが魔女と糾弾されたあの夜から二日が経った。たったの二日で国は大きく変貌してしまった。
制止を振り払って他国に亡命した人数は国民の一割に上ろうとしていた。その全員が、おとぎ話を信じない現実主義者だと言う。残っているのは、言いなりで臆病な者がほとんど。
どうしようかと機嫌を伺うような視線を寄越した青年に、どうぞとばかりにディアナは小首を傾げた。
的確な言葉を探すように、ゆっくりと彼は質問する。
「……予言、というよりは予測だと俺は思っています。……ねえ先生、近いうちに火の雨が降り注ぐと仰ったのは何故ですか? やはりシスタルカの侵攻でしょうか?」
「あの場にいなかったあなたがその話を知っているなんて、随分伝わるのが早いこと。……いえ、あのときは魔女らしいことを言わなきゃと、思い付いたことを適当に言っただけなのよ。ほら期待されてたみたいだし……」
不服そうな青年の顔を見て、ディアナは肩をすくめ、おどけた口調を引っ込めた。
溜息を一つ。手錠のついた両手を膝の上で擦り合わせる。
「あー、その様子ならワインのことも聞いたでしょ? あれはシスタルカの諜報員がうちに置いていったものよ。私を内通者に仕立て上げて、騒動を起こして、この国を混乱させて隙を作りたかったんだわ。きっと諜報員は配達員になりすまして国中を見て回ったはず。どこから攻めるのが最もこの国にとって致命的か観察したでしょうし、逆に無傷で残しておきたい価値のある場所を探したりもしたでしょう」
「密偵というわけですか」
「そう。シスタルカが慎重な国だということは、副業で見てきた文書でお勉強したわ。……これまでに近所の各国がどんな風に落とされてきたかご存知? 西のオロビア共和国は貯蔵庫に爆弾を仕掛けられて、大規模の飢えをしのぐためにシスタルカの保護を受け入れざるを得なくなったそうよ。北にあったリンフィシル公国も、国の重要機関である議事堂を焼き払われたそう。ダンウジグランド、チュロス諸島、コンスチスもみんな同じような手口。――共通点は分かるでしょう?」
「……被害人数を最小限に抑えて、国を無力化している?」
「さすがだわ秀才さん! ええ、人を殺せば支持が下がるけど、血を流さずに国を陥落させられる王には誰もが従うわ。敵う相手じゃないって。旗下に置いた後は従わせやすくなる。つまりこの国も例外ではないのだとしたら、ターゲットになる候補は二つに絞れるわ。一つ目は王城のだだっ広い中庭。芝生がよく燃えることでしょう。二つ目は港の封鎖ね。港からの貿易を阻止すれば、大陸の端にある我が国は隣国に従わないと飢えてしまう」
「でしたら教会は? 比較的人が少ない――」
「ねえこの格好見て仮装だと思う? 私、そこを守るためにシスターをやってたの」
ごめんなさい、と彼は素直に謝った。青年が誠実でちょっと天然な節があるのは、二週間のトルマ語勉強会を経てよく知っていた。「別に怒っちゃいないわ」ディアナは口を尖らせて言った。ポーズだけで、本当に怒ってはいなかった。
「あの……どうして諜報員はわざわざ教会にワインを置いて行ったのでしょうか? いや、そうじゃないな……」
少しの沈黙が永遠のようだ。青年の沈黙で、空気中を気体が流れる音が、地上の人々のざわめく声さえもが聞こえる気がした。
目を閉じてよく耳を澄ましたところに、再び青年の声が飛び込んできた。「先生は――」ディアナは目を開く。
「先生は、どうしてワインを片づけなかったのですか? あなたならアレを持ち続けていれば、いずれあなたが内通者だと濡れ衣を着せられると勘付くことはできたでしょう」
「もちろん、少し楽しんだらさっさと片づけた方が良いって思ったわよ? でも、あー……」ばつが悪そうにディアナは視線を逸らした。「恋人がね、予想外のタイミングで訪ねてきちゃって。いちゃいちゃする方を優先しちゃったの。そしたら頭から抜け落ちちゃって」
恋人、と青年は顔を赤らめた。
「恋人って……! じゃあやっぱりあの噂は本当だったんだ。フルール隊長とシスターが」
「ん、待って何その噂――」
――きゃああああ!
鼓膜に痛い女の悲鳴。小雨が大雨になるように、悲鳴は瞬時にその数を増していった。
「火事だ、焼かれるぞ! 早く逃げろ!」
地上に繋がる出入り口から、そう叫ぶ男の声が聞こえた。
赤面していた青年が一瞬で顔を青ざめさせる。ディアナは鼻を鳴らした。
「ビンゴ。中庭の方だったみたいね」
「先生、早く逃げましょう! 今鍵を取ってきます」
「私ならここでのんびりしてるわ」
「何を言ってるんですか!」
「どうしてワインを片づけなかったかって聞いたわね。この方が安全だったからよ。シスタルカが私を守ろうとしてるみたいだから、身を任せようと思って」
三歩走った青年が足を止め、ディアナを振り返った。
ディアナはくつろぐように両足を伸ばし、つま先をブラブラと揺らして見せる。
「地下牢には火の手が届きにくいわ。つまりシスタルカが私に内通者の汚名を着せようとしたのは、私を地下牢に投獄させて安全を確保した上で火を放ちたかったから。私に――いえ、あの教会に価値があると気づいたから、私を生かしていろいろ聞き出したいのでしょうね。目ざといこと、司祭様の遺した遺産に気づいたのよ」
「遺産? それって一体――」
どんっ、と何かが崩れ落ちる音がした。地上の方からだ。悲鳴が増す。
「さ! 分かったらあなただけでお逃げなさい。下手に国を出ようとするより、助けを求める方が安全でしょう。母国への不満を訴えて泣き叫べば、大勢集まってるシスタルカの方々に保護してもらえるはずよ」
駆け寄ってきて格子の間から伸ばされたその手を、ディアナは両手できつく握りしめた。
「……っ、先生」
「元気で。きっと手紙を書くわ」
どちらからともなく手を離す。
背を向け走り出した青年が鉄梯子を昇り始めたとき、不意に彼が「あ!」と叫んだ。
「え、何?」
「ああ、いえ……今更なことを気づいてしまって」
「何?」
「いやでも、これを言うと先生――」
「いいから言って気になるわ」
腑に落ちたと言わんばかりの顔でディアナを見ると、彼はやや照れ気味に語り出した。
「先生なら魔女と糾弾されても論破できそうなのに、どうして否定しなかったんだろうと思ったんです」
「ええ、だから、親友を逃がすために……」
「それもあるけれど。――もしも噂が本当だったとしたら、義理堅いあなたは、フルール隊長の戦死に責任を感じたから、王子の言葉に反論しなかったのかなって」
――僕と婚約するはずだったフルールをそそのかしてみすみす戦死へ追いやった!
ミッシェルの言葉を思い返す。ああ、とディアナは目を丸くした。確かに――自分でも意外だったのだ。ずる賢い、悪知恵だけが働くこの自分が、どうして親友のために命を張って汚名を着て見せたのかと。
だけど、そうか。これは親友のためなどではない。自分の中にある、亡き恋人へ未練だ。フルールの人生の可能性を全て奪ったことへの、喜びと紙一重の、贖罪の念。
フルールがディアナのために命をかけたように、自分も誰かのために危険を冒したかった。
「……無駄口を叩いてないでさっさと行けば?」
「フルール隊長はいつもあなたのことをお話しになっていましたよ。勘違いしないで、あなたは彼女の自慢であって死因じゃない。もちろん僕にとっても自慢の先生だ。どこに行ったって手紙を書きます。――どうかお元気で」
***
青年が地上へ出て行ったのを見届けて、ディアナは膝に顔を埋めて長い長い溜め息を吐いた。自分でも気づかない本音を他人に暴かれるのは、正直言って、ものすごく恥ずかしい。
ただ、エリクとシンシアの流刑が決行されたのは嬉しいことだ。敏腕で有名なベル・リカーは弟思いな女性兵士だから、きっと船底にでもオールがこっそり引っ付いていることだろう。
赤面しながら気の抜けた笑いが出る。恥と安堵を唾で飲み込み、唇を舐めてディアナは立ち上がった。
「……ねえ! ちょっと! ここに逃げ遅れた人がいるわよ! 助けて!」
地下牢の中、格子を叩いて叫ぶ。自分の声だけがこだまし、誰からの返事もない。よく耳を澄まし、周囲を注意深く見まわす。
「…………誰もいないわね? ――よしっ」
ディアナは教会にある遺産の話をしたが、それは嘘だった。埃を被った古教会に、シスタルカ帝国の欲しがるようなものはない。あの誠実な青年をさっさと出て行かせるためのハッタリだ。
つまりこのまま牢にいても誰も来やしない。餓死か、上から降りてきた煙で死ぬ。もしくは、恋人の仇である帝国軍に見つかるか……。無論、そんな運命は御免である。
もう一度周囲を確認する。誰もいないのを再確認して、ディアナはおもむろにワンピースをまくりあげた。腿にくくりつけられた恋人からのお守り――青いガーターベルトに震える手を伸ばす。
「ははっ。情けないわねディアナ。今更になって怯えるなんて」
一人でこれを使うのは初めてだった。前に練習したときはフルールがいた。
いつだか「お守りだよ」と言って渡された、実弾の込められた白銀のリボルバー。ガーターとお揃いのホルスターから引き抜いた。
「光栄に思うことねフルール。あなたを誰より愛してる」
両手で銃を握り込み、撃鉄を起こす。構える先は――施錠部分。ディアナは覚悟を決めた。
「恋人に捧げる命だもの――少しでも多い方が良いに決まってる」
刹那、鋭い音が響き渡る。耳殻を貫くような異音と共に、牢の鍵が壊された。
残り五発の弾丸で、必ず生き延びてみせる。
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