第16話

下谷長者町に藤助店という裏店があった。

蔵前の大店の家作で、どこにでもある棟割の六軒長屋だったが、店子たちは古くから住む者ばかりで、大家の評判も悪くなかった。

安永五年六月のある日、上野の鐘が四つ打つ頃、この長屋に住む畳み刺しの女房が、木戸脇の井戸に釣瓶桶を下げようとした。

そのとき、水の中に何かが浮いていることに気づいた。

化粧側に手を掛けて暗い中を覗き込むと、それは白髪の散らした芭蕉文小袖姿の女が、水面に浮いている姿であった。

驚いて声を上げると、その女は水面に伏せていた顔を上に回し、にたりと笑った。

それは六十を超えていそうな婆さんの顔であった。

女房はあわてて近所の人を呼び寄せ、もう一度井戸を覗いたが、そこには何も無かった。

近所の者は、

「かわうそにでも騙されたのだろう」

と女房を笑った。

しかし、次の日には大工の女房、その次の日には大工の女房と、長屋の五人の女が次々と小袖姿の婆さんを井戸の中で見た。

そうなると、裏店の者は、気味悪がって井戸に近づこうとしなくなった。

大家も最初は信じなかったが、度々店子から訴えがあるので、放ってもおかれないようになった。

そこで、

「底に何かが沈んでいるかもしれない。ちょっと早いが、井戸浚いをしてみろ」

と命じて、長屋総出で大桶を井戸の中に下ろし、井水を七割ほど汲み干して底を浚ったが、特にそれらしいものは何も出なかった。

「井戸中の小袖婆」は下谷あたりで評判となったが、その後は、ぱたりと現れなくなった。

この年の七月から八、九月に江戸で虎列刺病が発生し、この裏店からも五人の死者が出た。

不思議なことに、死んだのは小袖婆を見た女たちの亭主ばかりであった。

 

              <下谷風説集より>


偽江戸怪談の16作目。

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