それは天使か死神か
「チッ! 言うことを聞かんかこの駄馬が……」
王城の奥から煙が上がっている。
帝国軍が国境を突破し、中庭が燃やされ、国民たちは逃げ惑う。混乱と恐怖に慄く人の波をかき分け、たどり着いた兵舎の厩で男は舌打ちした。その周囲にはすでに人がいない。皆、王城の逆方向へ逃げて行ったからだ。
男がなぜ人の流れに逆らいここへ来たかと言えば、馬を盗むために他ならない。混乱に乗じ、馬で逃げる。厩の予備鍵を持っている役人だからこそできることなのだ。
「ほら、言うことを聞け! お前も焼け死にたくはないだろう。ほれどうどう……」
「動かないで」
背後からの声にぞっとした。背中に突き付けられた硬い筒状の感触に、脂汗を浮かべながら男はゆっくり首だけで振り返る。小柄な赤毛の女が、手錠のかけられた両手で握り込んだリボルバーを、今まさに自分の背中に突きつけていた。
先日、自らを魔女とのたまった傲慢な女である。帝国の内通者だと王子が騒いでいた。
予言とはよく言ったものだ――男は眉を寄せた。隣国から火が放たれることなど、予測できないことではないのに。
「まあ、癖のあるたてがみ。役人さんのお家の子はもっとサラサラの毛並じゃなかったかしら。しかも先月、転んで足折って死んだって」
「おいクソ女、投獄されたんじゃなかったのか」
「はっ。脱獄なんて魔法でちょちょいよ」
涼しい顔で言い放ったが、ディアナはここへ来るまでの間に少なくとも五回はスッ転んでいた。手錠のかかった手で鉄梯子を昇ろうして落ちた回数を含めれば、もっとだ。
――無論、男はディアナの事情など知ったことではない。よって今、彼は不吉の体現者と対峙していることに他ならないのだ。
両者共に冷や汗を浮かべる中、馬がいやいやと首を振る。
「嫌がってるじゃない、その仔を放しなさいな」
「ハッ、こいつは火事で捨てられたのさ。それを俺が拾ってやった。つまり今は俺の所有物――」
がちり。撃鉄が起こされる。男は顔を歪めて馬から身を引いた。
「っ! てめえ!」
「何も強奪する気はないわよ。私が買ってあげるって言ってるの」
男を銃で脅して遠ざけると、ディアナは首から乱暴に外したロザリオを男に放り投げた。銃を仕舞って慣れない動きで不自由そうに馬に跨り――というよりはしがみつき――ディアナは吐き捨てる。
「純金よ。ダイヤも4粒。安心してお釣りはいらないから!」
馬を走らせる中、遠ざかる男の怒声が耳に届いた。
「ふざけんじゃねえ! こんなときに純金なんて、何の役にも立ちゃしねえ!」
***
燃えているのは王城だけのようだった。火は派手だがそんなに大きくはない。だが人々を惑わすのには十分だろう。
悲鳴の中、馬に揺られながらディアナは人気のない図書館の裏道へと進んだ。先には確か森があったはず。
「……さて、利用された身としては、帝国軍に見つかればただじゃ済まないわよね、口封じで殺されるかも。どうしたものかしら……ひとまず国境を越えて――」
「ヒヒーン!」
「ぎゃあっ!」
童話のように鳴いた馬に、呆気なく振り落とされた。馬は主人以外を乗せることに不服だったようで、上手くいなせなかった。そもそも、ディアナの乗馬の才能は壊滅的だった。
「クソッ……痛いじゃないこのクソッタレ! 何よ私じゃご不満? さっきのハゲよりは軽くてマシなんじゃないの! ねえ!」
引き返して走り去っていく馬に罵声を浴びせ、ディアナは下唇を噛んだ。今になって目頭が熱くなってくる。足を捻ったか折ったかしたらしい。クソ、と吐き捨てながら鼻をすすった。みっともない、痛い、心細い。見て見ぬふりをしてきた感情が、ここにきて渋滞を起こし始める。
――生き延びて見せると、誓ったばかりなのに。
「……馬なんてどうやって乗りこなしてたの? もっと教えてもらうんだった。銃だけじゃなくて、いろんなこと……」
勝手に弱音をぶちまける口に辟易しながら、ガクガクと震える足を引きずって立ち上がろうとした。腰が持ち上がらず膝から崩れ落ち、もう一度立とうと両手を地面についたときだった。
馬の、蹄の音が聞こえた。ハッと息を飲み、顔を上げる。嫌な色をした煙の中、馬に乗ってこちらへ向かってくる姿が見える。……その真白の軍服には、確かに見覚えがある!
有り得ない、と思いつつも、期待に胸が跳ねる。唾を飲み込んだ。
だって戦死したと言われても、ディアナは彼女の遺髪しか見ていない。
「フル――」
「シスター!」
馬の上でそう叫んだのは男だった。間近まで迫ってきたその姿を見て、ディアナは肩を落とした。馬は先ほどディアナを振り落した駄馬だ。つまり彼はこいつの主人。一瞬でも亡き恋人の幻想を期待した自分に舌を打つ。
ところで、駄馬の主人は見覚えのある男だった。
「あなたはええと、確か第三隊の」
「そうだよシスター。俺はフルール隊長にお世話になってて、何度か会ったよね。――俺、火事から逃げようとしてたんだけど、厩に繋ぎっぱなしのこいつが気になって、そしたら丁度こいつが走ってくるところだった。……もしかしてシスターが逃がしてくれたのかい?」
「え? あー、ええ! まあね……」
火事場泥棒から横取りした、とはもちろん言えない。
男は無邪気に喜んだ。
「恩人だよ、ありがとう! シスターは大丈夫だった? 投獄されたんだよね」
「平気よ、この通り。……あの、兵隊さん。一応、脱獄をしたんだけど、私」
「はは、脱獄だって? 濡れ衣を着せられただけじゃないか。知ってる人は知ってるよ。シスターはこの戦争で生まれた怒りの、矛先にされただけだって。シスターの功績は魔法じゃなくて医学だし、呪いじゃなくて予測だ。それを分かってない奴らだけが、シスターを魔女だと思い込んでる」
「もしかしてフルールが言ってた?」
「え? ああ、隊長……」
男が顔を曇らせた。何か妙だ、とディアナは思う。彼が、戦死した仲間の名前を聞いて悲しむ顔をしていなかったからだ。
男は馬から降りると、ディアナに手を伸ばした。
「さ、早く乗ってよシスター。一緒に逃げよう」
「……? いえ、いいわ大丈夫。私はその子に好かれてないみたいだし、一人で――」
「何を言ってるんだ! こんな状況、シスターが一人で逃げ切れるわけないだろ? ああ、フルール隊長がいなくなって心細いのは分かるけど、安心して。今度は俺がシスターを守るよ」
やはり妙だ。
「結構よ。私は足手まといになる、自分の命を優先して」
「やっぱりフルール隊長じゃないと嫌だって!?」
怒号。ディアナは怯えたり驚いたりせず、ただ苛立たしげに顔をしかめた。
「……急に大声を出さないで欲しいんだけど」
「どうしてフルール隊長なんだよ! 彼女はもう死んだ、いないんだ。いつまでも固執したって仕方がないそうだろ? 大丈夫だよシスター、今度は俺がいる。俺は男だから隠れてキスする必要もないし、結婚だってできるし子どもだってつくれる」
「ラリってんのかしら。私とフルールが何ですって?」
「知ってるやつは知ってるさ。フルール隊長は分かりやすいし、シスターもクールぶってるくせに意外と顔に出やすい。そんなとこも可愛いと思ってるけどね。――さ、シスター早く乗って」
「私はあなたと恋人にならないわ」
「それは俺が決めることさ!」
男が腕を掴んで強く引っ張る。引きずられるように無理やり立たされ、足が疼いた。
「いたっ。ちょっとやめ――このクソやろ」
クソ野郎、とディアナが言い終える前に銃声が響き渡った。乾いた音がしたと思ったら、目の前に赤いものが飛んでいた。血だ。開いたままの男の目が輝きを失い、そのまま横向きに倒れ伏した。頭を撃ち抜かれている。すでにそれは死体で、ディアナの視線に反応しない。
馬は森へと逃げて行った。
茫然として、次に撃たれるのは自分かと――銃声のした方へ顔を向けると、よく見知った金髪の女が銃を片手にこちらを見ていた。彼女を乗せる馬にも見覚えがある。
「――遅れてごめんね、ディアナ」
女はディアナの前で馬を止めると、フルールに良く似た声と顔で申し訳なさそうに言った。いや、似ているとかのレベルではない。本人だ。こんな女、ディアナはフルールしか心当たりがない。
「………………は?」
目の前で馬を降り、自分の脇の下に手を入れ持ち上げるフルールを唖然と見つめた。開いた口が塞がらない。
「大丈夫だった? ごめんねうちの馬鹿が絡んで。あ、いや、そうじゃないよね。うん、色々心配させてごめん、君を一人にしちゃったこともそうだし、その……」
馬に乗せられたところで、ようやくディアナは言葉を発する。
「あ……え……? フルール?」
「うん、きみのフルールだよ。迎えに来たんだ。詳しいことは後で話すから、とりあえずついて来てくれると――」
「……っは、ははは」
「え? ディアナ?」
ディアナは自分を賢い女だと自負していたが、正確に言えば博識なだけの、イレギュラーに弱く驚きやすい性格をしていた。不測の事態が起こると混乱してしまうのだ。
死んだはずのフルールが、落馬してふてくされていた自分を迎えに来たと言う。しかも、よく分からない理屈でどこぞへ連れて行こうと言っている。すぐ横には血なまぐさい死体。
この事実を、パニック状態のディアナの頭脳がどう受け止めたかと言えば――
「はは、なるほど。私ったらとうとう死んじゃったのね」
――落馬した自分は死んで亡霊になり、それを亡き恋人が迎えに来た。つまりここは地獄。死体が転がっていても不思議じゃない!
「………………え?」
天使か死神か――ディアナにとっての美しい亡霊が、あからさまに呆れた声を出した。
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