第14話
信州松代のご城下より南に五里にいったところに、条元という村がある。
そこには「殿様よりも物持ちよ、根垂の蔵にないものは無し」と謡われた、豪農根垂家の屋敷があった。
当主は代々久衛門を名乗り、外出時には佩刀することも許され、周辺の百姓がその門前を通るときは、笠を取り頭を下げるほどの家柄で、田畑は百五十町歩を越えると言われた。
土塀に囲まれた敷地も広大で、主屋の他に、米蔵・味噌蔵・金蔵・宝蔵・新土蔵・裏土蔵の七つの蔵が並んでいたが、北東の塀の脇に小さな「留め蔵」と呼ばれる、八つめの奇妙な蔵があった。
「留め蔵」は、いつ建てられたのかも分からぬほど古く、周囲には築垣が巡らされ、黒い瓦葺、七尺二寸の板壁が四方を囲み、高さ二尺ほどの蠣殻を塗られた戸には、重々しい海老錠が掛けられていた。
日ごろ使われることはなく、卯月の初繭掻きが行われる日に、当主久衛門自身が海老錠を開けて何かを行っているらしかったが、詳しいことは分からない。
村人の中には、「古い貴人の怨霊が封じられている」や「甲斐源氏小笠原の流れを汲む根垂様のご先祖が、山の猪神を納めた」などという者もいた。
明和六年、江戸から下がってきた稲葉風で、当主久衛門と前当主の隠居が次々に急死することが起こり、遠縁の者が婿として十八代目久衛門を継ぐことになった。
新しい若い久衛門は、家の者に「留め蔵」のことを尋ねたが、
「当主の秘事であり、卯月の初繭掻きの夜、三方に載せた鰒、堅魚を蔵に納めていることしか知らない」
というだけあった。
若い久衛門は気になって待つことが出来ず、如月のある夜、家人に黙って「留め蔵」の扉を開いてみた。
すると、真っ暗な蔵の中に光る二つの目があった。
目を凝らしてみると、それは尾が四尺もありそうな大きな黒猫が香箱座りで佇んでいる。
猫はしばしこちらを見返すと、ゆっくりと歩き出し、驚く久衛門の脇を通り抜けていく。
そして、久衛門を少し振り返り、
「この日あること、すえとおらず」
とつぶやき、それからすっと闇に消えてしまった。
この年の卯月に、山より悪鼠が地を覆うほど下り、根垂の田畑を荒らし回り、数年して家も没落してしまった。
村人たちは、
「留め蔵ではなく、子(ね)を止める、止子蔵だったのではないか」
と噂しあったという。
<信州土俗集より>
偽江戸怪談の14作目。
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