第19話 極上の湯浴み

 湯殿の中で、花園は極楽を味わっていた。江戸では火事を避けるため、かなり大きな屋敷でも滅多に内風呂など無い。


 だがやはり、幕府の御用屋敷は勝手が違うようだ。


ここの湯殿は個人用の風呂としてはべらぼうに大きく、総檜の贅沢な造りであった。勿論湯船には清らかな湯がたっぷりと張られ、遊女でごった返す吉原の濁った湯しか知らない花園にとっては、極上の心地であった。

 

 おまけにここでは世話役の洗い女が二人も付き、熱心に花園に尽くしてくれる。一人は高級な糠袋ぬかぶくろで垢や汚れを優しく拭い、もう一人は花園の疲れを癒そうと白檀の香油を使い、念入りに肩や腰をマッサージしてくれた。この至れり尽くせりの待遇は、先程の仕打ちからは想像も出来ないものだった。


『なるほど。将軍に差し出す前に、極上の女に磨き上げようってことか』

 

 洗い女の手技にうっとりしながら、花園は大奥という場所の特異性に思いを馳せた。表向きは質素倹約が常の徳川であるはずなのに、将軍の女のこととなると金に糸目はつけないらしい。でなければ、高価な香油など持ちだしたりはしないだろう。余程、春日は将軍が可愛いと見える。

 

 であるならば、先程の松風のやり方も理解できる。


『将軍のためなら何でもやる、それが大奥。確かにその通りだな。しかし、見つからなくて良かったぜ』


 花園は自分が作った本当の「密書」のことを思い出した。入浴係に勘付かれぬよう、花園は密かに笑みを浮かべる。


『あの松風とかいうババアめ、まんまと引っ掛かりやがったぜ。もう少し賢いと思ってたな。ま、アイツらには想像もつかんだろう』


 花園の言う通りだった。

 花園が作った密書は、松風が思い描く密書とは全くかけ離れていたからだ。


 それは手紙でも無ければ、書状でもなかった。

 彼女が密書を書きつけたのは……、「かんざし」である。


 それは唯一、幕府の女中たちの目を欺けるアイテムだった。


『あたしの髪は、まだ結えるほどじゃない。ってことは、髪飾りなんて持ってるはずがない。かんざし一つ無くなったって、奴らは気にも留めないはずサ』


 このような状況を見越して、花園は密かに銀のかんざしを隠し持っていたのである。花園は素早く、かんざしの裏に秘密のメッセージをハサミの先で刻みつけた。そして松風が部屋に入って来る直前で、花園は窓の外へかんざしを投げたのである。

 かんざしは松風の目を逃れて無事に塀を超え、屋敷の外へと消えて行ったという訳だった。


 花園は濛々と立ち込める湯気を眺めながら、頭の中で考えを巡らせた。


『あいつらは今頃、私の部屋中をひっくり返して探してるだろう。確かに紙か布に書きつけた密書なら、部屋か着物のどこかに隠してると思うだろうからな。だが……』


 花園は心の中でほくそ笑みながら、静かに肩から流される湯の温かさを楽しんだ。


『密書が紙だと思いこませるために、私がワザと墨を擦って置いてあったってことに、あのババアが気がつくか』


 流し湯の水流にのって、花園の肌の汚れがすっかり落とされる。松風を出しぬいた、花園の得意の絶頂だった。


『後は六条小路のおっさんどもが、アタシの指示通りにちゃんと回収すれば問題解決だ。あのおっさんら、ちゃんとやるだろうか……。ま、そんなことは心配してもしょうがねぇや』


 花園はスッと、座っていた檜の椅子から立ち上がった。湯気と香油を吸った白い肌はますますしっとりと肌理きめ細かくなり、美しさに磨きがかかる。

 院主の様子を見て、洗い女がうやうやしく言葉をかけた。


「院主様。湯船にも花や香を足せますが、いかがなさいますか?」

「そうだね、では茶の葉を足しておくれ。あれは肌が良くなるのぇ」

「かしこまりました」


 その時代では希少な茶の葉もあっという間に用意され、檜の湯船にふんだんに撒かれる。茶の葉はさっと湯を吸い込み、芳しい香りをたてて白檀の高雅な香りと混ざり合った。


『先のことは考えても仕方がねぇ。今はこの極楽を楽しむとするか』


 花園は静かに湯船に身を沈め、柔らかな湯の中に頭の先まですっぽりと沈みこむ。下界とは別世界の贅沢を、全身で浴びる為に。


 ――しかし、この時彼女は知らなかった。


 自分の名をかたった密書が捏造されていることも、頼みの綱のかんざしが、六条小路とは縁も所縁ゆかりもない江戸女に拾われたことも……。

 

語句

糠袋(ぬかぶくろ):江戸時代のボディソープ。米ぬかを木綿の袋に入れ、それで肌を擦ることで汚れを落とした。高級なものになると絹の袋を使用したり、中に鶯の糞などを添加した。


白檀(びゃくだん):高級香の一種。雅びな香りは古来より愛され、珍重された。   


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