第2話 オリフィス

 ある朝。駅に続く大通りで、背の高い女性が私の前を歩いていた。肩下の長さの髪が風にそよいでいた。フレアスカートの下からすらりとしたふくらはぎが伸び、パンプスの足音が規則正しく奏でられていた。たおやかな後ろ姿だった。


 気が付けば私は歩調を早め、女性の後ろ姿に「榎本さん」と呼びかけていた。女性は振り向かなかった。三歩分という距離だったが、聞こえなかったのだろうか? 私は再び名前を呼んだ。しかし女性は微動だにしなかった。駆け寄ってみる。一歩。二歩。三歩。


 顔を見ると、全くの別人だった。年齢は20歳ぐらいだったし、前髪はアシンメトリーで八重歯が覗いていた。女性は足を止めると、眉をハの字にしてぎこちなく笑った。


 「ごめんなさい人違いでした」私は早口に謝った。頭を下げる他なかった。「すみません。本当に……」


 気にしないでください、と女性は言った。

 立ち去るべきなのに立ち去れず、立ち尽くしたまま背を見送った。女性は角を曲がる際にこちらを向き、丁寧に会釈をして消えた。


疲れがどっと押し寄せてきた。呆れて溜め息が出た。何を馬鹿なことをしているんだろうと私は思った。榎本さんはもういないのに。


 いつからだろう?


 私は榎本さんのことを自分の分身みたいに感じていた。私たちはよく似ていたし、少なくとも他人だとは思えなかった。つい学校を休んでしまいそうになる日も、榎本さんに会えるんだからと思うと心が晴れた。彼女は私にとって光のようだった。


 榎本さんは9月1日の未明に首を吊って死んだ。それを学校で知った際、同時に私の一部も死んだような気がした。彼女の死は私の心に深い穴を空けた。


 気が付くとぼーっとしていた。


 手を洗うと水道は流しっぱなしで、カップ麺に湯を注いだまま食べるのを忘れることさえあった。本を読んでも文字を追うだけになり、内容が頭に入らなかった。何をしようとしていたんだっけ、と一日の中で何度も思った。目が乾いて我に返ると、ベッドに座ったまま何時間も経っていた。



 「行動を起こしていれば榎本さんは死ななかった」とは到底思えないけれど、どうしても慚愧に苛まれた。どうして自分が生きていて他の人が死んでいるのかという罪悪感があった。罪悪感があるということは死から何かを得ているのだし、それもまた申し訳なかった。罰を与えられたい気持ちでいっぱいだった。


 私が彼女の胸中を探らなかったのは、他人の苦しみなんてわかるわけがないという思いからだった。結局のところ他人はどこまでも他人であり、いくら似たような境遇に置かれようとその苦しみを理解することはできない。追い詰められた人を言葉で救うことができるとは思わないし、できる人がいるとしても自分もその一人だとは思わない。


 でも、と私は思う。


 私はそれらを建前にすることで、都合良く色々なものから逃げているのではないか? 榎本さんの苦しみと向き合う恐怖。差し伸べた手が振り払われる不安。心地よい関係を壊してしまう可能性。他人に踏み込む勇気のない自分。そういったものに背を向けていたのではないか?


 目の前に飢えた人がいて自分は食料を備えているのだが、「口に合わないだろう」と餓死させてしまった、ということもありえるのではないか?


 私はわからないと塞ぐばかりで、わかりたいと願わなかった。他人の苦しみなんてわかるわけがないけれど、それでもあなたの言葉が聞きたい。きっとうまく伝えられないけれど、あなたに話を聞いてほしい。そういうことを言うべきだったのかもしれない。榎本さんの生死に関わらず。

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