少しのあいだ目をつむること

七井湊

第1話 二匹の野良猫のように

 私たちは孤独だった。

 高校生活が始まってすぐ、私と榎本さんは余り者になった。声を掛けてくれる女の子は何人かいた。でも打ち解けることはできなかった。やがてクラスにはまとまりができ、みんなはそれぞれのグループに分かれていった。あの二人は仲が良い。あの三人はいつも一緒にいる。そんな風に。しかし私と榎本さんは賑やかな教室の隅にいた。


 お互いのことはよく知らなかったし、取り立てて一緒に居たいわけではなかったけれど、二人で過ごす機会は多かった。とにかく一人で居ることを避けたかったのかもしれない。「あの子は一人ぼっちだ」と思われるのはしんどいことだった。


 昼食、選択科目、グループワーク、体育の準備運動。孤独を感じやすい状況に置かれると、私たちはそっとそばに寄った。まるで寒さを凌ぐ二匹の野良猫のように。


 榎本さんは目立たない存在だった。誰もが褒める長所はなく、かといって誰もが貶す短所もなかった。みんなの影に隠れていた。空気と呼んでもよかったかもしれない。


 しかしよく観察してみると顔立ちが整っていることに気が付いた。それぞれのパーツには欠点がなかったし、歯並びはとても綺麗だった。体は細く身長は高かった。私の目の高さに彼女の口があった。肩下までの梳かれた黒髪が似合っていた。普段はほとんど声を発さなかったが、現代文の朗読で聞く声は澄んでいた。いつまでも聞いていたいと思った。


 本当に不思議だったのは、榎本さんが誰とも関わりを持とうとしなかったことだ。


 隣の席の男の子に話しかけられたときも、ただ力なく笑顔を作るだけだった。あるいは小声で「そうかもね」と答えていた。何かを訊ねられると「どうだろう」と考え込み、適切な言葉を探していた。でも言葉を見つけることはできなかった。時間だけが過ぎていった。「答えにくかったかな」と話し相手は切り上げた。榎本さんは首を振った。それから歯を見せずに微笑んだ。


 ある種ぶっきらぼうな態度は同級生の顰蹙を買った。何を考えてるのかわからない、ちょっと変わってる、見下してる、障害があるんじゃないか、等々。陰口は榎本さんの耳にも届いていた。特徴がないと関わり方がわからないからレッテルを貼るのだろう。でもそれがわかったところで楽になるわけではない。


 季節は梅雨に入っていた。


 攻撃は少しずつ陰湿になっていった。主犯の女子たちは必ず教師の居ない隙を突き、もし見つかっても言い訳が利く範囲でおこなった。とても狡猾だった。


 榎本さんが教室を歩くと女子は足を引っ掛けた。教科書に愚かな文句を書いた。机の向きを前後逆にし、椅子にチョークの粉をこぼした。班行動の際はリーダーを押し付けた。一つ一つは地味だったが、それらは執拗に繰り返された。榎本さんはただじっと耐えていた。


 私は榎本さんが来る前に登校して彼女の机の向きを直し、椅子の汚れを拭き取った。榎本さんに知られると善意の押し付けみたいで嫌だったし、外掃除の私の雑巾がチョークで汚れているのは不自然だったから、石鹸を使ってちゃんと色を落とした。私の指の第二間接にはあかぎれができていた。それから自分の教科書の名前欄に『榎本絵理華』と筆跡を真似て書き、榎本さんの居ないあいだに自分の教科書と交換した。


 私への風当たりは強くなった。でもそれは彼女の痛みに比べれば小さなものだったし、私は喜んでやることができた。その一方ですごく申し訳なかった。かえって苦しめてしまうのではないかと不安だった。こういった行動は時として暴力に成り果てるからだ。勝手にわかったようなことをしないで、と。


 榎本さんがそばにいることが増えていた。私は人混みが苦手だったから、移動教室の際はできるだけ長く教室に残っていた。古本を読んで時間を潰し、「そろそろ行かないと」と立ち上がると、まだ教室に残っていた榎本さんもちょうど本を閉じるところだった。


 月曜日の一限、これといった理由もなく教室に入れないとき、保健室へ行くと榎本さんが居た。私が先で彼女が後ということもあった。


 養護教諭はどうしたのと訊いた。

 私たちは曖昧に答えた。

 私が来室記録カードに『1ーA 宮野美結 腹痛』と書くのを、榎本さんはじっと見つめていた。それから彼女は涙ぐんだ声で言った。


 「宮野さんの字は綺麗だね」

 「そうかな」

 「今までに見た字でいちばん綺麗」

「大げさだよ」と私は笑った。「でもありがとう。嬉しい」

 「ねえ、宮野さん」と彼女は微笑んだ。「……ごめんね」

 「どういうこと?」

 「なんでもない」

 「また話そうね」

 それから平熱の体温を計り、二限には二人とも出席した。



 ある日の放課後、図書室へ入ると榎本さんの姿があった。彼女は中島梓の『コミュニケーション不全症候群』を読んでいた。時々テーブルに本を置き、手で押さえながら熱心にメモを取っていた。私もその本を読んだことがあった。


 49ページの『かれらにはおしのけられたらおしのけかえして自分の場所を確保するだけの基本的な力がなかったのだ』があまりにも的確だと思った。暗唱できるようになるまで音読した。その度に私は頭を撫でてもらっているような思いだった。


 普段は目立たないけど実は魅力のある子が、自分と同じものを知っている事実が嬉しかった。心が躍るようだった。

 つい、声をかけてしまった。

 「榎本さん。それ」

 「宮野さんも読んだことあるの?」

 「うまく言えないんだけど、すごくしっくりくる本」

 彼女は歯を見せて笑った。「どの文章も適切な気がする」

 「榎本さんはどんなところが好きなの?」

 「あたしが好きなのは」と彼女は言った。そして49ページを開き、人差し指で行を示した。「ここの、『かれらにはおしのけられたらおしのけかえして自分の場所を確保するだけの基本的な力がなかったのだ』というところ。これが本当に素晴らしい」


 私はその時の気持ちを表現することができなかった。脳は未知の感情に名前を付けようとした。でも感情は手垢まみれの言葉を嫌がった。雪国の家の窓からこぼした水が地面に触れる前に凍ってしまうように、もし言葉にしても彼女に届く前に形が変わってしまっただろう。歪な贈り物になるぐらいなら何も渡したくなかった。少なくとも私はポジティブな気持ちになったけれど、そんな言葉では圧倒的に足りなかった。


 代わりに私は暗唱した。

 榎本さんは信じられないという顔をした。

 その瞬間、私たちは一つになった。榎本さんは言葉を探した。でも何も言わないことを選んだ。はにかんで笑っただけだった。私も絶対に聞きたくなかった。きっとそれは口にしてはいけない類の繊細な言葉だったから。彼女もそれがわかっていた。私が「私もその言葉が好きだよ」と言わなかったように。



 それまでは考えもしなかったけれど、私たちの趣味は一致していた。好きなアーティストもそうだったし、どのぐらい好きなのかという熱量もそうだった。誰にも話せない気持ちを彼らに共感してもらっていた。同級生よりはアーティストのほうを身近に感じていた。


 学校では自己主張がなかった分、歌詞を考察し物語を紐解くことで、心の奥にある気持ちを控えめに発信していた。個人的な楽しみが私たちの接点になった。私が教えることもあったし、彼女に教えてもらうこともあった。


 伊坂幸太郎の『グラスホッパー』は罪悪感に勝った人だけが生き残るんだよ、と私は話した。

 Miliの『Nine Point Eight』は追いかけ自殺じゃなくて生まれ変わりの歌なんじゃないかな、と彼女は話した。

 米津玄師の『neighborhood』にある『それ』が意味するものについて私が話すと、彼女は同じく米津玄師の『undercover』にある、『もう散々確かめたこと』が意味するものについて話した。


 手持ちの考察を伝え終えてしまうと、今度は単純に好きなものについて話した。


 「バンプの『66号線』の歌詞が好きなの」と放課後の教室で榎本さんは言った。二人きりだった。彼女は私の前の席に座り、椅子をずらしてこちらを向いていた。「『あなたを無くしても僕は生きていく それでも信じていてくれますか』。この歌詞の行間が本当にすごいの。『それでも』の4文字だけで、いくつもの意味があるのよ。信じていてくれますか、と歌ってるけど、これはもちろん疑問じゃなくて願いなの。あなたがそばにいなくても僕は生きていける。それはあまりにも卑怯で薄情で、力のない言葉だとわかっている。それでも聞いてほしい。という願い」


 彼女は背もたれに手を掛けて身を乗り出し、目をきらきらと輝かせて語った。でもすぐに恥ずかしそうに唇を結んだ。それからわけもなく座り直し、まばたきを繰り返して前髪を整えた。榎本さんはこれまで、誰かに好きなものを話す機会がなかったのだと思う。初めて見る表情だったから、なんだか独り占めしているみたいで嬉しかった。このまま榎本さんに友達ができなければいいと思った。


 私たちの距離は少しずつ近付いていた。しかし折しも学校は夏休みに入った。学校は楽しい空間ではなかったけれど、榎本さんと話せるならそれで構わなかった。夏休みのあいだ彼女に会えないことのほうがよほど苦痛だった。


 私は自分と榎本さんが一緒に居る姿を思い浮かべた。私たちは片方ずつイヤホンをはめ、同じ音楽を聞いている。二人のあいだにはイヤホンコードがたるんでいる。少し肌寒い7月の午後、日の当たるベンチに座りながら。


 榎本さんのことを考えると胸の奥がうずうずした。声が聞きたかった。隣を歩きたかった。でもそれは叶わなかった。榎本さんは自殺した。

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