2201/7/25/07:19 棗

戦争は、すぐそこまで来ているのだろうか。


わたしには分からない。

それが現実にこの国で起こるかも知れないということすら上手く理解できない。気配が感じられない。

けれど、戦争の危機が本当なのだとしたら、それは気配を殺し、足音を忍ばせ忍ばせ思いもよらない瞬間に──やって来る。

そういうもののような気がしている。




朝、目が覚めたとき軽くパニックになってしまった。

見慣れない天井の色。

賑やかな物音。

人の声。

わたしはどこに居るんだろう、とひととき動揺して、それから思い出した。

──地下に泊まったんだ。

泊まるどころかここに住むのだ。

地下にはバスルームはない。

六つあるシャワー室を皆が交代で使い、ざっと汗を流せるだけだった。

地下にはベッドはない。

ケルスティンがどこからか持ってきた薄いマットをフロアに敷いた。その上で寝た。

ここは本当にセンターとは違う。起き上がろうとしたら、体がみしみし痛かった。


わたしは壁に背中をぴたりと着けて、おさなごのポーズでひとり座っていた。不安になるときの癖なのだ。胸に膝を寄せてうずくまるこの姿勢は、わたしを少しだけ安定させる効果を持っている。ケルスティンは起きて早々ちょこまか動いて、いつのまにかわたしを放ってどこかへ行ってしまった。

──どうすればいいか分からない。

だから長いことずっとこの姿勢でいる。

地下の朝は忙しい。彼らは全体でひとつのグループのようになっていて、皆が同じ流れで活動する。ケルスティンに聞くところによると、食事や掃除、洗濯などの日常の雑事はそれぞれきちんと組織されルーティーンで行われているそうだ。

ケルスティンがせっかくここに住めるようにしてくれたけれど、わたしは早くも挫折しそうだった。

あの人たちの中に、入れない。挨拶すらしていない。

よく分からないのだ。

センターでは何も言わなくても職員が何でもやってくれて、それで必要なものは全部揃った。

けれどもここはどうやら違う。地下の社会はみんなが協力し合うことによって成り立っている。

やってもらう側とやってあげる側。

ここにはそういう区別は存在しない。わたしは、それについてゆくことが出来ない。

──でも、しょうがないよ。

わたしはここで生まれた子ではないのだから。今までそんな事、やったことなどないのだから。

しばらく自分の膝だのコンクリートの壁だの、見ていた。


「ほら」

片手にマグ、片手にパンを二個ずつ持ったケルスティンがようやっと来て、わたしの隣にどん、と座った。

「朝ごはん。食べな」

躊躇いながら受け取ったマグは年季が入っていて、色とりどりの野菜くずが混ざった薄茶色のスープが湯気を立てている。手に持つとじわりと温かい。パンは多分業務用のもので、日が経っているのかちょっと硬い。珍しくてしばらくそのまま見つめてしまう。

「やっぱお嬢様じゃん」

ケルスティンはパンをスープに浸しながらそう言った。

「何したら良いか分かんないんでしょ」

「だって」

だってそんなのした事ない。それに、何も分からないわたしを置いて行ったのはケルスティンじゃない、と思う。

「なんにも言われてないし──」

「なにそれ。何か言われんの待ってるわけ? おはようございますとか、何したらいいですかとか、自分から近づけばいいんだよ」

「できない」

「なんで」

「……わかんない」

はあ、とケルスティンは大袈裟なため息をつく。

「ナツメさ、ここでやってける? 」

そう訊いたが、わたしに答えは求めていないようだった。

──どうせ足手まといになる。気も利かない。

ケルスティンの兄はそんなふうに言ってわたしがここで暮らすのを反対したのだった。あのときはどうしてそう言ったのか分からなかったけれど、今思い出したら胸が痛くなる。自分の力で生活してゆくことと、コミュニケーション能力が関係しているなんて思いもしなかった。必要なのは行動力と賢さなのだと思っていた。

無言になった二人の間で、ずう、というスープの音だけがやけに大きく響く。

「さっき──どこ行ってたの」

重い空気に耐えかねて、わたしは話題を変えた。

「上でスープ配ってた」

ケルスティンは軽くマグを持ち上げる。

「大抵はさ、大人が料理を作る。そしたら子どもが配る。子どもそんなにいないけど。それで大体家族ごとのスペースが決まってるからその単位で集まって食べるパターンが多いかな」

「家族」

「そう」

不思議な感じがする。地下はひとつのグループみたいだとは思ったけれど、家族というシステムに普段触れないから全く頭になかった。そこでようやく思い至る。ケルスティンにだって家族がいるはずなのだ。

「ケルは? 今日──」

と言いかけたわたしははっとして、わたしのため──と問うた。

「それもあるけど。昨日ロイと喧嘩したから」

その喧嘩の原因は、わたしだ。

「ごめん……」

けれどケルスティンはすぐごめんとか謝っちゃだめ、となぜか怒った。

「ナツメ弱そうじゃん。だから尚更言っちゃだめ」

わたしはまたもや不可解さを感じる。ケルスティンは決まりきった事みたいに言うけれど、その理屈がわからない。なんで弱そうだったら謝っちゃいけないんだろう。でも、そんなものなのかなとも思う。よく分からない。

よく分からないまま頷いた。

センターの職員は、素直な心が大切だと言う。誰かに迷惑をかけたり気分を悪くさせたら、自分から謝るべきだと言う。今朝は出来なかったけれど、本来は自分から挨拶をしたり礼儀を守るようにも厳しく指導されている。だから、ずっとそれが正しいと思っていた。

でも──どちらが正しいかは別として──思い返してみると、わたしは今まで何が正しくて何が間違いか、自分できちんと考えたことがない。

そう気がついた。

「どうせロイとはしょっちゅう喧嘩してんの。昨日の原因がたまたまナツメだってだけ」

「喧嘩って、そんなにしょっちゅうするものなの? 」

他人と喧嘩なんてしたら、わたしはとても落ち着かなくなると思う。そもそも誰かと衝突するほどの近しい距離感になるのは怖いと思う。

お前やっぱり変な奴、とケルスティンはただ面白がった。

「でも、親は? ──親はなんにも言わないの? 」

食事のときに自分の子どもの姿がなければ、親というのはたぶん心配するのではないだろうか。家族なのだから。

マグを傾けてスープをくるくると回していたケルスティンは一瞬わたしを見て、それからまた視線をスープに戻した。

「親は死んだの」

「──え? 」

「死んだ」

死んだよとケルスティンは繰り返した。

「そういうもんなの」

ケルスティンの口調はあまりに素っ気なくて、わたしは却ってどうすればいいかわからなくなる。結局、沈黙した。

そういうもん──とはどういう意味なんだろう。ケルスティンの親はどうして死んでしまったのだろう。親が死んだら、子どもはどんな気持ちになるんだろう。

──多分、悲しい。

けれど感じるのはきっと“悲しい”だけじゃなくて、わたしの知らない、もっと複雑な何か。そういうものもあるんじゃないかと思う。

分からないことは沢山あったのだけれど、何だか何も訊けなかった。

気安く触れてはいけないような、そんな気がした。

「スープ、冷めるよ」

ケルスティンは笑った。

「べつに不幸とかじゃないんだと思う。ナツメにだって親、いないんだしさ」

そうだった。わたしは捨てられた。

「そうだね」

わたしはスープを飲み干した。




「自由には責任が伴うの」

伴う、などとケルスティンは大人みたいな言葉を使う。わたし達は空になったマグを持って地下一階のフロアに向かっていた。ケルスティンは先を進みながら続ける。

「好きなこと出来るけど、責任は全部自分にある。誰かのせいにするとか、出来ない」


お前のこと訓練するから、とすでに決定事項のようにケルスティンが言い放ったのは朝食後すぐのことだった。「自分の力で生きてくって決めたんでしょ、だったら挨拶も出来なくてどうすんの」というのが彼女の言い分だ。ケルスティンはわたしと同い年なのに、わたしよりずっと年上みたいに見える。ケルスティンがわたしに課した訓練は、マグを洗い場に持って行ってそこにいる人たちに挨拶し、洗い物を手伝うというものだった。

移動しながら改めてところどころに散らばって食事する地下の人たちを観察する。男の人も女の人もいるけれど、歳を取った人はあまり見ない。センターも同じようなものだけれど。

──わたしの事、捜してるかな。

ふとそんなことが頭を過ぎった。今頃センターの保護職員たちはあちこちわたしを捜しているのだろうか。日菜子さんや真希さんは頭を抱えているだろうか。そうだったらなんだか申し訳ない。まさか四十階の窓から脱走するとは思わなかっただろうし、オフィシャルカード不携帯で地下に保護されたわたしを捜し当てるのは至難の業だろう。

あのとき、職員たちがそろって険しい顔つきをしていたのは戦争の噂のせいだったのかなと今は思う。だとしたらわたしの事で一層険しい顔をさせてしまっているに違いない。

「ねえ、聞いてた」

「──あ、聞いてた」

「本当にぃ? 」

ケルスティンは強そうな目でわたしを見る。

怖い、と思う。

「なんかテンポ遅くない? ぼうっとしちゃ駄目だよ」

ぼうっとしていたのではなく、考えていたのだ。けれど何だか上手に言えない。ケルスティンの言う“ぼうっとしている”というのは、わたしの思う“ぼうっとしている”とは違う気がする。

ケルスティンが前に向き直ったとき、その先にいる人影にわたしは気づいて硬直した。ケルスティンの兄──ロイがちょうどこちらへ歩いて来るところだった。

ケルスティンは無視してすれ違おうとしたけれど、ロイは立ち止まった。彼女も仕方なく歩みを止める。

「その子、センターに帰して来な」

ロイの声は、静かなのになぜか強い。

「なんで。家出したって言ったじゃん」

そんなのただの世間知らずだろ、そう言ってわたしをちらりと見る。

「そのうち自分から帰りたいって言うんじゃないの」

居心地が悪かった。

その通りなのかも知れない。今まで考えもしなかったけれど、わたしはただの世間知らずなのかも知れない。なんだか急に恥ずかしい。

「何でいっつも、そういう──」

ケルスティンが次に発しようとした言葉は突如掻き消された。

警報──だろうか。

甲高く不快な警戒アラームが前触れもなく上のフロアの方から響いた。出どころは恐らくスクリーンだろう。地震予測でも大雨警報の音でもないそのアラームは雑音に満ちていた地下街を一瞬にして静まらせた。

何だろうと言い合う間も無かった。

直後、どん、という低くて大きな音と振動が来た。ぱらぱらと天井からコンクリートの破片が落ちる。

「何、今の」

ケルスティンは体勢を崩して尻餅をついている。

「これ──多分爆撃だ」

ロイは見上げてそう言った。

「──え? 」

「北西の方に落ちたと思う。爆撃されたの、センターかも知れない」

行こう、とロイは走り出した。ケルスティンも立ち上がってわたしに手を伸ばす。

「行こ」

そのまま引っ張られて走った。

わけが分からないまま走る。

階段を跳ぶようにして上る。

──戦争が、始まってしまった?

これは現実だろうか。ここは日本だろうか。わたしの中で不安だけがぐるぐる回る。

バクゲキというのは多分、破壊兵器によって攻撃されたという意味だろう。

──爆撃されたの、センターかも知れない。

だとしたら。

だとしたら、センターは。


もう家出、したのに。わたしはセンターとは関係ないのに。センターのこと、あんなに窮屈に感じていたのに。

なのにこの気持ちは何なのだろう。どうしてこんなに不安になるのだろう。


──センター、無事でいて。


慣れない階段に息を切らしながら、わたしは誰かに願った。

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