第4話 あの日の「ごめんね」
姿見に映る私は脱け殻のようだった。虚ろな目の下には殴打の痕みたいな濃いクマができていた。血管の透けた頬、薄紫色の唇。肩の上であちこちに跳ねるボサボサの髪。膨らみにかけた胸は女性的という形容からはほど遠かった。浮き上がった肋骨、砂時計のようなくびれ、骨盤の輪郭。また少し痩せたかもしれない。
食べ物の味が以前よりも美味しく感じられなくなっていた。体重は日を追うごとに落ちていった。冬服のブレザーは酷く重かった。スカートは中にセーターを入れて穿いた。それでもなお緩かった。ダイソーでベルトポンチを買って新しく穴を開けた。
ある日私に声を掛けてくれた女の子がいた。その子は団子鼻でぽっちゃりとしていて、私の体型を羨ましがった。私はこの子と友達になり、攻撃からも逃れ、学校生活を乗り切ることができるかもしれないと思った。
「どうしてそんなに細いの?」とその子は訊いた。
「食べられなくて」と私はありのまま言った。
「何それ馬鹿にしてんの?」とその子は私を睨み付けながら言った。
そういうつもりじゃなかったんだけどな、と私は思った。でもその子はもう二度と私に近寄ることはなかった。
ある別の子も私の体型について口にした。自分にはそれ以外に特徴がないのだろうと思った。個性のない人が「優しいね」と褒められるように。
「体調が悪くて」と私は答えた。
食べられないんだとは言わなかった。同じ失敗を繰り返したくなかった。飲み込んだ言葉はどこかに捨てられてしまうみたいで歯がゆかったけれど、それは適応するために仕方のないことだった。しかしその子は不機嫌そうに片方の眉を吊り上げて言った。
「美結ちゃんって何考えてるかわからないよね」
どちらかを言ってうまくいかないのであれば、どちらとも言おうと思った。でもそれはうまくいかなかった。
「宮野さんってめんどくさいね」と一人が言った。
「嫌われたくなくて必死っていうか、なんか八方美人みたいな感じする」と一人が言った。
「言っちゃ悪いけど気持ち悪いよね」と一人が言った。
次は黙っていようと思った。
「黙ってるほうが楽なんだろうね」と一人が言った。
ごめん、とだけ私は言った。
「謝れば人と対立しなくて済むからね」と一人が言った。
「誰かを責めるのが怖いだけだよね」と一人が言った。「でもそれってさあ、人と関わるのを拒否してるだけじゃない?」
「だから友達できないんだよ」と一人が言った。笑い声が上がった。
帰り道、跨線橋から空を見た。山々の陰に夕陽の半分が隠れ、沈む前に最後の輝きを放っていた。輝きは橙や桃や薄い紫と溶け合い、混ざり合い、いくつもの層を作っていた。層の上にはくすんだ青い空が広がり、一番星が寂しそうに佇んでいた。
見慣れた空のはずなのに、それまでに見たどんな景色よりも美しく感じた。ふと思い出した。榎本さんは保健室で私の字を見て、今までに見た字でいちばん綺麗だと言っていた。榎本さんはきっと全て知っていたのだと思う。机のことも、雑巾のことも、教科書のことも、それが私だということも。今になって少しだけ、「ごめんね」の意味がわかったような気がした。あなたが思うほどあなたは醜くないよ、と私は思った。
跨線橋の真ん中、眼下では自動車が間断なく行き交っていた。手すりに腕を乗せた時、誰かが私の名前を呼んだ。
「宮野」
クラスメイトの男の子だった。彼は反対側の階段から駆け戻って来たらしく、膝に手を置いて荒い呼吸を繰り返していた。
「どうしたの?」と私は訊ねた。
「忘れ物を取りに来たんだ」彼は逆光に目を細めながら言った。「どうでもいいはずなのに、いやに気になって」
意味が掴めなかった。私はなんとなくそっぽを向いた。視界の端で大型トラックが走っていた。その姿を目で追った。
「宮野?」
私は彼に向き直り、先を促すようにうなずいた。
「責任を感じるほど、宮野は榎本に関わってないと思う」
それは傷付けるための言葉にも聞こえたけれど、私の耳は言外に含まれる温かい響きを聞き逃さなかった。おそらく彼は何十枚ものフィルターで「気に病まないで」を濾過したのだろう。
気休めが気休めとして機能しない人にとって、明るい言葉よりも暗い言葉のほうが頼りになる。そういったことを彼は知っていた。肝心なときに頼りにならない言葉にどれだけの価値があるのだろう? 本当に困った状況で聞きたいのは、「頑張ってね」ではなく「誰も期待してないよ」だと私は思っている。
世界には弱い人だけが発するオーラのようなものが存在していて、それは同じく弱い人にしか感じ取ることのできないものだった。そしてそのオーラを私は彼から感じ取っていた。
太陽が完全に沈んだ頃、彼は再び口を開いた。
「榎本は一人で勝手に死んでいっただけだ」
私はその言葉をいつまでも忘れられないだろうと思った。
それが彼の名前だった。
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