第20話 運命の悪戯

 お父様。

 私はずっと、「恋」というものを知らずにいました。

 というよりも、御仏に仕える私に、恋は許されなかったのでございます。


 しかし、なんという運命の悪戯でしょうか。


 ……このことが無ければ、私はもっと、心穏やかに生きることが出来たでしょうに。


***


 玉は、静かに目を開けた。瞳に映ったのは、質素な町屋の天井であった。


「……私、生きてるんだ」


 玉の記憶は、岡場所から逃げ出した夜にバッサリと刀で切りつけられたところまでで止まっていた。どうして自分が生きているのか、どうしてこんな場所に寝かされているのか。玉には全く見当がつかなかった。


「とにかく、起き上がらなくちゃ」


 そう思い身体を動かそうとするが、激しい痛みが走り思うように出来ない。ふと自分の肩を見やると、丁寧に巻かれた包帯に血が滲んでいる。誰が、自分をここに運び込んだのか。誰が、これ程しっかりと看病をしてくれたのか。玉には解らないことだらけだった。


 すると、寝かされていた部屋の襖が、スッと開いた。


「おお、気がつきなすったか。良かった良かった」


 玉が驚いて見ると、そこに居たのは人が良さそうな老人である。町人風の着物を来た彼は、嬉しそうにと玉の寝床の横に座った。江戸に来てからというもの、幾度となく人に騙されてきた玉は、咄嗟に老人と距離を取ろうともがいた。


 だが彼女の身体は予想以上に痛んでおり、傷がただ疼いただけで、全く自分の思うように動かせなかった。その様子を、心底心配そうに老人が見守る。


「おお、おお。おやめなされ。せっかく閉じかけた傷が開きますぞ」

「な、何故私はここに?」


「さる御方の依頼でございます。ご心配さないますな、危害は加えませぬ」

「その御方とは……誰ですか?」

「それよりも、まずこの煎じ薬をお飲みなされ。痛みが和らぎます」


 玉の目の前に、温かな煎じたての薬湯やくとうが差し出される。いかにも効きそうなものだったが、見知らぬ人間からの薬を飲むことは、この時の玉には躊躇われた。だが老人は怒りもせず、ただ玉を見守りながら優しく微笑んでいた。


「そうかそうか。相当怖いめにお会いになったのでしょうな。よろしい、お薬は気が向かれた時にお飲みくださいませ」

「私を、無礼とは思わないのですか?」


「とんでもない。私のような見知らぬ爺に突然薬を飲めと言われたら、警戒するのは当然でございましょう」

「そんな……申し訳ありません」


「いいのですよ。そうだ、包帯が古く成っておりますな。ばあやを呼んで参りましょう。心配することはない、包帯換えに関しては達人ですぞ」

「あの……。私にそこまでしてくださるのは何ゆえですか?」

「言ったでしょう、さる御方の依頼ですと。その方にも早速連絡しなくてはなりませんな。きっと御喜びになりましょう」


 老人はそう言うと、朗らかに笑いながら部屋を出ていった。再び一人ぼっちになった玉は、暫くの間、ただ茫然としていた。

 

 快適に整えられた部屋、行き届いた治療、気が効く世話係……。一体、自分をここに預けた人は誰なのだろう。そんな疑問を胸に抱きながら、玉は疼く傷の痛みに耐えかねて老人が置いていった薬湯に手を伸ばした。


 一口飲むと、苦みと共に薬効の高い薬草の味が舌の上に転がった。


「これは……かなり高価な薬のはず……」


 玉の疑問は更に膨らんだ。確かに、あの老人は町人風の身なりとはいえ、そこそこ上質な着物を着ていた。でも、これほど高級な薬を赤の他人に分け与えられるような金持ちにも見えなかったのも事実である。


「一体、誰が私の世話を依頼したの?」

 

 そう独り言を呟きながら、玉は最後の一滴まで薬湯を飲みこんだ。


語句

薬湯(やくとう):薬草や漢方の煎じた湯薬。

 



 

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