第9話

元禄八年九月、御徒組の石川某はまだ暗いうちに本所三つ目の組屋敷を出て、人目に触れぬように洲崎弁天から釣舟に乗った。

「釣魚釣船禁制」のお触れが出て以降、武家の釣りは表立ってすることが難しくなったが、釣り好きの彼は我慢できず、親しい船頭の仁平に頼み、人目に触れぬ時刻に沖に出て、密かに鱚釣りに興じるときがあった。

二人は大川澪を進み、夜明け前には黒鯛洲付近のある釣り場に到着した。

そこは鱚の釣り場で有名であったが、その日は他の舟は来ておらず、薄明るくなった海面を塔見合までを見渡しても、釣りをしている者は無かった

彼は自分で作った三本継ぎの漢竹竿に馬の尾の道糸を付けて鱚を狙い始め、仁平は艫の方でゆったりと煙管を吸い始める。

しかし、この日はどういうわけかまったく当たりがない。

釣り上手の彼には珍しく、日が昇って辰の刻を過ぎても、釣果はまったくないのだ。

やがて、被り笠の間からでも日差しを感じ始めると、彼は日が悪いと思い始め、仁平に陸に戻ることを命じようと振り向いた。

その時、棒杭が五、六本、海面から突き出ているのが目に入った。

これは行きかう舟が、黒鯛洲に乗り上げないようにするための標識棒杭だが、その内の一本に何か白いものが巻き付いている。

「仁平、あれは何だろう?」

彼がそう促すと、煙管を加えたままの仁平もその棒杭を見たが、途端に声を上げた。

「旦那、あれは人の腕ですぜ」

確かに、棒杭に絡みついているのは、女のものらしい白い右腕である

二人は慌てて、舟をその棒杭に向けた。

溺れたものならば助けなければならない。

しかし、舟が棒杭に近づくと、その腕は急に水の中に沈んだ。

どこかに流されたかと思って、二人はあちこち見渡したが、人の姿はどこにもない。

これは力尽きて水に沈んだか、すでに溺死した死骸がたまたま棒杭に絡まったか、どちらかだろうと思ったが、仁平が北の方向を指さして急に叫んだ。

「旦那、あっちの棒杭に!」

仁平の指さす方向を見ると、等間隔で並んだ棒杭の2本先にさきほどと同じ腕が絡みついている。

また、その棒杭に舟を進めたが、今度も近づくと腕は水の中に消えた。

「旦那」

仁平が声を震わせながら、先ほど来た方向を指さしたので彼も顔を向けると、最初の棒杭に同じ腕が絡まっているではないか。

二人はしばらく棒杭に絡まった腕を見ていたが、これは「船幽霊の類かもしれぬ」と言い合い、そうそうに陸に戻ることにした。

仁平に尋ねたが、そのあたりで女の溺れたという話は聞かないと言う。

石川某はその後何度も同じ場所で鱚釣りをしたが、その怪しい腕を見ることは二度となかった。


               <御菜浦怪異録より>


偽江戸怪談の九作目です。

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