第12話 玉、江戸を彷徨する

 どれ程、歩いただろうか。

 

 金品も持たされず、荷物と言えば数枚の着物しか持たない玉は途方に暮れていた。思えば生まれてこの方、一人で生きたことなど無い。故郷に逃げ帰りたい気持ちが募ったが、金が無い以上それは叶わない。


 しかしそれ以上に、玉は花園のことが心配だった。強い人間ではあるけれども、危なっかしいほどの無鉄砲さを、花園は持っていた。誰かが「抑え」にならなければ、きっと火に飛び込む様なことも平気でしてしまうだろう。

 

 玉はなんとか花園の元に戻る手段を、探していた。しかしもはや、御用屋敷には近づけない。

 だとすれば、この江戸で頼るところは、一つしか残っていなかった。玉は空腹と疲れにより震える手で、見慣れた建物の戸を叩いた。


「ごめんください……」


 しかし、誰も出迎えに来ようとしない。それどころか、建物の中はシンと静まりかえって、物音一つしなかった。


「あのぅ、ごめんください!」


 玉は痺れを切らして、声を張り上げた。誰もいない訳がない、玉はそう確信していた。なぜなら彼女が助けを求めた場所は、御用屋敷に彼女と花園が連れ出されるまでの間、長く暮らしていたあの宿坊だったからだ。玉がこの宿坊を出たのは、つい今朝のこと。ならば、六条小路家の誰かが、まだここに居るはずである。


「誰でもいいからとにかく助けて!」


 そう叫びながら、玉は必死で門を叩いた。ここまで辿りつくのに時間がかかってしまい、もう玉のすぐ後ろには、夕闇が迫っていた。例え天下の江戸とはいえ、女一人で夜を明かすのは危険すぎる。玉は心細さと不安で、一杯だった。


「助けて、助けて!」


 まさか江戸まで来て、こんな目に遭うとは。玉はやるせなさで一杯になりながら、手が痛みで動かなくなるまで、ひたすら門を叩き続けた。


「ああ、もうダメ……」


 とうとう玉は体力の限界を迎え、門の下で倒れ込んでしまった。生まれてこの方、六条小路邸と慶光院しか知らなかった彼女にとって、今日のこの仕打ちは過酷すぎた。

 まだ梅も咲き揃わぬ、初春の寒空の下。次第に夜の冷気が玉の小さな身体を蝕み、意識が段々遠のいていく。

 

 しかし玉はふいに、何者かに揺り起こされた。


「おいおい、こんなところで寝たら死んじまうぞ。なんとまぁ、よく見れば可愛いお嬢さんだ。さ、ウチへおいで」


 見ると貧しい身なりをした老人の男が、玉を揺り起こしている。玉は凍死寸前で親切なこの男に助け出され、彼の住むボロの長屋へ運び込まれたのである。



語句

長屋(ながや):江戸の庶民が住む集合住居のこと。仕切って多くの世帯が住めるようにした、細長い建物。

 

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