ディアナ・ヴァレンタインについて


 同日、薄ら暗い夕刻のこと。

 舞踏会のきらびやかな照明を窓から漏らすピディアト王城の、ちょうど対極側にある小さな港のすぐ傍に、その教会はあった。


「ではこちらにサインをお願いします」


 郵便物を両手に抱えて訪れた国際配達員は、いつもの日焼けした男性ではなかった。

 シスター・ディアナは教会を背に、受領のサインをペンで走らせながら配達員を見上げる。ディアナよりも少し背の高い、腕まくりをした健康そうな女性だった。髪と瞳はシルバーグレー。


「いつもお疲れ様です。…………あの?」


 サインを終えたというのに、配達員は郵便物を寄越さない。

 ディアナが怪訝そうにアイスブルーの瞳を細めると、配達員は気まずそうにおずおずと声を発した。


「すみません私、新人なものでして。……地図を見て歩いても道に迷ってしまったんです。それで町の人に聞いたら、シスターに教えてもらうのが確実だって……」


 配達員から見せられた地図は、なるほど確かに古いもののようだった。今は工事や改築、森の開拓でピディアト国内はすっかり地形が変わっている。


「簡単なものでよろしければ、お城までの地図をお書きしますよ。中でお待ちになりますか?」

「本当ですか? ありがとうございます!」


 配達員を教会の中に入れ、適当な参列席に座らせる。ディアナは祭壇の上で地図を書きながら彼女に声をかけた。


「もしかして、先輩が急用でお仕事をお休みに?」

「すごい! どうして分かったんですか?」


 こいつアホなのかな、とディアナは思う。アホなんだろうな、とすぐに思い直した。


 国王が根回ししているから民には知られていないが、このピディアト王国がもうじき戦争によって陥落することをディアナは知っていた。

 懺悔にやってくる騎士団の兵がよく嘆いているし、騎士団で隊長を務める幼馴染が言っていたことだ。

 そんな戦争のにおいを、いろんな国を飛び回る国際配達員が嗅ぎ分けられないわけがない。


 ――戦争中の小国に郵便物を運ぶためだけに、命を危険に晒したいとは思わないだろう。


 つまり今教会の中でのんびり座って地図の完成を待っている配達員は、まだ物が分からぬ新人で、いち早く危険を察知した先輩に危険な仕事を押し付けられたに違いない。


「うふふ、神様のお告げでしょうか」


 地図に役所の位置を書き記しながら言うと、配達員が得意げに囁く。


「誤魔化さないでくださいよ。魔法、なんでしょ?」


 ディアナは顔を上げる。


「大丈夫、その辺の引き継ぎは先輩からバッチリ受けてます。教会のシスターは魔女だから、くれぐれも気を付けろって」


 にこりと笑った配達員の顔。

 ――前言撤回だ、こいつはただのアホではない。詰めの甘いアホだ。


「クソ」

「え?」

「ん? 何か?」

「え? ……あれ、いえ、空耳のようで」


 小首を傾げてから、配達員が話題を変えた。


「シスターの噂は有名みたいですね、さっき港のご主人から聞きました。彼の息子さんが発熱したときにちょうど病院がお休みで、シスターに相談したら魔女の秘薬を貰って一日で治ったんだって」

「うちの庭で育てている薬草を調合しただけですよ。東洋の伝統医学に倣ったものですが……この国では馴染みがないからって、不思議な噂がたちましたね」


 地図にでたらめを――役所の隣の建物に、「食糧庫」と書き足しながらディアナは答えた。本当は廃倉庫だ。


「でもでも、ここへ来る途中に挨拶したパン屋の奥さんは、教会でシスターに謎の呪文を唱えられたそうです。それを聞いていたら頭がぼんやりしてきて、気づいたら体の疲れが取れていたんですって!」

「育児ノイローゼで不眠にお悩みのようだったから、入眠効果のあるお香を焚きながら眠くなるお話をしたんですよ。細菌学の論文について。興味のない方からすれば呪文でしょうね。一眠りしたらスッキリされたご様子でした」


 王城の奥に中庭を書き足す。これは事実だが、配達員にとっては要らないはずの情報だ。


「うー……じゃあこれは? 鍛冶屋の旦那さんのお話! ただ教会でお祈りしていただけなのに、シスターに浮気を言い当てられた」

「タータンチェックのハンチング」

「え?」

「彼が教会に来るなり、私以外に人がいないのを確認して、ポケットから取り出して被ったんです。彼のでも夫人の趣味でもありません。人に見せたがらないプレゼントを身に付けて、腕時計をちらちら確認――待ち合わせをしてらっしゃるなら、こう声をかけるべきでしょう。神があなたに運を授け、密会が成功しますように」


 むああー、と不思議な声を上げ、配達員は唇を尖らせ不服そうにディアナを見た。


「種明かしだなんて夢がないなぁ。みなさん口を揃えてシスターのことを魔女と呼んでいましたよ? 私もそうだと思って期待していたのに」

「これは失礼。想像ほど楽しい娯楽もありませんものね。私もちょうどあなたのことを想像していたところです。――諜報員か、盗人か」


 声色一つ変えることなく放ったディアナの言葉に、配達員は明らかに顔色を変えた。

 書き終えた地図を丸めて紐で結び、座ったままの配達員の元へ歩み寄る。


「おっちょこちょいな新人配達員さん。もう一通、私に届ける予定の封筒がありますでしょう? 藍色の鷹のシーリングスタンプが押されているものですよ。きっと高値で取引される情報が入ってる」


 しかし顔色を変えたのは一瞬だけだった。配達員はすぐに驚いた顔をして、忙しなく鞄を漁って申し訳なさそうに一通の封筒を取り出す。


「……ごめんなさい、すっかり失念していたようです。でも他意があったわけでは」

「あなたの先輩は東洋人で、私を魔女とは呼ばず、呪術を操る女狐と呼んでいました。それなのにあなたは私を、魔法を使う魔女だと最初から呼んでいた。おかしいですね、引き継ぎがあったのに?」


 即座に立ち上がろうとした配達員の眉間を、ディアナはちょんと人差し指で押した。てこの原理を応用した簡単なトリックだ。しかし配達員にはそれが分からなかったらしい。重心が移動できず立てなくなったことに驚き、わずかに怯えた様子だった。

 ――てこの知識が要らない職業なのか、それとも教育を受けられなかったばかりに、情報を売買して生活せざるを得ない人物なのか。

 少なくとも研究者や学者ではない。


「その制服もあなたの体に合っていない。ブーツを脱いだり袖を下ろしたりなさらなくても、肩や膝の部分を見れば、縫い目と折り皺の位置がずれているから分かります」


 身の丈に合わない制服を着ているのは、彼女が正規のルートで配達員に就職していない証拠だ。

 たくさんの可能性があるが、ディアナは敢えてその中から殺人を選択する。配達員を殺して成り済まし、配達物を奪おうとしたのなら面白いサスペンスだ。


 さて、本来なら悲鳴を上げたり通報したりするべきなのだろう。しかしディアナはそれをしなかった。意味もメリットもないからだ。


「ああ、警戒なさらないで? 聖職者は訪れた方の秘密は他言しません。浮気だろうと、騙しだろうとね」


 眉間から手を離しても、配達員はもう立ち上がろうとしなかった。

 ディアナは指に切り傷のあるその手から封筒を抜き取り、代わりに丸めた地図を握らせる。


「簡易的なものですがどうぞ。小さな国なのでごちゃごちゃしていますが、お城とお役所の位置さえ分かれば大丈夫です。センスのない建築デザインなので、きっとすぐ見つかりますよ」

「……シスター、これを」


 配達員は沈んだ声で鞄の中から瓶を差し出した。シンプルなラベルに包まれたワインだ。

 ディアナは楽しそうに口角を上げる。


「聖職者の口を酒で封じようと?」

「シスターはお酒がお好きだと聞きました。丁度持っていたので、せめてその……気を良くしてくれたらと、今思いついて」

「これも盗品かしら。それとも毒入りで、口封じかも……」

「まさか!」

「ふふ冗談ですよ。――配達員を殺して成り済ますのは、情報を持ち帰りたいからか、それとも売ってお金にしたいのか……。今夜の晩酌は退屈しなさそうです。大丈夫、どうせ翌朝には忘れていますよ」


 防犯意識が好奇心に負けて、ディアナはワイン瓶を受け取った。

 彼女を見送ったら、こいつに毒があるかどうか調べよう。奥にしまっていた顕微鏡を引っ張り出してこなくては。もし毒がなければ味と香りを堪能したい。あるなら培養。

 知識欲に胸が膨らむ。


 気まずさを感じたのか、配達員はすぐに教会を後にした。出る間際、慣れた手つきで祭壇に祈りを捧げていた。

 ――初めて見る祈りの作法に、彼女がこの辺では馴染みのない宗教の信仰者なのだと、ディアナは考えた。


 玄関まで見送りに出ると、すっかり空は暗く街は静まり返っていた。騒いでいるのは王城だけ。すっきり晴れ渡った夜空に星座が映える。

 地図を持ち上げて礼を言った配達員は、ディアナに背を向けた後、もう一度振り返って訊ねた。


「あの……シスターは何者なんですか? どうしてシスターの元に機密情報が?」

「副業で翻訳家をしているんですよ。お布施や寄付だけでは教会を維持できませんので」


 翻訳家はもともと、前司祭の副業だった。信仰心の強くないこの国で、古い教会を維持するための資金は上手く集まらない。そこで彼は司祭の他に、郵送で文書の翻訳を請け負っていたのだ。

  彼が亡くなってからは、その仕事も含めて教会での役割をすべてディアナが受け継いだ。


 ディアナは幼少から旅商人の両親に連れられて各国を渡り歩いていたので、語学に長けていた。

 両親を失い前司祭に拾われてからは、博学だった司祭のもとで語学力を伸ばし、多国語の翻訳をこなせる程度の能力は身に付けたのだ。


 納得したのかしていないのか「なるほど」と配達員は呟いた。


「道中お気をつけて。あなたの旅路に神のご加護がありますことを」


 首から下げたロザリオを握り、ディアナは配達員を見送った。

 その背中が見えなくなるまで暗闇を眺め続け、細く長く息を吐く。

 

 分かってはいたことだが――戦争が近い。改めてそう感じた。

 諜報員が潜入したのであれば侵攻の予兆、盗人が入ったのであれば国の傾きが嗅ぎ付けられている――早い話が、なめられている証拠だ。

 もう一度クソ、と呟きかけたのをぐっと堪える。聞かれてはまずい。ディアナにはくだらぬ戦争よりも優先すべきことがあるのだから。


 んっん、と咳払いをする。


「……こんな夜更けまでご苦労様です、隊長殿?」


 気のせいを覚悟して声をかけると、その陰からのそりと金髪頭が出てきた。気のせいではなかった。――やった!


「あちゃー、ばれてましたか」


 夜空に浮かぶ月というよりも、深海に潜む危険生物のような双眸をこちらに向けてフルールが隣に並ぶ。

 ディアナの認識が正しければ、彼女はディアナたちが教会から出てきたときにはすでに潜んでいた。


「こんばんは、シスター。先ほどの方はどちら様?」


 う、とディアナは顔をしかめる。柔和な笑顔の下に視線を滑らせて、艶消しされた小型拳銃が握られているのを見つけたからだ。腰には細身の剣。

 先ほどの配達員が頭から血を流して倒れている姿を想像し、ディアナは肩をすくめる。


「国際配達員の方ですよ。新人さんだそうで、簡単に地図をお書きして差し上げたところです」

「こんなタイミングで新人が? んー、あまりむやみに知らない人を入れちゃあだめですよ。国に唯一の聖職者に何かあっては――って、ちょっと」

「懺悔ならこちらでお聞きします、隊長さん。早くお入りになって?」


 言いながら、さっさと踵を返してディアナは教会に片足を入れた。むっとした顔を浮かべたものの、フルールは大人しく着いてくる。

 彼女を中に入れてから玄関扉に三つの鍵をかけた。上から順に南京錠、ナンバー錠、マグネット錠。

 最後に備付のシリンダー錠を施錠し、四つの強固な鍵で教会は閉ざされた。


 懺悔とは名ばかりの、単なる逢瀬である。


「ねえ――」待ちわびたとばかりにディアナが施錠を終えて振り返ると、とある参列席の前でフルールが顔をしかめていた。その視線の先には一本のワイン瓶。

 こちらなんて見てもいない。


「さっきの配達員から? 変な物でも入ってるんじゃないの? 毒とか」

「はー。……あのねえ」


 久しぶりに会えたというのに、自分よりもワインを気にかけるなんてどうかしている。この馬鹿女!

 不機嫌にずかずかとフルールの背後を通りすぎ、祭壇に行儀悪く足を組んで腰かける。


「ここは教会よお忘れかしら。神の導きを求めて訪れた迷える子羊を、ひいきして追い返す聖職者がどこにいるというの」


 わざとらしく他人行儀に振る舞うと、フルールが明らかに機嫌を悪くした。


「ああ酷い酷過ぎるよ。わたしは恋人に会いに来たって言うのに、シスターの説教を聞かされるなんて!」

「それを言うなら隊長さん? 新米配達員を怪しむ前にその手に握ってる銃を仕舞って、さっさと私の恋人を返してくださらないかしら!」


 お互いににらみ合った後、どちらからともなく吹き出した。

 フルールがワイン瓶に伸ばそうとしていた手を上げ、参ったとばかりにひらひら振って見せる。

 銃をホルスターに仕舞って近づいてくるフルールを認めて、ディアナも首に下げていたロザリオをポケットに仕舞った。

 ウィンプルとベールを取り去って床に放り、隠していた長い赤毛を肩から流し、ディアナは手を伸ばす。


「おかえりなさい、フルール」

「ただいま、ディアナ」


 祭壇に手をついたフルールの、前のめりになった首に手を伸ばす。金色の頭を引き寄せると、噛みつくように唇が合わせられた。

 ちゅ、とリップ音が静謐な教会にいやに響く。無遠慮に差し込まれる舌。応えようと唇を開く。頭が痺れそうだ。のけ反る自分の背中を支える、彼女の手。


 実に三か月ぶりのキスだった。

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